2018年9月29日土曜日

写真展の講評で喰らう一撃

 写真を撮るときは「思い込み」をうんと入れ込んでやる。そうするのは自分に限ったことではないらしい。「いい写真だろ?」と、誰と言わず言いたいのは、写真を愛好するものの性なのか、重要な動機付けとなる。

 問題はそのあとだ。時の「評価」に晒すと、どういうことはない、膨らんだ風船が見事にしぼむ。しかも都合の悪いことに、動機であれ理屈であれ、説明を加えてしまうと、それを写真で表現できなかったんだねと、恐ろしい言葉が跳ね返ってくる。

 今回の講師は「写真道楽」のワードを使った。楽しい道なんだよねと、コメントされるとうなずく以外にはない。この道に深く根差した話には聞こえた。そんなこと言いつつ、写真活動にはやるほどに「奥深い」道をさまようようになるというのが印象。

 何に?どこに?なにを?いろいろなことがあり、瞬間があり、怒りもあり…(そう言えば「笑い」はほとんどないが、社会性を帯びるとなると然りなのかも)情念だの恐れだの際限のない世界が相手となる。待ってくれ、ただ己が整理着かないだけのことではないのかなという、嫌な自問も噴出してくる。

2018年9月28日金曜日

テレビのチャンネルを動かす

 かつて、テレビのチャンネルは回すものだった。今はチャンネルを変えることは何というのだろう。「チャンネルボタンを次々に押す」かな?もっと端的な言い回しはありそうだが、「チャンネルを変える」では、端末機をいじっているということが表現されない。 意に沿わないチャンネルは変えればいいわけだから、そんな表現などはどうでもいいことで、どういう言葉で言い表すのかは文学者に任せておけばいいことかもしれない。

 この動作は、つまらなければ抹殺して次の面白いチャンネルを探る視聴者に比べて、報道する側にとっては、この動作に対する重圧はすごいものだろう。耐えられないほどのという言葉も当てはまるかもしれない。瞬間視聴率なるものもあるらしいが、視聴率が悪ければ、番組を制作構成する人たちのクビがかかってくる話だ。

 「貴乃花引退、退職」の話題が、各チャンネルで競い合いをしている。興味があることではあるが、同じ話を各局が延々とやるのは、鼻に着いてくる。興味深いと思われることの選択は報道する側の視聴者に対する態度だから、その点では視聴者の「要望」が形にならないといけないのかもしれない。中国のトップ女優がいなくなったというのも、やっぱり大差がない内容になる。チャンネル数が多いだけ同じネタでの報道では、そのタネのなかの新ネタを拾うことがもっぱらの仕事になる。「だからどうなのよー」と声をかけたくなることもある。

 たまの政治ネタでは、良く掘り下げたと感じることもあるが、やっぱり下ネタ風のことみたいに、とっつきやすいことでは、「忖度」が充満しているのかとくくってしまいたくなるほどだ。

 沖縄県知事選挙で、政府の主要な大物官僚が何回も業界へ依頼にいっているだの、事前投票が最重要課題だとはっぱをかけて大動員されている政党の話など、SNSでも拡散されている。こういうネタもつかんではいるのだと思うが、「中立を装って」か、一向にテレビ画面には登場しない。豊洲のことも、安心できるようにはなっていないとことが伝播している。

 基地、自然環境、日米地位協定、地方自治、安全等々、突っ込みどころはたくさんあるだろう。酔っぱらって人をひいて逃げたタレントの追っかけをやって、ニュース報道ではあまりに浅薄すぎる。テレビの電源は切っておくほうがいいことになる。

2018年9月23日日曜日

ベランダの朝顔が今ごろ見事な花をつけた

 気候変動のあおりを受けてか、以前に鉢植えにしていた朝顔の弦が今頃ショロショロと伸びだした。最近は手をあまりかけなくなって、放って置かれている植木鉢で、再生したらしい。そこで成長して見事な花をつけた。

 この気候異変の影響で野菜がまた値上がりだしたが、人の手をいくらかけても、収穫時に実りまで至らないのは、むずかしくなく理解できる。

 その一方我が家の朝顔のように放りっぱなしのものが、見事に開花するというのはどういうことなのだろうか。それも太陽の熱も必要以上蓄えるはずの、ビニールコーティングしている上でのこと。自然の生態とは摩訶不思議なものだと思うが、強烈な気候の変化に適応していることと考えると、それに合わせた動きなのか、あるいは追い込まれてのことかと、同情の念が湧いてくる。



2018年9月21日金曜日

20年もたてば人、物みなくたびれる


 我が家を建築した会社が、20年点検だということで調査に入った。50年面倒見るといっても、リフォームはさておき修理箇所に限っても、「自己負担」でやるわけだから、どのあたりまでがサービスになっているのかは、判然とはしない。

 点検項目の主要な部分としている、屋根とベランダのコーティングの張替えの時期なのだとか。調べたら屋根の方は傷みでてきているとのこと。23階のベランダのコーティングは、23年ののちには張替えが必要だという。どうせなら同時にやってしまおうかと、修理を頼むことにした。

