2018年8月28日火曜日

永平寺燈籠流しへまた行く


 義父母が元気だったころ訪れて、親近感のある永平寺の「大燈籠流し」に再訪した。永平寺に形ばかりの参拝をしてから、会場の九頭竜川の河川敷に向かった。ちょうど台風20号が通りすぎたあとで、河原に水が上がっていないだろうかと、前日に観光協会に問い合わせてみたら、大丈夫だとの返事で「まさか長靴?」の心配は無用だった。

 昨年、河原の蒸し暑さを体験していたので、今回はレンタカーを利用することにした。燈籠流しが始まる前のセレモニー開始まで、車の中で過ごすことを考えた。式典が始まったとき空を眺めると、嫌な感じの黒雲が上空を蠢いていた。しかしほんの少し雨がぱらついた瞬間があったものの、セレモニーが終わって燈籠を流すまで、なんとか避けられた。









2018年8月21日火曜日

散骨~さらば仙人


 散骨で…と言っていた親父の要望に沿って、ではあったが家系の墓に入ることも、その前は言っていたのだから、正確にはどっちなのかはわからない。特に望みを確定していなかったことには違いない。神仏に関しての話などはしたことがなかったので、どういう志向なのかもよくわからないのだが、家の柱に神社の札が掲げてあったから、神には信頼を寄せていたのかもしれない。

 片付けの中から軍隊の紀章もでてきた。「神」についての存在感を十二分に与えられた時代を通ってきた。だからその影響はあったといえるだろう。

 親父は次男坊だったから家を継ぐということからは外れていた。重きを置くことはなかった事情はそこにあったのかもしれない。そしてそのあとの私なのだから、神も仏も「みんな夢の中」的解釈する輩が判断することは、散骨が妥当ということが帰結だったのだろうか。

 3組が海洋散骨に参加した。それぞれの思いが、散骨の方法にも反映していた。海洋散骨を「委託」した家族。一人だけで参加の人。そして3人で参加した我々。台風が近づいていて波が少し高かった。船頭さんが、波のない島近くまで船を運んでくれて、海上をゆっくり旋回させた。細かく粉砕した袋入りの遺骨は、口を開けると海上に舞いながら散った。記念の写真を撮ってから献花をし、お酒も投入した。昨今は散骨が増えているのだと業者が話していた。




2018年8月17日金曜日

「転んでもただ起きぬ」の心がけでないと撮れぬ写真


 楽しみのために写真を撮るはずのものなのに、写真を撮らなければならないとなると、なにか負担を感じてしまう。写真の合評のために用意してなければならないから、この暑い中どこで撮ったらよいのかと懸命に考える。自分が選択したことをやるのだから、ようは我儘なことだ。

 先日湯河原に行った折にカメラを持って、頑張って早く起きて海岸まででた。台風が近づいていて、雲が多かった。それでも朝方らしき赤味が、雲を染めていた。海岸で釣りをしている人がいて、シロギスを狙っているとのだった。新幹線のトンネルが掘られて、その土砂で海が埋め立てられてからは、釣れなくなったと話していた。








2018年8月15日水曜日

阿波踊り「総踊り」を見て思い出した映画「祇園祭り」

 1968年に制作された映画「祇園祭り」の圧巻は、中村錦之助が山車の前に立って、見えをきり祭りを成功させるというシーンだった。「応仁の乱後、京都の町衆たちが室町幕府権力に抗して自治体制を築き、その象徴としての“祇園祭”を復興する」という筋立ての映画だった。そのときの堂々とした「反骨精神」のような場面に感激してよく覚えている。

 1964年オリンピックに際して、テレビの普及が大々的に進められた。映画産業に対する影響はすさまじいもので、「エログロ、暴力」路線へと傾斜していく時期だった。中村錦之助(萬屋金之助)の主演作ということだったが、映画化するまで紆余曲折があった。制作会社が予算化せず中止になったこともあった。錦之助が資本金を出し、「日本映画復興協会」を設立して、蜷川京都府へのバックアップもとりつけてようやくクランクインした。

 その後も、脚本完成の遅れ、伊藤大輔から山内鉄也への監督の交代、出演者の日程調整、製作費の増大(約3億円)、さらには政治的介入、ロケ現場での暴力団による妨害もあり、まさに艱難辛苦の末に完成した映画であった。最初の企画から完成まで実に7年を経た労作でもあるとウィキペディアに紹介されている。俳優のメンバーがものすごかった。
…中村錦之助:瀧花久子:佐藤オリエ:永井智雄:田中邦衛:志村喬:田村高廣:斉藤美和:藤原釜足:小川吉信:大里健太郎:大木晤郎:橋本仙三:沢淑子文:山口俊和:小沢栄太郎:浮田左武郎:有馬宏治:御木本伸介:三船敏郎:尾形伸之介:下元勉:渥美清:北大路欣也:関根永三郎:下條正巳:堀正夫:加藤浩:田中浩:中村時之介:玉生司郎:松山英太郎:片岡半蔵:鈴木悦子:遠山金四郎:伊藤雄之助:伊藤寿章:高倉健:美空ひばり、中村米吉、中村光輝:中村賀津雄:大辻伺郎:木暮実千代…映画衰退の時期を乗り越えようする意気込みだったのだろうか。

