2015年8月30日日曜日

雨の中武者行列と山車が行きかう

 15日、金町の朝9時半から本祭りが動き始める。車で30分ほどの新庄のホテルから向かう途中、つい田んぼの景色に囚われて時間を食ってしまった。

 出発時間内に間に合ったつもりが、雨が本降りになってしまったので、駐車場で濡れないように支度している間に武者行列が動き始めていた。早足で追いかけるものの、どう撮るかもさだまらないままシャッターだけは押した。行列の皆さんも雨の中大変な思いをしているようだった。

 山車の方がどう動くのかも確かめる暇はなかったから、道端の人に確かめるとその場を通ることになっているとのことでひとまず安心。金山川にかかる「きごころ橋」で戻ってきた武者行列と山車が行き違いするが、その様子を見ながらまた右往左往してしまった。運よく山車の行進が休憩になって止まり、担い手の子供たちや若者が穏やかな動きになっていたのを見計らって、中に入って撮らせてもらうことにした。

 また動き出した山車を追って先に歩いてみたが、そのころから青空が見えてきた。しかし出だしから焦ってしまったのが後を引いているようで、なにかもう一つ物足りない感じが残った。








2015年8月29日土曜日

新庄で落ち合って、金山町の宵祭りへ。

814日に先輩と新庄で落ち合うのだが、こちらは盛岡から新幹線に乗り、大曲で奥羽本線上り列車に乗り込むことになる。ホームから見える情景を眺めながら、知らない街を素通りするのはもったいない気がするが、そんな時間の余裕はない。来た方角とは反対に向かって、本当に大曲りをしてディーゼルカーが発車する。車音は昔ほどうるさくないのだろうか気にならなかった。3両だかの編成でトイレ付、列車が駅に着くと自分でボタンを押してドアを開ける。乗り込んだ人は備え付けの機械から「切符」を受け取る。田んぼのイネに少し穂が出て、うっすらと黄色づいている景色をゆったりと眺めながら、新幹線では味わえない「車窓から」を楽しんだ。

 レンタカーを借りる続きを、相方がくる前に済ませ、宵祭りまでには十分な時間を、早めに金町に入って祭りの前の雰囲気をカメラに収めようと歩きまわった。それらしき担ぎ手でない地元の人々、若者が中心に担う祭りは、有名な祭りの担ぎ手の様子とちがって初々しくて頼もしい。ところが、あいにく夕方から雨模様の様子ということで、宵祭りの山車は中止になってしまった。せっかく造り上げた山車の飾りを、翌日の本祭りの前に台無しにしてしまうわけにはいかない。山車の前でくつろぐ若者は、宵祭りにでかける目標がなくなっても、屈託のない笑顔でくつろいでいた。












2015年8月28日金曜日

金山町に入る峠は雨がちらつく

26日、共立診療所へ行って検査結果を聞いた。心臓は、CT検査も心エコー検査ともに明らかな異常はないという結果だった。背中の痛みが出ていたのは、内臓からくる場合もあると勝手に心配していたのだが、数日前から枕の高さを変えたら不思議と痛みがなくなってきた。その旨を医師に説明をしたら、「そうなんでしょうね」と反ってきたので、この場はその結論で置くことにした。ピロリ菌の「ハイリスク」のほうは31日にバリウム検査をした後にということで、胃カメラ検査は逃れられそうもない。

いつも通りの血圧と尿酸値を下げる薬をもらって、いくぶん軽くなった気分で6146歩をウォーキングして家に戻った。体調が悪かったのが影響したのか、身体の動きと頭の動きがよくなくて、ブログの書き込みも、ネタがあるのにもかかわらず、ままならない日が続く。だからということになるのか、一日の時間がたつのがやけに早い。「明日があるさ」と仕掛けなければならないことも後回しになっていく。

山形県金山町と肘折温泉の撮影旅の写真整理が出来上がったし、岩手山麓の親父の家訪問から一週間ほどの間の後日日誌もまとまったので、撮った写真の編集(現像)をしながら、余韻を楽しんでいる。いい写真が撮れているだろうか。

