2013年11月30日土曜日

嵐山が締めの紅葉撮影

 身体も頭も四日目にはだんだん重くなって、朝食のときにようやく祇園と決まった。前日の宴は、料金も味も酒もよかったし、店の場所も近かったが8時から次の客が入るのでということだったので、部屋に戻ってまた一杯飲むことになった。それなのに行く先の話を決めていなかった。不要な荷物をホテルから駅に送ってもらって、タクシーで祇園へ。

 だいたい、芸妓さんが歩いているときだとか、朝方か夕方前に街が動き始めたときがいいと、勝手なことを喋りながら、車を降りるとなるほど川沿いの料亭はシンとしていて、カメラをもった人ばかりが、チョロチョロしている。我が組もそのチョロチョロ組にウロウロしながら参加する。紅葉はもう終わっていて、葉が一部しか残っていない。アングルを考えながら苦戦していると、そうこうするうちに白川の通りに新婚さんがやってきた。写真を撮る人が一緒で、背景を変えながら記念写真をとっているかのような様子だった。居合わせた観光客が取り囲んで、堂々と前から撮りまくっていた。

 料亭街へ回ると観光客も一段と増えて、車の行き来もかなりあって賑やかだった。目の前の横町から急に、芸妓さんが出てきて、カメラを構えるゆとりもなくすれ違って行った。しょうがない、失礼して後ろ姿を撮らせていただいた。大規模なお茶会があって、交通整理にあたっている人が、声をかけてきた。外人が多いが、料亭街には金が落ちないと話していた。日本料理が楽しめないし、高い料金ではなかなか入らないらしい。


 嵐山に着いたら、人の多さにまたびっくり。目的の寺は街人が多いのでパスして、竹林に向かう。竹林を歩く人もぞろぞろと、写真を撮るには左右前後を気にしながでないと邪魔になる。テレビで放映される静かな気配など、これっぽっちもない。


















2013年11月29日金曜日

散りゆく紅葉

 紅葉の時期は、なかなか計れない。現役生活をとうに卒業したものであっても、紅葉が黄色から赤にかかるちょうどいい時期に合わせるのは難しい。写真を撮ったものが成果として生きるというナマな世界でなくて、趣味の世界から抜き出したいと願うことをモットーとする「写真屋」の場合はなおさらだ。
だいたい、それなりの用向きもあるし、一緒に行く人の都合だってあるわけだから。

 レンタカーを利用して、源光庵、光悦寺、三千院、寂光院と回る。カーナビの目的地選択で、「寺社」から探したが「源光庵」が出てこない。古いカーナビだからかなどと話していたが、後で、「寺社」からの検索ではだめだたことが分かった。いずこもまた、人並みのなかで泳ぎまわりながらの撮影だった。紅葉はどこも、ほぼ終末に近づいているようだった。

夕食の楽しみはホテル近くの「料亭と一杯飲み屋」の中間クラスの店。ホテルが紹介してくれた。値段はちょっと高めだったが、料理は皆旨かった。紹介されたところが、予約でいっぱいだったので、その店が姉妹店に案内してくれた。五軒置いた並びにあった 。店の名が「五けんしも」なんだそうで、こういうところがいいね京都は。
  













2013年11月28日木曜日

賑やか京都

 紅葉を撮りまくるための3人ずれが歩き回る寺は、時節柄どこも混んでいる。賑わいの主力はやっぱり女性だ。女性群が連なって歩き、それに若いペアと熟年ペアが入り混じる。東京の新宿駅だとか、池袋駅だとかのすれ違いが寺の境内で再現されているかのようだ。その廊下に座り込んで庭園の紅葉をその場からスマホで撮っている。カメラを構える人は少数派で、電車の中と同様にスマホ派が凌駕している。立派なカメラを持つ写真屋は、負けじといいポイントを歩き回る。

 スマホはかなり鮮明に写真を撮れるようになったそうだが、どこのポイントでも競合してしまう。ポイントと対象の撮りようによってはいい写真が取れるだろう。写真屋の人口は急激に増加していることになる。昼の食事はニシンそばだ。6.7番目に予約の帳面に書き込んで、近くをうろうろ写真を撮りながら時間つぶしをした。店の人は手慣れたもので、順番が来ると大声で店に呼び込んでいた。昨日は湯葉うどんだったから蕎麦にしたが、ゴマ豆腐と葛餅がついて1000円也。ここもご婦人方ばかりが目立っていた。


















