2016年7月28日木曜日

写真を会場に運び込んで準備の山超えた

 昨年に続いて、現代写真研究所で学んだ同期生が、今年もやることにした写真展会場に届けて、あとは展示作業をやってもらえば、準備完了となる。昨年の写真展が終了したときに、評判は悪くなかったし、またやるかと決めたものだ。それなりの準備に心を砕いて、開催までこぎつけるのは簡単でないが、それよりも折角撮った写真が棚に積まれたままではつまらない。行き場があって出番もあれば一区切りはつくことになると皆思ってのこと。

 撮って現像して選んで出品展示となるが、自分の撮ったものの意図が少しでも伝えることができればいいなと思う。それにほかの人が撮った写真に違いがあるというのも面白い。それは「好き嫌い」のような個性によるものだろうか。社会事象を切りとってみるということもあるだろう。技量の違いも当然あるのだろうが、撮った人が何を訴えようとしているのかを考えると、見る人の個性によってとらえ方が変わるところもある。

 ともかく手作りでほとんど準備していくことゆえに、やったという充実感も湧いてくる。これがまた次の写真を撮っていく動機づけになればいい。でも少々くたびれた。

写真展
8月2日~7日 10:00~18:00
JCIIフォトサロン 半蔵門駅4番出口から1分






2016年7月25日月曜日

平和、人権、環境のスローガンは不滅がいいに決まっている

 昨日義父の四十九日で納骨をした。墓の下に安置されて「あの世」に旅立ってしまった。般若心経の響きと、間をぬうように鳴く蝉の声のシャワーを浴びて、皆で旅立ちに沿った。会食でこもごも生前の思い出を語り、たとえ一時であっても亡き人を忍ぶことができて、その分だけ気持ちの安寧も得られた。現世との境目は、未整理の心持と想像の世界ゆえ、理解が違ってしまうのは、人間社会世界の常にして容易に越えられないことかもしれない。だから心を落ち着かせる場の存在価値があるということだ。

 曹洞宗は新潟の檀家だったころからの「つきあい」になっている。信心のない不心得者からは、読経のありがたみというよりは、長い間人の心に寄り添ってきたことへの敬意を感じて、理屈も理解も少し脇において「全てのものは、無常・無我である『空』の存在なのだから、とらわれ、こだわりを捨てて、全てを『空』に観じていく」とする般若心経に身を置かせていただいた。

 道元が鎌倉時代に開いたとされる曹洞宗は、中国での始まりが1100年ほども前であり、日本では臨済宗派にいて、中国にわたり学んで1226年に日本に戻った道元が広めたのだが、中国に行く前に所属した臨済宗とは武家に支持されたということだった。
 武家支配層から離脱の動機があったのだろうが、中国にわたったことが影響しているのだろうか。「臨済将軍曹洞士民」との言葉があるそうで、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まったとのことだ。

 そのことと、つながっているのかどうか経緯はわからないが、教義には現代日本の宗教として、三大スローガン「人権」「平和」「環境を掲げている(2005年現在)。曹洞宗の時間軸には、宗派間の分離、変遷が目まぐるしくあり、一度は絶えてしまってまた引き継がれるなどの動きがある。現在も永平寺派と總持寺派が存在している。三大スローガン(平和、人権、環境)が現世の反映したものとみると、信心も現世と切り離しては存在できないということなのだろう。

 このこと、NETをみていたら「Yahoo知恵袋」に投稿があった。
質問~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
禅宗である曹洞宗のスローガンが“人権”“平和”“環境”なのですが、どうしてしまったんでしょうか?
世界的に人気の禅を利用したい左翼に乗っ取られてしまったのでしょうか?
道元の考えはルソーとはかけ離れてるし、人権なんて胡散臭い、安っぽいことは言ったりしない。
答え(ベストアンサーとされている)~~~~~~~~~~~~~~~~
 曹洞禅の神髄は只管打坐です。ただ座ることで自身を極限まで磨くことが目的です。禅宗がいつから大乗になったのでしょうね。人権、平和、環境なんて自己研鑽のスローガンには不要です。また、仏教では因果応報が社会の仕組みですから人権なんて関係ありません。釈迦も平和には心を砕いたようですが、環境はその時代なら想定外です。きっと曹洞宗も時代に合わせて大衆に迎合したのでしょう。その結果がセンチメンタルなスローガンになったのだと思います。
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この答えの主をのぞいてみたら
職業 愛国者
自己紹介
国を愛して何が悪い。国を愛せないものは敷島より去れ。
若い人の質問に出来るだけ答えるようにしたい。資料を貼り付けたりするのではなく、出来るだけ自分の言葉で解釈して回答したい。若い人たちはこれから国の礎となっていく大切な人たちだからだ。まじめに考えてほしいと願っている。