金山町に入る峠は雨がチラつく





2015年8月25日火曜日

これじゃ身体に良いわけはないか。

2か月前に写真展をした結果、写真をもう少し真面目に取り組んだ方がいいんじゃないかという気になっていた。撮りためた写真の整理も必要だし、その方は「デジタル研究科」のおかげで、ノウハウを生かして相当整理できてきた。48000枚の写真をパソコンの写真編集ソフトを使って大分できてきたし、しかしそうするうちに、これまでのモノがなんと詰まらなくて未熟なものが多いのかという反省に迫られた。8年前にやった写真展の「金山町」も、もっとキチンと撮りたいという思いも湧いてきていた。

 金山町には何回かその後も通って、自分だけでなく同行の人からもよいところだと言われている。気に入ったところは何回も撮る必要はある。なにか別の視点に突き当たればいい写真に出会えるはず。そんなことをしばらく前に話をしていたら、行こうかという話になった。

岩手に行ったときに山形に回ってと心づもりをしていたのに、連絡がなかったので不成立かと思っていたら、おっかけ連絡があって、是非にということになった。急きょ計画を練って、14日に新庄で落ち合うことにした。そうなると、「休肝日増」作戦にも影響してくる。写真撮影の楽しみは一日の締めにあれやこれやと、アルコールを摂りながらの談義がなければならない。なにも写真撮影に限ったことではないだろうが、それで楽しみが倍増する。

 「重大事態対処」がまだ分からない間をいいことにして、「飲み得」もいいと勝手なことを言って、今回は二人になった先輩と、それなりのアルコールを胃袋にいれて、先輩と談義に励んだ。重たいカメラを担いでも、背中の痛みを圧して動けはするのだからまだ、大丈夫と自分を慰めながら。

2015年8月24日月曜日

健康診断の結果が送られてきて…。

健康診断で今年辺りは、何か引っ掛かりそうと、なにげなく思っていた。当たってもらいたくなかった結果を見て、いよいよ高齢者の有資格者に近づいてきたと自覚させられた。縦隔脊柱・新陰影拡大、ピロリ菌の疑い、肝機能障害と三点セットで精密検査をしろとの通知だった。肝臓障害は身勝手な「数値が少し高いだけ」との解釈で、いい気になっていたし、アルコール量を減らすことで下がるということで、甘く見ていた結果だった。

いつもお世話になっている医師に相談しにいって、心臓のエコー検査をすることになり、あわせて最近痛みが出ている背中のCTスキャンをしてもらうことになった。肝臓と尿酸値は、アルコール節酒で下げることでいくとして、ピロリ菌は胃癌の原因との脅かしもあり、カメラを飲めと言う。今は楽になっていると聞いているが、なるべくなら避けたい気持ち。8月末にバリウム検査の予約をしてあったので、その後でということで、当面はしのげた。


それより、背中の痛みが出ていることが気になっていてその程度が、日常の動作で「アイタタ」という感じだから、この原因追及はしなくちゃならない。まあ、歳なのだからしかたがないかなと思うところもあるが、今は妙なことでないことを祈るのみ。結果は3週間後ということで、その間にちょうど岩手の親父のところに行ってくることになっていた。従妹が山形に帰って、墓参りをする間親父に付き合わなくてはならない。親父もこの間までは一緒に行って、「家」の墓に行っていたが、今はもう動くのもやっかいらしい。最近は食べるものも少なくなって、何を食べさせたらいいのかという苦労があると従妹が言う。東京の年寄りと同じようだ。自分もいずれそういうことになるのだろうと、チラリと思いながら作ってくれた煮物を中心の数日を過ごした。






2015年8月20日木曜日

馬路村の「フェスティバル魚梁瀬」

2回目になった馬路村は、旅館の前に川があり、深いところがないので子供連れには人気のようだ。子供ばかりでなく親の方も水に浸かって楽しんでいる。ここなら、川の大きさが適当で目が行き届く。夏の旅は、かつては涼しい東北方面が多かった。家族そろって行った若いころは、西の方面は少なかった。だから、暑いけれども知らない地への旅は魅力的な感じがある。
前回とその前のブログは、現地からスマホでアップしたものだったが、作業がやりにくい。パソコンを使った編集とは違って、思ったように表示できないようだ。スマホも小さなパソコンと同じように使える点は利便ではあるが、パソコンと同じように使うのは難しいところもある。