2013年11月27日水曜日

京都で紅葉を撮って、煩悩が取れるか

 年を重ねて、酸いも甘いも噛み分けたのかどうか。自分だけが苦労したと思っていることを、いやいやたたみこんでちょっと軽く箱にしまっておくことができればいいといつも思うけど、たやすいことではない。そう整理がつけられれば成功だろう。ところが己のような凡人には難しい。細胞の動きがだんだん緩やかになってくる。いままで簡単にできていたことがそうはいかなくなる。と、やけにものごとに苛立つことになってしまう。さして得意でなかったことも、よけい難題に見えてくる。

 あたりまえに面倒なことが重みで余計に避けたい気持ちが高じてくる。人並みじゃあないか、取り繕ってやることもあるだろというときもあるが、しかし気持ちはとっとと逃げ出す。流れは自分中心と言うわけにはいかない。返って棹をさして進めるごときの所業にとらわれるときもある。もっとも自分でまいた種だってあるわけだし、関わっているものもあるのだから、その責任に知らぬ顔をしたいものだと思うこともある。それもなかなかうまくゆかない。

京都に強いて行きたいと言ったわけでもないが、写真合評会グループの三分の一としては、愛想のない返事をすることは普通できない。多少の写真道具を取りそろえるとやっぱり使いたくなるという気持も一緒に手伝う。
 何回も来ている先輩の折々の気遣いで、勝手を知らない京都の寺と街中を旨く泳ぎまわる。新幹線を下りた時から、ツアー軍団に圧倒されていた。東福寺と泉涌寺で紅葉を撮り歩いたが、人の波の中で前後左右を気にしながらの道行だった。折角の寺巡りに、紅葉だけ見るのではなくて、煩悩のおさまりどころを追求するのも手だが、そんなゆとりは持てない。とりあえずは人よりいい写真を撮り当てなくてはならない。

 ホテルに戻って、ニュースで特定秘密保護法案の衆議院可決を知る。日本写真家協会が「成立に強く反対」の声明を昨日出したということだったが、どんなときでも事実を切り取ることができる写真を制限し、歴史の記録を認めないことで、戦争の道へのめり込むことに同意できないのは当然のことだ。先斗町の路地には、外国人の客がたくさん歩いていた。平和でなくては成立しない日常を汚すことは許されないことだ。


2013年11月26日火曜日

寸又峡の紅葉は悪くなかった

 富山では時ならぬ雪崩も起きて、気候の変動の影響を軽く見ることができない。「遊ぶ経済効果」に期待される時代だから、安全に四季折々の楽しみを味わうようにしたいものだ。どんどん減らされていく年金を叩いていくのだから、紅葉の時期もピッタリでなくてはならない。

 そんな思いを持って訪れた寸又峡は、すでに秋の終わりのような気温だった。昨今の暖かさになれた体に寒さを浴びせられたようだった。温泉はまたぬるめだからゆっくりつかって暖まったものの、暖房抜きにはいられない。アルコールの力を借りての常套手段で寝入った。朝早く撮りに行こうかと目論見だけはしていたが、寝過ごしてしまって果たせなかった。

 朝食後9時を回って1時間半ほどのコースを歩いていくと、谷はまだ陽が入っていなかったから、早くなくてよかったと言い訳がたった。紅葉は盛りを少し過ぎたのか赤い紅葉が一部黒ずんでいた。黄色の紅葉もその他の木も葉が落ちているせいか透けていて、ボリュームに物足りなさを感じるものだった。折り返しての帰り道では陽が差し込んできて、やっぱり陽射しが入る軽視がなにより良いとシャッターを多めに切った。