と登載されている。関係者ではない人間が答えたものを、「ベストアンサー」ととりあげるヤフーは作為的すぎるのではないかな。このスローガンは世界共通の言葉で重視されているし、未来にひきつがれるべき大切な言葉だ。戦争行為の対極にある。もっともやりとりの内容については責任を取らないということにしているだろうけれども。

ヤフー → 質問、相談



2016年7月15日金曜日

選挙が終わると「憲法問題」を取り上げる軟弱さ

 現行憲法がもっている規範はすばらしいものだと、この間の政権の挙動を見ながら感じ、再確認をさせてもらってきた。すべての法律体系や訴訟での争いは憲法をもとにした判断なのだから、たたえ知らないことでも、その効用は及んでいるし、日本が他国の侵略からたどった道を、不完全な反省ながら憲法を軸にしてすすんできたことは間違いない。

 参議院選挙が終わって結果が出た。論戦では「野党連合は野合だ」とばかり叫び、「解釈憲法」を変えてしまうとすることは、テーマでないかのように凝らしてきた。論戦がかみ合わないことは戦略として位置づけられたのだろう。日常の政治に対するメディアの姿勢はまた、ベッキーが何をしたの、清原がどうなるのと、「安保法案」の審議など大事な国会の論議も、まともに情報を取り上げることは少なかった。

 それは何時もそうなのだが、取り上げたかとみると「舛添劇場」のように、センセーショナルになることが目的のように見えなくもなかった。それでもこれまでよりは、ましだったと言えるのかもしれない。ともかくも真なる問題を表に出ないようにし、投票率は下がるまがいの印象をことさら植え付けることで、投票の動向を決めようとする戦略はものすごいものだったように思う。告示になるとピッタリとテレビ報道は選挙の話題を報じなくなる。

 政権の干渉から面倒を起こしたくないメディアが、類する報道をやめてしまうということがあるということ。だから週刊…という雑誌などが先行して、NETの交流サイトで拡散され、一定程度はましな情報が伝わっていく。憲法前文を乗せた週刊誌まで現れたのだから、大新聞やテレビ報道にかかわっているところは、頑張らないともっと購読者を失ってしまうことになるだろう。もちろんNETに流通する話題で、一定程度報道でとりあげて使うことはある。

 NHKの報道も選挙前日に「明日は納豆の日」(710日=ナットウ)とはいったものの、「選挙の日」とは言わなかったという。民主主義の形骸化がどんどん進められて、選挙に行っても仕方がないと、動機づけが薄められていくことは、いわば愚民思想に置かれているということなのだが、そこまでの「怒り」をマスコミが取り上げるようになるのは、もっと先になるのだろうか。

 政治のことを取り上げると週刊誌が売れるとのことだから、これから先もぜひオピニオンリーダーとして頑張ってほしい。都知事選が始まった14日から、なんともタイミングよく出所の「不明」な天皇退位説が、流れ始めた。これも随分とハデな報道でびっくりというより、またかよという気分が先行した。官房長官は「コメントは控える」と言いつつ、「皇室典範改正準備室」で検討はしているというので、出所は政府なのだろう。宮内庁はそんなことは言っていませんと否定している。

 出所不明の話題をそこのテレビでも一斉に取り上げて、内容も過去の天皇の発言などを取り上げて、かなりの準備をしていたことが覗える。公務に耐えられるかどうかは、国民が決めるわけでもないし、だからどうなのというふうに言ったら、「不敬罪」にされてしまうかな。しかし「憲法改正」と絡んでいることなのだろう。現行憲法を天皇はよく理解し、戦争という悲劇はあってはならないと表明しているから、そのこととの齟齬はなんとなく見えることだ。

