2016年2月29日月曜日

能登、曽々木海岸のおもしろさは

 先日のブログで、「泣かず飛ばず」と書いてしまった曽々木海岸は、これまでも立ち寄ってはシャッターを切ってきた。同伴者の身分であるゆえのことで、リーダーになると撮影場所の選定にその軋轢もまたあるだろう。そんなことは斟酌なく他人事のように言うのも実は失礼になる。

 駆け出しの「写真や」にとっては、選択された場所を決めるという重責を免除されているわけだから、あまりに勝手な言動はまずいかなと、少々の反省もしている。正直なところ、どこでもシャッターを押せばいいのだから写真は撮れるわけだし、曽々木海岸は、「自然美と豪快な断崖風景」という観光が前面に出されているところで、能登観光のスポットとしてかかせないところなので、ここを除くわけにはいかないのだろう。

 この2月の時期には、海風がすさまじく吹き荒れて、今回は風雨があたるという絶好(?)の機会に遭遇した。海風で岩に当たった波が豪快にはじかれる場面は、写真には確かにいただける。ゆえにそれプラスアルファーのものを手にしなくてはならない。「観光資源」とここで暮らしてきた「証」の、せめて匂いでも撮れればというところだ。








2016年2月27日土曜日

御陣乗太鼓、非暴力で戦ったといういわれに関心と感心。

 御陣乗太鼓は、名舟の催事として石川県無形文化財、輪島市指定文化財に指定されている。このいわれが面白いのと同時に、史実としての扱いがどうなのだろうかとつまらぬ心配をした。上杉謙信が各地を平定して珠洲市三崎町に上陸したとき、鍬や鎌で上杉勢を迎え撃つ準備をしたが、それではあまりに無力すぎるので、村の知恵者(古老)の指図に従って樹の皮で仮面を作り、海藻を頭髪に付け太鼓を打ち鳴らして、寝静まっている上杉勢に夜襲をかけて、陣太鼓と奇怪な怪物の夜襲に驚いて退散させたと伝えられている。

 村人たちは名舟の沖にある舳倉島の奥津姫神の御神徳によるものとして、毎年夏の大祭には、町をあげて祭りの準備に取り掛かり、奥津姫神社の大祭に仮面をつけて、太鼓を打ち鳴らしながら神輿渡御の先駆をつとめて、氏神様への感謝をする習わしとしてきたという。
 
 20名ほどの打ち手が、日常は能登のホテルでの公演などで、活動している。このほか海外での公演も行っており、テレビ番組への出演もこなしているとのこと。今回初めてホテルでの公演を見て、その太鼓と「振付」の迫力に驚いた。夕食後の酔いがすっかりさめるほどだった。

 ホームページに「日本においては伝統芸能や文化財に対する保護育成のための助成などはほとんどないというのが実情です。ヨーロッパや韓国などでは助成されるケースはよくあるのですが。」書かれており、日本に文化を伝承していく困難さがここにもあるのだと政治の貧困さを知らされることになった。

御陣乗太鼓







2016年2月24日水曜日

海風に晒された立木が能登の象徴の一つ

 枝振りが良い岸壁沿いの木はないかな?と「新しい着想」の狙いを定めて二日目の旅となる。次は輪島のはずれの宿泊なので、移動はゆったりとした時間がとれる。輪島までの道は断崖の道だから、狙いの枝振りの木はいくつも目に入る。枝の先が海風に曲げられて、一様に同じ方法を向かされているのは、気の毒なようでもあり見方によっては滑稽でもある。

 人の場合なら同じ向きに敬礼するような連想で行くと、面白いどころでなく気持ちが悪くて願い下げということになる。能登にとってはそれも当たり前の景色なのかもしれないが、「近代的都市」に棲むものには、「絵」となるのがおかしなことだ。

 白米千枚田に着いた時には雨が多めになり、撮影に意欲がもうひとつ湧かないが、田に雪がないところにたまった水が光って見え、ライトアップの仕掛けがポツポツと輪郭を見せて、それだけのみの変わった景色が撮れた。雨の中売店のお婆ちゃんが、一人きりであまり訪れそうもない客を持っていた。かつては千枚田を使って米を作っていたんだと、自慢げに話をしていた。コメ作りが農業者の手から離れて、「オーナー田んぼ」になり観光で成り立たせると言う「世に連れる」姿は、なんともはかない。

 名舟漁港はこれまで来ていながら、こんなところに鳥居があるとしかわからなかった。御陣乗太鼓の発祥地で、海に立てられた鳥居が、象徴として存在していた。御陣乗太鼓は731日に、催しがあるらしいと後から判った。曽々木海岸もいつも立ち寄るところだが、鳴かず飛ばずの様で同じものしか取れなかったという印象だ。