2013年11月25日月曜日

特定秘密保護法案の目くらまし

 特定秘密保護法案の怖さが明確になって、反対の声が広がるに及んで、修正協議も揺らめいたりして、当初の採決強行が伸びてきた。22日にはキャロライン・ケネディが、愛嬌をふりまきながら来日した。このあたりが強行採決をねらっている時期とあっているというのは、確証はないけれども何か画策がありそうだと、そう思う人は多いだろう。キャロライン・ケネディに対してのNHKニュースのコメントは「日米の緊密な関係・父親の親日の思いを果たす・友好に務める・ツイッターでの発信開始・横田基地訪問米兵激励・防衛大臣と会談・普天間基地問題解決・手腕に期待」などなど。日米安保体制の強化、基地体制の維持のための大使となったことは誰でもわかる。ニコニコ愛嬌を振りまいて、父の親日の思いを果たすためにだけ来るわけでは決してない。ウケ狙いだといえばご本人には失礼になるが、そこいらへんの切り口を明確にしておかないと、基地問題やオスプレイの演習強行の緩衝にされかねない。

土曜日、見るともなくBS日テレで「ボビー」という映画をやっていた。見るともなくつけっぱなしにしていたら、ケネディの暗殺事件をもじったテーマになったものだった。時節柄番組に組み込んだものだろうが、そこまでやるかという思いがしないでもない。


 そのうえ「5000万円を借りて返した」ニュースが飛び出した。でどころは検察のリークとされる。こちらはしどろもどろの記者説明で、マスコミが追求しやすい事件になった。これもまた、特定秘密法案を後景にやることを手伝う。世論の耳目を引き付けるに十分なことだから、暗黒社会を招く特定秘密保護法を、反対の声に抗して成立させようとするとき、やりそうなことだ。
 安倍首相の好みの人間をNHK人事に充てることは、国会にかけられることだから表に出るが、民放への関与はなかなか出てこない。首相官邸での宴会にマスコミ関係者を「招待」するのもそんな熱意のあらわれだろう。どの問題も捨てては置けないこと、大事なことだから目くらましに乗らないようにしなくてはと思う。





2013年11月24日日曜日

藤原紀香の話題のつづき

 ほんとうは、と注釈をつけなくてはならないけれども、つけた方がわかり易いし、たぶん許されることかなと甘い思いでブログに書き込むことにした。
 藤原紀香の赤旗日曜版報道で、一部のマスコミの中傷をうけ、個人から「批判」が投稿されている。ご本人の発言が掛け値なしに真っ当なものと思われるが、要約したり表現を書きなおすとニュアンスの違いも出てくるので、そのままのものをコピーすることにした。 藤原紀香のFacebookの投稿なので、ほんらいは登録者でないとみられないものなのだが、登録する気になれば、その登録した途端に見られるものなので、あえてお許しを勝手に得ることにした。悪意を持ったものでないことも当然ながら許容含ませたい思いもある。
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「ありのまま、素直な気持ち。」

最後まで読んでくれたら幸せです。

赤旗日曜版の芸能ページの取材をうけたことで、あるメディアに、話題になっている法案の事とこじつけられ、各方面に誤解を受ける書かれ方をしていてとても悲しいです。

これまで、素晴らしい芸能の先輩方や著名人の方々が赤旗新聞日曜版芸能ページに出られていますし、私も今回、そのお仲間に入れたようで光栄に思っていただけで、皆さんと同じように特定の政党に偏っていません。

取材では10年、これまで続けてきたチャリティーやボランティアの話を誠意をもって語りました。とてもいい記事になっていると事務所共々 喜んでおりました。なのに、なぜこのように 書かれるのかとても遺憾に思いますし、きちんとその赤旗日曜版の記事を読んでいただければ、私の真意が伝わることと思います。

そして、以前のblogを読み返して頂けたら分かると思いますが、私は法案に関して反対とか賛成とか書いていません。

私がはっきりと書いたのは、「法案を決めるため国民の意見を聞くパブリックコメントというものが、たった二週間しかないということ、これは知らない方が周りでも多かったので、まずはそのことを知りましょう、そして、法案に関しても理解した上で、賛否両論それぞれ声をあげましょう」と書きました。

あと、
「私はこの法案に反対と言っているのではなく、大事な我が国 日本のことをスパイなどされないようになんらかの対策は必要だと思う。ただ、その秘密となるものが どこまでの適用範囲なのかは、決めるべきでは。」と書いています。