スマホの「データの使用料」が料金に跳ね返るので、Wifiの通じないところでは安心して使うことができない。通常は家のパソコンの無線LANWifi)から電波を取っているので、使用料は多くはならないが、外で使用すると見る間に増えていく。これでは「歩きながらのスマホ」などどれだけの料金を払っているだろうか。まず10000円は下らないだろう。東京の(日本の)Wifi事情は、その使用可能箇所が少なくて、来日した観光客には評判が悪いという。オリンピックまでには増加させると言うが、日本のこの手の業者も利用者に還元することに力を入れてもらいたいものだ。


31日の魚梁瀬の祭りのとき、小ぢんまりとした村の雰囲気と、若者の姿をカメラに捉えたので旅館宛に送った。








2015年8月12日水曜日

馬路村の釣果

  馬路村では、Uさんと鮎釣りをやるのが目的のひとつ。とはいっても、自力の見よう見まねなのだから、楽しみにとなるのかの話。ぎこちなく仕掛けをつけた途端に風で絡んでしまった。竿を操るのも、泳がせるつもりのオトリにどういう効果になっているのか、さっぱり想像てきない。6尾を確保できたのが、なによりではあったが、釣り上げた嬉しさはもうひとつ足りない。

  釣りは、アメゴも狙いにしているものが、昨年同様入れがかりになるのは、カワムツだけ。今回はサシを用意していったから、おしげなく使えた。途中から唐揚げにして食べてみようと、「確保」にかえて、30尾ほど旅館に頼んで揚げてもらった。アメゴや鮎には及ばないが、思ったよりいけて収穫だった。この安田川は、5年ほどまえから、鮎が少なくなって「近自然工法」による河川改修をしているとか。山が荒れたことが原因でとのことで、この地も環境破壊にさらされていると、らちがいでないこと を、思い知らされた。



"2015.8.1高知県馬路村魚梁瀬「フェスティバル魚梁瀬」の花火" を YouTube で見る

 爺さんが、ショートスティーにいって、体調が悪くてまた入院になった。入院したのは併設されている場所にある病院で、移動は大事にはならない。連れ合いが、お婆ちゃんを連れて、息抜きに出かけていたが、以前にもあったことなので、要領は承知していた。入れ替わりにこちらは馬路温泉にでかけた。二回目の訪問になった馬路村は柚子の里として知られ、人口が1000人ほどという。温泉周辺を廻ると、村をあげての取り組みを、身近に感じることができる。昨年につづいての利用で、従業員さんとも顔見知りになり、馬路村の奥から通ってくるその若者は、ちょうど祭の日であることを教えてくれた。話す言葉のの端々に郷土の思いを感じて、勧めに従ってでかけてみることにした。20分ほど走って着いた山あいの公園に、300人くらいの人が、広げられたシートに座って、舞台の出し物に喝采をおくっていた。出演した保育園の子供たちや、若者のバンドか盛り上げていたが、夕方の陽が落ちていくときのシチェーションは、昔何処かであったかなと、懐かしい想いをさせてくれた。奥まった地で、お年寄りが多いのかと思ったら、赤ちゃんをつれたママさんや若者が多くて、村の息吹きを感じさせてもらった。

2015年8月6日木曜日

二つの原爆投下でVサイン??

 いわゆる勝利を表するチョキのこと。第2次大戦のときのイギリス首相チャーチルが、ヴィクトリー勝利を現すVサインを出すのがお得意で、原爆投下の話を聞いたチャーチルが、得意のVサインをしたと言う話。これを見た記者が「勝利のVサインですね」と質問したところ、「いや、これは平和、ピースのサインだ」「どういう意味ですか?」「世界の平和は、この二本、広島と長崎によってもたらされる」と答えたという。以後、勝利のVサインが、平和のサインともなったとか。

 これが事実と言う前提だが、広島、長崎の原爆投下によって、Vサイン=ピース・平和が表されたということなら、日本人としてはそのまま飲み込むには抵抗がある。核実験を人類に初めて使ってみた行為が、平和のサインとされては日本にとってはたまらない。その後、泥沼になってきたベトナム戦争に行くのはイヤだ、という若者の「早く平和な世界を」というアメリカ政府に対する反抗のサインということでも使われたそうだから、それは平和を望むという意味にはとれないことはない。スポーツ競技でもよく使われることだが、このポーズはカメラの前にたったとき、若者のなかで“一般化、普遍化”している。しかしVサインの持つ意味はそれなりの意味と歴史をもつとなると、簡単に使えないことになる。