2016年2月20日土曜日

小さな港で能登の「らしさ」を切り取る

一泊目の田中旅館には、「まれ」撮影の関係者やら有名人が訪れている写真が残っていた。輪島からそう遠くないところで、海側に絶景があるというわけでもない、かえって瀟洒なものがないことの価値が、彼のドラマの筋立ての中にも使われて、日本の原風景を見ることができたのは共感があったものだろう。


 今風の観光立地で金科玉条のように重きを置かれたら、この地の将来がどうなるのかと、おせっかいながら思う。その価値は決して「金勘定」のはずがない。よくあるレジャー施設が誘致などで、地元の生活やら価値が貶められる…とは個人的な妄想かもしれないが、生活の再生産がなりたっていれば、それも価値があることではないかと余計なことを思う。間垣が大沢、上大沢のいずれもきれいになったが、そのあり様を見てつまらないことを考えてしまった。

 間垣の修理が高齢になるにしたがって、難しさを抱えているという現状が見えなくなった。きれいになったことを悲しむということではないが、善しとすることなのかどうか言い難い気がする。田中旅館を出るとき、雨も降ってきたし、皆なんとなく大沢地区を離れることに異議はでなかった。天候の具合もあったしこれまで撮った以上のものが手に入るのかという判断だったのだろうか。

 輪島に向かう途中、実はこれも以前には立ち寄ったところなのだが、「鵜入港」で車を止めた。道路の上から俯瞰してみると小さな港で歩き回りやすいと見えるところだ。上の道路で車を止めて結構な時間を使ってカメラに収めた。























2016年2月17日水曜日

新しい写真ポイント探しながら能登の旅

 輪島の大沢町の旅館に向かう途中、北前船で栄えた黒島に寄って写真を撮る。来るたびにここはポイントとして、集落の小道に入り込んで、皆が散って撮り歩く。道で出会った婦人に挨拶したら「どこから来たね?」と聞かれて、ここが船乗りの町だったと話をしてくれた。そのとき北前船のことに思い至らず、妙な返答をしてしまった。せっかくあった地元の人なので、写真をとらせてもらおうかと、お願いしたのだが遠慮されてしまった。

 次に行った總持寺(大本山總持寺祖院)も交易に関わってきたところとして有名だと後から判った。能登地震で壊れてしまったため、まだ一部改修中だった。
 「能登半島の北前船ものがたり」(HP)に、「かつて、日本海側が「表日本」と呼ばれ、交易によって栄えた時代があった。能登の北前船主たちは、海運業で巨万の富を築き、寄港地は大いに賑わったのである。そして、北前船がもたらしたのは交易品だけではなかった。大庄屋であり、北前船を五艘も所有していた上時国家と、船で全国のネットワークを組織した曹洞宗(そうとうしゅう)大本山・總持寺祖院。能登の北前船の二つの拠点を通して見えてくるものとは。」と、かつては表日本と称された歴史が紹介されている。

 古くなったものに興味もあるし、焦点をあててカメラに収めれば、上手く行けばその歴史の臭いでも手に入れられればいいかなと思う。壊れかけた建物や小舟などにピントを合わせていく。潰れそうな建物も、廃墟も舟にもかつては活躍して脚光を浴びた時があっただろう。その記録を残してどうなるというあてもあるわけではないが、風光明媚ばかり追いかけるだけではつまらない。長い歴史を経て文化を形成したものだから、ちょっとばかりの撮影で表せるわけもないが、何かが見えてくるのを期待して撮り周った。












2016年2月13日土曜日

いい写真撮れたかな?能登の旅

 今回の能登の撮影は、大沢町の雪景色を狙ったものだった。天気予報を確認していたところ、大雪が降ったとのニュースがあり、雪が多いと車での移動が難しくなりそうっだと思っていた。ところが現地への問い合わせではでは「雪はほとんどないよ」とのこと。
 
 雪の景色を期待していくのだから、多いのも困るがなくちゃ困ると勝手な話をしながら、金沢駅でレンタカーを借りる。輪島港から遠くない西方にある大沢に最初の宿を頼んであり、そこに向けての峠越えではさすがに雪があり、山間の田圃も覆っていた。そこで雪景色を撮った後、坂道を折り上大沢が近くなるにつれて雪がなくなっていくばかりだった。