それをいつのまにか、一文だけ切り取られ、無断使用の写真もくっつけられて 片方だけの意見の広告のように、作ってもいないポスターまでが作られてしまい、それが一人歩きしています(>_<)

もちろんあれは、私サイドが作ったものではないことを、いつも応援してくれるこのblogを読んでいる方々はわかってると思っていたので、これまで書きませんでしたが事務所社長とも相談して、違うことは違うと言おうと。

応援してくれる人は 批判する人の何倍もいてくれるから 勇気が出るよ(*^^*)

FacebookにもNORIKA-NETにも、たくさんのメッセージありがとうございます!その気持ちだけで元気になれます。感謝です(^-^)
そしてまた進むために改めて大尊敬するマザーテレサの言葉を思い出そう。

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人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが親切であれば、人々はよからぬ思いを秘めてあなたを非難するかもしれません。気にすることなく、親切であり続けなさい。

あなたが正直で誠実であれば、あなたを騙そうとする人が現れるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。

あなたが幸せを見つけたら、人々が嫉妬するかもしれません。気にすることなく、幸せでいなさい。

あなたが善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、善を行い続けなさい。

あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。全く足りないかもしれません。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

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いまの私には崇高すぎる言葉だけど、信じることを前向きにやり続ける、それは出来る気がするから頑張るね(^-^)

皆さん、応援よろしくお願いします!


写真はアフガニスタンで撮影した最後の一枚。「帰らないで」と、子供たちが夕陽の丘を駆け上がってきてくれた後の写真です。
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2013年11月23日土曜日

咲かないほうがいい花とは

 お茶の花は咲かない方がいいとは知らなかった。カメラを持って撮りあさるメンバーは、これという被写体を探して懸命になる。いい写真をとろうとすると、それなりの立ち回りが必要になる。茶どころだから、それも撮っておかなくてはと、昼食場から出てすぐ隣に広がる茶畑に行く。人気はないが、広い茶畑が広がっていた。どうやって撮ろうかと考えながら近づいて見ると、ちょこんと花が咲いていた。いくつも咲いていないが、点在してあちこちに見える。
この花が咲くときは、天候の状況が悪い時などで、お茶の木が弱っているときだということ。期待されない花とはなんということだ。これも温暖化の影響なのだろうか。














2013年11月22日金曜日

川根茶も大井川の恵み

 退職者会の旅で寸又峡に行ってきた。紅葉の時期ゆえに参加者が多くて、バス一台で補助席まで埋まった。大井川に沿って登っていくが、川の流れが貧相でご多分にもれず小さな砂利を敷き詰めたような河原。広い河原にトラックが入り込んで採取しているらしい場面も目に入る。砂利採取は禁じられているはずなのに、なんらかの手がつかえるようになっているのか。上流に向かうにつれて河原に砂利を積んでいるところや、河畔に工場らしきものもある。それを見る限りは川とは言えない。雨が降ればただ水が流れる水路で、川や河原には生き物は数えるほどしかいないだろう。

 川は人の生活を潤してきたし、水は命を維持するのに絶対不可欠なものとしてきたはずなのに、冷たい仕打ちだ。乾いた小砂利が果てしなく転がっているだけの川は、沙漠のようで嘆かわしい限りだ。お茶の名産地は、湿気も大事な役割りをもっているという話も聞いた。川の恵みは大きいものだ。東京都の都市計画審議会が、ビルの容積率を上乗せするということを決めた。三井不動産が日比谷に計画する地上37階建てのビル建設を可能にするという。 

 「オリンピック特需」で、またぞろ鉄とコンクリートを積み上げることに向かっていく。横浜市庁舎の建設をオリンピックの前に竣工させると市長が言っている。山と川の受難が続く。

東名高速から見えた河内川の南1キロで見えた「山削り地点」。地図で見ると二カ所ある。



 大井川本線福用駅前の大井川、砂利採りらしき工場が見える










2013年11月21日木曜日

藤原紀香の軽いノリがいい

 特定秘密保護法案は大きな問題なのに、パブリックコメントが短期間でいいのかとブログで書きこんだ藤原紀香は、いまFacebookの投稿でもちきりだ。なにが秘密なのかが秘密で、わけのわからないまま逮捕もされ、罰則も適用されるという暗黒の社会をおかしいと思うのは、ごく普通の感覚だ。