 「祇園祭り」は洋画系映画館にてロードショー公開され、大ヒットを記録した。東京では新宿ミラノ座、渋谷パンテオン、松竹セントラルの3館で翌年110日までの7週間上映され、観客動員数309,800 人、興行収入11,441万円を上げ、それまでの邦画ロードショーの新記録を樹立したとのこと。この完成の経緯も当時の時代背景を映してすごいものだと思う。

 ことしの阿波踊りが「政治」の方向から干渉を受ける(不正の事実もあると報道されている)とは、信じがたい。為政者の言う通りに従わないものは許さないという態度こそ、文化を軽んじるもので許されない。金儲けにつながらなければやらないなどとは、「公」のすることではない。総踊りの映像を見ながら「気概」を重ねてみた。民衆の「一揆」を感じさせることだった。

阿波おどりのルーツは、このような人々の自発的な踊りだったのだろう。江戸時代にも、為政者が何度も「一揆を招きかねない」として「阿波おどり禁止令」を出した理由がよくわかる。

2018年8月9日木曜日

東京中心主義というのも格差の助長かも

 13号台風が東京直撃の報道は実に丁寧にどこのチャンネルでも取り上げていた。ともかくにも異常な気象は甚大な災害を起こすのだから、注意を喚起するに越したことはないと、その限りではうなずける。もう自覚的に状況を把握して避難しろとまでいう。動くのも緩慢になっている高齢者への親心かと思わなくはない。ただ、それでは台風の影響がないところはどうなのということは起こる。

 沖縄の県知事翁長さんが亡くなって、これも昨夜の大きなニュースだったはずだ。NHKの夜の7時、9時のニュースでは枝葉のごとき報道のやり方だったとか。辺野古基地の建設問題に毅然と反対を唱える姿勢は、だれからも一目置かれることだ。

 先日の全国知事会で日米地位協定の改定をという意見が全会一致で決まった。基地問題が政治の課題として浮上してきているのに、知らぬ顔はないだろう。意図的にやらないということが想像できる。

 良くも悪くもアマチュアボクシングの話題は、すべてのチャンネルを制覇している。同一の話題でそれぞれが掘り下げた報道合戦にする。この話題に限らないが、違和感をもたざるを得ない。

 豊洲市場は「安全宣言」をした。シアンの汚染等があるにもかかわらず、ないかの如くのあつかいで、その上豊洲市場の使いかっても酷いものと言う声が上がっているのもかかわらず、この報道がほとんどないのがこれまた不思議なことだ。結果として「問題ない」という扱いにしている。ことがどんなに「真っ黒」であっても、なんであっても指摘の対象としないのは、現政権の有り様と酷似 している。

2018年8月2日木曜日

ゴミを溜める人になるか


断捨離とはヨーガの行法が元になっているとのことで
断:入ってくるいらない物を断つ。
捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。 
離:物への執着から離れる。
 と、ごく普通の整理のやりかたが律されているように見える。当然と思いつつ実際のところ、家のモノが増えていっているのは間違いのないことなので、少なくともタグ付けして減らしていく作業は必要なことだといえる。

 この有り様の原因について、
「日本では伝統的に“もったいない“という観念・考え方があるが(これはこれでひとつの考え方・価値観ではあるが)、この考え方が行き過ぎると物を捨てることができなくなり、やがてすでに使わなくなったモノ・将来も使うはずがないモノなどが家・部屋の中に次第に増えてゆき、やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて心身の健康を害するほどになってしまう。」
というテーゼとして語られている。

 しかし、「もったいない」と考えることが「心身の健康を害するほど」にまで断じてしまうというのはゆき過ぎのような気もする。動くことのおっくうさを感じる年になると、日常のゴミであるもののほかに不要なものの除外化をするのは、作業として負担になってくる。だからこそ必要なことと言えるのも確かだが、子供たちの様子を見ると、長時間の仕事でろくに部屋にいる時間がなくて…ということもある。年齢の事情だけではない。

 いらないものを買うことはある。消費すること自体は、人間の本性と言ってもいいのではないかと思う。仕事して得た成果で、なにがしかの満足を得ることをなしにはできない。よしんば無駄だったとしても、モノが自分の所有になったことの満足感ということもある。見分けて買わぬことには異議はないが、それはかなり難しい。

 「もったいない」は、時とところ、例えば後進国から見たら、やっぱりもったいないを不文律にしなくてはならない。先日水道の蛇口が壊れて、部品をようやく購入して修繕した。日曜大工程度でなおせるものは今はまずない。トイレの流しも同様で、業者を頼むのが当たり前のような作りになっている。だから家にあるいらないものを捨てるというのは、ある意味当たってもいる。ノコギリも金槌もいらなくなるわけだ。でも本当のもったいなさがどこかへ、なくなったかのようだ。

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