 昨年来た折には、西風がこれでもかと荒波を噴き上げていたものだったが、今回は波が立つのを待つのに、時間をしばらく置かねばならないほどおとなしい波だった。それでも岩場に降り立って、何枚か撮りはしたがもう一つ気持ちが盛り上がらなかった。

 そこを切り上げて車を走らせると、通ってきた道の後方に夕陽が見えた。もう少しで海に隠れそうな様子だった。なかなかの被写体ということで、一転賑やかにしゃべりながらの撮影になった。通い詰めている先輩は、ここにきて初めてだという。確かに能登を回って歩くと、この時期は雨、晴れ、雪、強風が目まぐるしく変化する状況に遭遇する。こちらが移動して出会うのだから、変化とは言えないのかもしれないが、場所によって天気が違うわけで、「雪が降る」という我儘な場面が旨い具合いに当たるとは限らない。

 びっくりするような夕陽を、しかも太陽の上部に雲まで配したシャッターチャンスに恵まれたのは、よっぽどの幸運だったわけだ。大沢の旅館に着いたときには雨が降り始めて、もう撮るのは止めにした。早朝はすごい突風の後みぞれが降り始め、朝方の写真は突風が吹く前に出かけたKさんのみが、夜明け前のいい写真を撮った。

 旅館をでるときには、なんとなく撮ろうという声が出ずに、大沢地区を離れた。今回ちょっとばかりの違和感があったのが、間垣がすべてきれいになっていたことだ。朝ドラの「まれ」の撮影によってなんらかの「効用」があった話も聞いたが、地元の文化を残していくことにつながったのだろうか。間垣を修繕してくのが難しくなったといわれている実情が、感じられなくなった印象が残った。






2016年2月10日水曜日

能登の旅、「いい写真」を求めて

 また能登に写真を撮る旅に出た。雪に覆われた能登の風景を撮れたらという願いを込めての道行きだ。とはいえ、何回も来た面々4人がその風景を切り取るのは、やっぱり同じことだったり新たな工夫があったりしも、撮ってやろうという気持ちをかきたてるのは、能登をこれまで見ているようで見てはいなかったところへの挑戦の気持ちだったのだろう。 

 レンタカーで能登半島を走り回って、「おおここは!」とシャッターを切るところは、まだまだある。知っているかのような増長をいかに惨めな思いかということを、教えてもらえる場面だ。10キロか20キロは走ってここで撮ろうやと、それぞれの思いを、お互いに尊重すことは当然のルールにして、巡り歩く。夕方につく旅館の夕食時には、一緒の仲間にはそれとなく「いい場面」の自慢話をさかなに、少し多い多いアルコールを楽しむのが通例の旅は実に楽しい。

 いつもの旅には、ノートパソコンをもっていくが、ほろ酔い機嫌かたっぷり加減かは別にして、wifiを使える宿泊施設はまだ多くはない。今日はようやくこれがつかえるホテルに泊まった。この利用ができないと「利用料」を斟酌しながらやることになるので、ブログを推敲して書き入れるのが遠慮がちになる。もちろん「撮影疲れ」と「たっぷりアルコール」で目を閉じるのが早くなることが主要なことには違いない。氷見のホテルで。動画は輪島のホテルの「御陣乗太鼓」。



2016年2月4日木曜日

向島の面影は、ほぼなくなってしまったのかもしれない

ウィキペディアによると、向島は明治期の最盛期には料理屋や待合が100件から200件あったらしい。非公認遊郭としても有名で、関東大震災や第二次世界大戦の危機も乗り越えたものの、昭和期にはいって料亭、芸妓は減少し、2009年には料亭18件芸妓120名となったと記している。それから16年もたっているのだからその雰囲気はほぼなくなってしまったのだろう。


向島にと思って撮影に行ったのは初めてだったので、昔の花街の雰囲気があるものだろうかと路地に入ったが、古い家が散見できただけだった。写真を撮っていつも思うのだが、もっと早く目的意識をもっていたら、日本のかつての姿や雰囲気にもうちょっと触れられたのかもしれないと悔やむことが多い。









2016年2月3日水曜日

天気が良い中、隅田川とスカイツリーを撮る

 曳舟で集まりがあるので、早めに家を出て写真を撮ろうかと、浅草から隅田川沿いに歩き、墨田公園をとおって向島から現地に向かって歩いた。天気が良かったので、青空のもとで気持ちがいい風景を眺めつつ写真に収めた。浅草は相変わらず人気が多くて、さすがの人気スポットと感じた。隅田川はうまくすれば墨田公園で梅があるかと期待したが、見ることはできなかった。暖かな日差しがやさしくて、人もハトもまどろむ姿があった