 藤原紀香のFacebookを見ていたら、オリンピックの招致が決まったこときにもコメントしていた。この投稿には16,835人が「いいね!」をクリックしている。スパッと批判している気持ちのいいコメントだ。Facebookの「いいね登録者169,147人。







2013年11月20日水曜日

交通機関の悪口を書いたせいではないだろうが、夜にも遭遇

 昨夕は釣りの会の理事会に行っての帰りに、新宿で降りて乗り換えようかと、地下鉄の入り口まで歩いていくと、改札で人だかりがしている。ああ止まっているのだなとすぐにわかったが、しばらく見ていても運行停止している理由がわからない。ともかく停まっているから、定期券の利用者は振替輸送の券をやると、配っているのはわかった。

 改札の中に入っていく人もいるが、どうなるかわからないからJR利用で行こうかと元来た方へ歩いた。人の間を歩きながら、せっかくだからここから歩いていくかと、迂回して地上に出た。新宿駅は9時前で人の流れは多い。ビックカメラの入り口で「9時まで空いている」と看板を持った青年が立っている。これから暮れに向けては売り上げ増のハッパとノルマが大変だなと、同情だけしてそのそばを抜けて青梅街道へ。

 迷うことはないまっすぐの道を中野坂上まで出れば、あとはいつものウォーキングコース。小一時間かかって家に着く。息子が風呂に入っていたので、電車は大丈夫だったのかと聞くと、止まる直前に帰ってこられたらしい。運のよかった息子に不幸な親父ではあったが、12,000歩を超える「実績」を手に入れた。これでガンマーgptが減れば「幸」に転ずる、と思うことにした。

2013年11月19日火曜日

犬も歩けば…程度ならいいが、危ない交通機関

 昨夕、池袋まででかけた。14日に出かけたときもそうだったが、人身事故で電車が遅れていた。横浜の方で事故が起きても、中距離電車というのか乗り入れで走っている列車が影響を受ける。かつては地下鉄の電車が遅れることはまったにはなかった。あってもよっぽどのことで、日常茶飯事になったのは最近だ。

 「人身事故」が増える要因をさておくとしても、運行の周辺機器が故障するということも多い。最近はさすがに止めたが、「車両点検のため」に遅れているとアナウンスしていた。車両点検など事前にやれといいたくなる。国鉄分割後の事故の「定義」が変えられて、国土交通省への届け出が緩くなっているのも要因の一つだろう。乗車が一回で目的地に行けるのは非常に便利だが、つまずいて関連の路線に影響していくのは大きなリスクだ。

 元をただせば都市への集中ということがある。ホームにあふれる人が落ちないように、ホームドアを設置して危険度を下げるのはいいとして、その分列車が途中で停止したときに、運転士一人でなにができるのだろうか。マニュアルでできることがあるにしても、それこそ地震の時にはどうするのか。モノレールは運転士もいないわけだから…。

 JR北海道の手抜き偽装はぬかるみに入っている様相だ。国交省が張り付いて監査するに至った。地元では利用しないようにしているというのは解る。ここまで落としたのが、国鉄の分割民営化であることは違いないが、その株主である国交省が調べていての有様なのだから、まったくみっともない構図だ。交通機関の安全は誰が守るのかという肝心なところが成り立たない世の中を造ってしまった。

昨日はまた、B787の事故が起きている。
@日航のB787型機がエンジン始動できずに5時間半遅れる
 16日、シンガポール発成田行きの日本航空712便・B787-8型機が出発に向けてエンジンを始動したところ、左エンジンが始動できないトラブルが発生しました。このため、同機は出発ゲートに引き返し、エンジン制御コンピューターのリセットなどの措置を行い、5時間33分遅れで出発しました。
Jal不当解雇撤回裁判原告団のFacebookから)