2016年7月8日金曜日

フランスの渡り鳥の羽が短くなったのは「他人事」でない

 今朝のNHKで報道していたフランスの鳥の話。温暖化によって渡り鳥が長距離を飛ぶ必要がなくなって、羽が小さくなっているということだった。写真によると確かに翼の先端がとがっていた羽のものが、短くなって丸みを帯びて全体が小さくなっている。数十年での変化ということで、鳥の「進化」にも影響を与えている人類の営みを考えざるを得ない。対動物に限らず人間同士の社会にも様々な影響がないとは言えない。そこに思い至るのが人(類)以外にはないので、責任は大きい。

 ところで参議院選挙の報道では、NHKの政見放送以外はほとんどそれに関する報道がない。安保関連法、アベノミクス、TPP、憲法、子育て、教育など身近な問題の政策議論は、報道ではさっぱり取り上げられない。

 今日の「羽鳥慎一モーニングショー」で、高知県でやったアンケートでは、「3分の2の議席で改憲」ということは知っているか?という新聞社の問に「わからない」という回答が圧倒的に多いということが紹介されていた。モーニングショーでは、知事選へ向けてのテーマを取り上げていたが、このときに知事選挙のことばかり伝えてよいのかという疑問が出されて、この話題になった。

 長嶋一茂氏が「『3分の2』の話私も知らなかったよ」と発言し、羽鳥慎一氏が「高知県のアンケートでそういう結果なのだからそうですよ」ととりなしていた。報道機関が政権を斟酌して「自粛」しているということはよく聞くが、まさに選挙告示後になると選挙の話題はきれいになくなってしまう。

 それどころか知事選挙の立候補予定者の動きばかりを、これでもかと伝える。この参議院選挙で、どういうことが進められようとしているのかということには、目を向けないようにしているという意図を感じざるを得ない。選挙の度に重ねられるこうした動きに、「目隠しされたまま」で、投票率の低下が生じまたそれを政権党が有利な選挙制度で結果をもぎ取ることが続いていいのか。

 ベッキーだの清原だのの話題を取り上げるなとは言わないが、適当なあしらいでいいのではないか。生活と将来に深くかかわる問題、憲法やら戦争やら、経済や税金、格差やら貧困やら教育の問題を政治のこととして、改善の道を考えあっていくべきだし、解決を迫っていくことで短兵急な犯罪の土壌を生んでいくことを防ぐことになっていくのではないか。

 政治を考えにくい日本人が作られて、押し込められては、フランスの「渡り鳥の羽」になって、飛べない鳥になってしまうのではないか。いや、すでになっているのかもしれない。

2016年7月4日月曜日

「民主主義」の理解は

 民主主義について考えさせられる場面があった。イギリスのEU離脱の国民投票で、賛成が上回った結果になって、あとから生じていることをネタにした番組だった。国民投票のやり直しを求めるNET署名が3百数十万になったとのことで、このやりかたが民主主義に反するという主張だ。多数決により決まったことに異議をさしはさんで、ひっくりかえすというのは民主主義でないというものだ。

 国民の直接投票という手段で結論が出たことなのだから、ひっくり返すという方法はおかしいという主張は一理ある。だが、日本の憲法「改正」論議では、憲法9条をなくすか変えるために、「時代に合わせて変えてよいものもある」という一般論的な主張で、何をどう変えるかを隠したままにしておくという姑息な民主主義が、場合によっては堂々とまかり通ろうとしている。憲法全体で定まっていることは、未来永劫変えないということはなりたつ議論でないのは当たり前のことだ。

 国民的議論がされる場合はもちろん、何かの結論を求める場合も、判断しうる条件をすべて正確に情報提供されるべきことも民主主義にとって大切なことに違いない。そのうえでの論議がよりより結果を導くことになる。国民投票が終わってのち「そういう理解ではなかったよ」ということで、論議される民主主義は幅広いものという理解ができないものだろうか。

 すでに結論がでたこととされるよりは、どういう利益や効果があったのか、なくなったのか足りないものはなかったのかを見直すというのも、民主主義の形態であり切り、捨てられるべきものなのかどうか。

 日本の「安保法」の国会審議で、議事録を後日「挿入」されて採決決定したことになっているが、こういうことが許される日本の民主主義ってなんだと、だれでも思うことだろう。法律が決定事項であっても改廃はできるわけなので、「決定したもの」という説得は力を持たない。EC離脱国民投票の後日談を批判する筋合いではないように思う。