 カメラの前のポーズがVサインという定型的な恰好は、こんな意味合いを取り込んだものだろうか。今風のこのポーズの理解は楽しさと喜びの表現なのだそうだ。いささか浅薄なことだとも言えそうだ。さりとてこのワンパターンの他にどういうものがあるかということは、わが年代よりも若者の方が身に着けていることでもある。また、Vサインは、百年戦争のときイングランド軍の弓兵が、敵であるフランス軍を挑発するサインとして使用したのが発祥という説もある。平和と戦争を表象するもの、双方にかかわるVサインとは妙なものだ。
 1948年(昭和23年)に建てられた
 現在のもの(左側)

 8月6日のヒロシマに続けて、長崎に落とされた原子爆弾の「原子爆弾落下中心地の標」が1948年に長崎市によって設置された。この写真をどういうわけか父が持っていた。8年後に現在の形状に変え、1968年には表面を御影石に張り替えたとのこと。

 1996年に「撤去してモニュメントに」との計画が起きたが、当然批判もありこれは断念した。現在のものも「原子爆弾落下中心地之標 地上500米にて炸裂」と表してあった当初の木製のものよりは、現実味が薄れている。「風化」を能動的に働きかける輩もいることだろう。この地が平和記念公園でなく、平和公園と称していることも歴史の重みを感じさせることで、人類の生存にかかわる負の歴史を薄めたり風化させてはならない。

ウィキペディアから
・1948年(昭和23年) - 市が、盛り土の上に木製の標柱を設置。「原子爆弾落下中心地之標 地上500米にて炸裂」の表示。
・1956年(昭和31年)3月 - 三角形の鉄筋にを蛇紋石張り付けた現在の形状に。デザインは松雪好修。高さ6.5メートル。
・1968年(昭和43年) - 表面を黒御影石に張り替え、現在の姿に。
・1996年(平成8年) - 中心地碑を撤去して、新たなモニュメントを建立する計画が浮上、問題化する。撤去してその跡地には被爆50周年記念事業碑(母子像)を建立する予定であったが、撤去計画を断念。



2015年8月4日火曜日

新豊洲市場のサギは大丈夫?


 新豊洲市場を見ているうちに、建設場所から流れ出ている水路

で、シラサギが餌をついばんでいるのが見えた。橋の上からこち

らが顔を出したので、一度は警戒して飛んで行ったのだが、すぐ

戻ってきてまた同じ動作をしている。よほどいい餌がいるのだろ

と思ったが、視認するのは無理だった。なにか生きている餌に

いないが、かの建設中のところから流れ出ているものだから、

題の六価クロムだのシアンだのと言う有害物質の影響はない

だろうか。半体が白い鷺と流れ込む黄土色の水がなんとも、異

様な色だった。













2015年8月2日日曜日

東京の公共事業「新豊洲市場」ここにもあり

 新国立競技場の「白紙見直し」という前代未聞の「良い」政治がおこなわれて、民主主義とはかくたるものと、少しだけ評価していいのかという具合になった。でも、これまでも「凍結」という言葉も活躍して、時が過ぎればまた復活などということは、いくらでもあった。公共事業が大手を振っている時代はどうみても終わっているわけだから、そういう意味での宿題もこれまた、たまっているわけだ。しかし八ツ場ダムなどは、中止と継続がもてあそばれて、住民同士の亀裂を残すようにまでになってしまった。

 どこもかしこも、山を削り川を壊し「新しい町」を創造するという美名がまだまかり通るようで、「戦争法案」だけでない、後ろ暗い政治も絶対許さないということに高まるべきだと思うし、早晩射程距離に入ってくるのではないかと期待したい。

 新豊洲市場の建設が急ピッチで進められている。一度は「必要ないと」と結論を持った者が、一知事の気まぐれで再浮上してきたという、旧の場所でいいよとしていた多くの意向を無視して、すすめた馬鹿なことといってもいいのだろう。先日、建設中の場所を見てきた。膨大な建設地域に大量の鉄材やら建設機材が配置されていた。建設における費用の膨大さも実感したが、東日本の震災復興に比べたら、「どれだけ」のムダなことと改めて想うところだった。