そして今朝も、
~近江鉄道本線で踏切事故 運転見合わせ
~電車にはねられ高1死亡 JR山科駅、2万9千人に影響

~相模鉄道=希望ケ丘駅で車両点検を行った影響で、列車に遅れが出ていましたが、09:00現在、ほぼ平常通り運転しています





2013年11月18日月曜日

酒をたしなむ。たしなむ程度が問題か。

 今朝は朝早く目が覚めてしまった。ちょっと集中してやっていることが気になって、頭をめぐらしてしまうと身体の温度が上がってきて、起きた方がいい状態になる。鼻が詰まったのが原因で目が覚めたのだろうと思うが、無呼吸症候群の気もあるようだから、どちらにしても息が詰まった状態でのことだろう。近頃よく鼻が詰まるし、気温が下がってくるから、体を温めようとすると余計に鼻が詰まる。
 
 だいたいは途中で起きることはなく、快適な朝とはいかないが、目は覚めるから、健康な部類に入っているのだろうと思う。健診の時は問診票に特には何もないと書き込むが、細かく言えばあれこれの心配事は人並みにある。その心配をあれこれ書いてもおおよそ返ってくる言葉はわかるので、余計なこととして書き込まない。健診の内容も項目によっては、だんだん有料化され、メタボであるかないかぐらいが振り分けの元になっているから、どこまで信用していいのかと、自己診断型の判定に入ってしまう。

 血液検査ではγGPTや中性脂肪や、話題になるような結果が出てくるので、注意の自覚を促される。今回も数値がこれまでになく高めだったが、アルコール摂取が多いことは解っているし、食欲よりは早食いが影響していることは自覚している。だからさっさと医師に対しては「頑張ります」と決意表明をすることでしのぐ。今回は別途検査をしろと言われるかと思ったら、それはなかった。よかったと一瞬思ったが、この先一時の自覚期間が過ぎると、また「まあいいか」という生活に落ち込む。

 ポイントはそこにあると、何年も過ごしてきたのだからダメなものだ。健診結果が出たときから、鞭を入れなおしてまたウォーキングをキチンとやるようにした。ここ一週間でも一日10,000歩は歩いている。大したことではないが、確かにずるずると目標をないがしろにしていたから、それも数値高騰の原因になっていただろう。運動項目も一つ増やした。

 しかしながら…このさき退職者会の旅行あり、現役時代の仲間の忘年会あり、撮影旅行ありと、「数値高騰」の予定が並んでいる。断る勇気はさらさらない。そりゃあ呼ばれるうちが華っていうものだろうし、よしんば断ったとして寂しさのあまり家でたっぷり飲むのではおんなじことだ。せいぜい、休肝日はとるように頑張ろう。日記には「飲酒一日目」「飲酒二日目」、「断酒一日目」などと毎日書き込むようにした。今のところ「断酒二日、三日」が記録されている。ヨシヨシ…。




2013年11月17日日曜日

沖縄ツアー付け足し

 沖縄を訪れた若者のブログに書かれていた感想があった

※沖縄は戦場とかした何て知らない人もいるこの世の中、青い海と青い空だけではない、この場所も皆に知ってもらわなければならないと感じた1日でした。※

 若者だけではない、沖縄の苦難の歴史に触れて知ることが平和を考えるうえでおおきな意味があると思った旅だった。特定秘密法案が強行されれば、「その時代」を招くことになる。そうなってしまっては、沖縄が被ってきたマイナーな歴史を追認することになってしまう。「理由が提示されなくても逮捕」されるようなことになれば、ブログで書きこむことさえ控えなければならないことになる。人権も民主主義もすべてが抑え込まれる社会だ。


 最後に新原ビーチでグラスボートに乗って、海底の魚を鑑賞したが、海底のサンゴは白化が目立った。先ごろNHKの番組で温暖化が原因とみるサンゴの白化現象を取り上げたものがあった。おりしも、温暖化対策での温室ガス削減目標を下げることを閣僚会議で決定した。経済成長ばかりを突出させて生活にかかわる施策はすべて切り刻むカジきりをする安倍内閣は、まだ支持率が高い。

琉球そばとオリオンビール










2013年11月16日土曜日

三日目の沖縄。歴史はキチンとみておくことが大事だと思う。

 平和記念公園はオプションツアーで行く。公園整備が琉球政府時代からされていたという。復帰後は都市公園として整備された。沖縄戦の写真や遺品を飾った平和記念資料館と「平和に礎」「平和記念像」「国立沖縄戦戦没者墓苑」「団体の慰霊塔」がある。沖縄で官民合わせて24万人以上が犠牲となった実相、教訓、平和への願いが織り込まれていた。
1995年に造られた「平和の礎」は、国籍、軍人、民間を問わず沖縄戦で犠牲となった戦没者の氏名が記されている。

 アプラチガマ、ひめゆりの塔・資料館もツアーに含まれていた。270mのガマで沖縄戦末期に陸軍病院の分室として使用されたアプラチガマで、懐中電灯を消して暗闇を体験した。真の闇はいかばかりかと思わされたが、生き延びた女性が、「死臭や切り落とされた手足の運びだし、血や糞尿の臭いの中で生きていられたのは、ガマが闇だったからで、そうでなければ気が狂っていただろうという」と語っているとの話には、およそ考えが及ばない驚きのことだった。






ガマの入り口







2013年11月15日金曜日

首里公園の次は「不屈館」で沖縄の心に触れ、「歌と踊りの交流会」に触れる

 「不屈」は凡人にとっては、辛い表現。多分、実世界にはそうそういるものでない。しかし瀬長亀次郎にはその言葉が100%似合う。
瀬長亀次郎は沖縄人民党で活躍した人。経歴はウィキペディアに端的なのでコピーした。
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1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれる。沖縄県立二中(現沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。2年間の兵役を務めた後、1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征する。
戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営する傍らで沖縄人民党書記長となり、1950年、沖縄群島知事選挙に出馬するが、準備不足もあり当選者の1割にも満たない得票数で落選。しかし、1952年の第1回立法院議員総選挙では最高得票数でトップ当選を果たす。この選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。
195410月、米軍は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕。たった1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけ、懲役2年の刑の判決をして、再び投獄された(沖縄人民党事件)。19564月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬する。対立候補から選挙妨害を受けるが、まったく保護されない無法選挙を戦うことを余儀なくされたものの、大方の予想を覆し当選を果たす。だが占領軍出資の琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置に遭い市政運営の危機に見舞われるが、市民は自主的な納税によって瀬長を助けようとし、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し当選後は86%にものぼり、最高で97%にもなった。そのおかげで自主財源での市政運営できるようになり危機を脱する。これに対し占領軍と琉球民主党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。しびれを切らした占領軍は1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)1954年の投獄を理由に、瀬長を追放し被選挙権を剥奪した。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米軍との攻防は、瀬長に対する沖縄県民の絶大な支持を呼んだ。

196712月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年の沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に当選する。以降7期連続当選を果たした。日本共産党に所属し共産党副委員長などを歴任。1990年、政治活動を引退する。2001105日、肺炎で死去。享年94
ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。
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 感心することは多々あるが、瀬長亀次郎が那覇市長になったときの市民の行動は驚くべきものだった。占領軍が補助金と融資を打ち切って、預金凍結までして妨害をした。市民は自主的な納税によって瀬長市長を助ける行動に出た。納税率が最高で97%になったという。自主財源での市政運営できるようになり危機を脱した。こんな出来事は将来もはたしてあるだろうか、まさに驚きの出来事だった。自治体財政を開発などの浪費に使う自治体の長には爪の垢を煎じてやりたい思いがする。


 「沖縄の歌と踊りの交流会」は琉球料理を味わいながらの催しだった。「沖縄参戦音楽研究の芸術学博士」の新城亘氏を中心にした沖縄の文化を披露していただいた。












2013年11月14日木曜日

二日目の行程は東村高江から首里城公園へ。

1429年、尚巴志、三山を統一、琉球王国成立
1609年、島津の琉球侵入
1660年、首里城焼失
1709年、首里城また焼失
1879年、首里城明渡し、琉球王国の崩壊、沖縄県として「誕生」する
1853年、ペリー提督来琉、首里城訪問
1925年、首里城正殿国宝に指定
1945年、沖縄戦により首里城焼失
2000年、北殿で「九州沖縄サミット」城址などが世界遺産に


 首里城は、争いに巻き込まれ焼失を繰り返している。戦後は復元工事が徐々に進められて、近年書院や庭園が一般公開されている。修学旅行の子供たちのにぎやかな声が、響いていた。ここも沖縄決戦の要塞として使われた。時の権力によって支配される歴史をたどった沖縄。いま「基地はいらない」の声が鳴り響く沖縄が、独立国家になるべきという意見も理解できる気がしてきた。














2013年11月13日水曜日

東村高江は子供たちが多い集落

 沖縄本島北部の豊かな森に囲まれた地域がヤンバル(山春)と呼ばれている。地球上でここにしかいないヤンバルクイナ、ノグチゲラなど1000種以上の高等植物や5000種以上の動物が暮らしている。ヤンバルの中にある東村高江は人口約150名で中学生以下が人口の2割を占める子供が多い集落。この隣に7800ヘクタール(東京ドーム1668個分)の米軍北部訓練場がある。ジャングルでの戦闘訓練を目的に1957年に使用開始して、ベトナム戦争でのゲリラ戦の訓練に使われた。ここにはヘリパッド(ヘリコプター離着陸帯)が22か所あり、常に爆音や危険にさらされている。

 そこに新たに6カ所のヘリパッドを、高江集落を取り囲むように建設しようというのが防衛施設庁の動向だ。「基地の整理縮小」の“偽装”工作となる、オスプレイの訓練用に。一番近い民家から400メートルの位置にも。座り込み、監視を続ける人たちは、沖縄県議会と全市町村の「オスプレイ配備反対決議」の意向も受けた活動となっている。「沖縄がベトナム戦争や中東戦争での加担者になっている」という言葉が耳に残る。



「違反者は日本の法律によって罰せられる」の文言で、特定秘密保護法案を連想させられた








2013年11月12日火曜日

辺野古の海は、海の臭いがした

 新基地、V字滑走路を造るなと座り込みが続いている。本土から行って気軽で浅薄な反対の意志などを言うのが恥ずかしく思える活動だ。基地は県外にという仲井真知事とは違って、県議会の決議は「県外・国外」へとの意見書を全会一致で決めている。名護市長は辺野古移転拒否の態度だから、結論ははっきりしているものの、安倍政権はますます「日米安保協力体制」へのめり込んでいる。どんなウラ技を使ってくるものか。秘密保護法案もその一つで、それこそ基地問題にかかわることは「それはヒミツです」ということにしたいのだろう。


 辺野古の海に接してすぐ感じたのは臭いだった。海の臭いがする。足元にはヤドカリがいる。しばらく見ていないからだろうが、感嘆の声があがる。東京湾で見たのは何十年も前だった。これが海なんだよなと、海藻の臭いを感じながら思った。ジュゴンのえさ場を守れとIUCN(国際自然保護連合)が声を上げている。米国連邦地裁に提訴しているが、このことによってV字形沿岸案の実像が日本政府の説明していたのとは全く違った「軍事要塞」であることがわかった。環境現況調査をなんしてもやりたい政府が、調査をいつ強行してい来るのか、そのたびに防衛施設局に抗議し断念させてきた人たちの闘いに敬意のみ。




支援の寄せ書きがいっぱい


基地境をコンクリート塀にしたことで、基地側の砂浜は堆積して高くなっていた。自然はこれだけ微妙に改変する。










2013年11月11日月曜日

オスプレイを見下ろす嘉数(カカジ)高地

 沖縄ツアーで最初に訪れた嘉数(カカジ)台。沖縄上陸の米軍を迎え撃つ最前線の基地とされた嘉数(カカジ)高地。高地と言っても高台。本土決戦の「引き伸ばし」のためにあえてこの場が選ばれた。戦車に体当たりする「肉弾戦」があった。米軍22台の戦車が破壊され、2週間の戦闘だったことが「語り草」となって、評価される向きもある。これ以後の沖縄戦も含めると戦没者は20万人以上。(沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では沖縄戦の日本側死亡者:188136人⇔2013.1.1の三鷹市の人口186,416人)
 二度とあってはならないとする以外に考えようはない。






 この高台から見るオスプレイはキチンと並んで翼をたたんでいた。不幸にして落ちた場合は、本体を傷めないようにバラバラに飛び散るようになっているということだ。宜野湾市の真ん中に堂々と占拠している米軍基地は、占領軍の居座りというのがピッタリしている。