 そのほか風呂場、台所などの修理も射程距離に入っていると脅かされた。あと20年先に…という説明もしていたが、もうその頃はいないからと笑って済ませた。

 部屋のドアのラッチ(留め金)部が破損していたので、修理をと言うと、ネットから部品購入できるということだった。すぐに購入して、息子に手伝ってもらいながら二カ所の修繕をうまい具合にできた。20年もたつと人間もくたびれつが目立つが、あれこれのモノも劣化してくるものだ。




2018年9月20日木曜日

写真展の成果よりは、成し遂げることの効果

 「A3ノビ」サイズの写真を2枚プリントして、写真展会場に向かった。本当は預けて持って行ってもらう予定だったが、渡すのが前日だったので果たせずに、直接会場にもっていくことになった。

 写真展は7つの支部を合わせてやることになっているが、展示会場の東村山市立中央公民館では、集合時間の13時前からすでに数人が準備を進めていた。

 仕切りのパネルを倉庫から引き出して、展示のコーナーを作ることから始まった。広さは十分あっていいのだが、自力で会場を設置するということになっていて、作品をパネルにセットするまで大変な作業になる。

 せっかく掲示した作品がパネル上で踊ってしまったり、中には落下してしまうものもあったりして、微妙な傾きを調整して、すっかり出来上がったときは16時半を回っていた。 

 「写真の披露」は翌日からになり、撮った写真の「評価と効果」が試されることになるが、撮ることから始まってこの状況に来るまでで、「長い道のり」を感じる。疲労も手伝って達成感をもってしまうのが妙だ。





2018年9月18日火曜日

涼しくなると頑張る秋


 秋は実りの季節だ。しかし喜んでいられない出来事が、これでもかという具合に発生して、秋を文字通り味わうなどとすることは、気軽にはできないような気がしてくる。この時期に人並みにかかわることのいくつかを体験して、人とはものすごいエネルギーを割いて活動しているのだと、ちかごろ特に思う。

 「経済労働活動」などには縁遠いながらも、少々くたびれ気味のわが身も、それなりの活動に身を置いて奮い立たせることがいくつかはある。自分には好きな部類で付き合っている、合唱の発表会では暗譜がきつくてまいった。無事に(でもなかったけれど)ともかくも終了して、惚けた気分が直らない。力が抜けたようで、のんびりしたい気分が続く。

 とはいえ「次に控えし」は写真展のための準備だ。A3の少し大きい写真用紙に、慣れたはずのプリント作業に入った。が、どういうわけか同じものが2枚プリントされてしまった。慣れてきたはずのコンピューターは、こんなことをしでかす。用紙代はもったいなかったが、かつてのように何枚もやり直すことはないから、良い方かとしなくてはならないかもしれない。

 なにを取り掛かるにも気合と気力を集中しないと、やり始めることもかなわない。好きでやっているのだろうと反論を食うに決まっているから、他人には声をあげてぼやくわけにはいかない。元気なうちが花だから、金もかかるが「高尚な趣味のため」だと、屁理屈も動員して秋を乗り切らんと望むところではある。

写真展作品の2枚








2018年9月17日月曜日

涼しくなるとハゼが深場に落ちる

 朝晩の涼しさを迎えるようになると、足に靴下をはきたくなるほどの「冷たさ」を感じる。セミの鳴く声もろくに聞かず、蚊が飛んでいるのも見えなかった夏は、台風の被害を受けなくても、気候の変異として受け止めざるを得ない。これから先もこんな状態は昂進していくことだろう。

 「想定外」という言葉が、原発事故のときから盛んに使われだした。その言葉は、言い訳としておかれるべきことなのに、多用されてしまってあたかも、防ぎようなないこととの幻想を振りまく手伝いをしている。

 北海道の地震で、電力会社とそれを司る国の、いわば怠慢で度を外れた停電に陥ったことや、沈下を続ける関西空港の浸水などは、これも「想定外」としてしまうのか。作ってきた社会の基盤がもろくも崩れてしまうのは、処々折々の「製造物責任者」に問われるべきことではないのか。

 解釈の域を出ないが、「天災」という表現が、マスコミでも使われなくなってきたのは、天然由来に限らない原因による災害であることが、われわれの目にも見えてきたからかもしれない。社会の政治的ないし人為的な行動で、引き起こした否定的有様が修正されるべきこととの範疇であれば、まだこの先の持続的社会への希望がつなげる。

 「天災」だの「想定外」だのと社会活動の埒外として逃亡したのでは、「誰でもいいから殺したいと思った」などという犯罪が、これからもっと多くなってくるのではないだろうか。それは極論としてもそんな気がしてならない。

 涼しくなってくると当然ながら海水温も下がっていく。浅場の魚の餌も少なくなって、ハゼが深場に「落ちて」いく。冬場への準備行動だ。その魚たちも、今の気候変動のなかでおそらくは、水温が高いのやら低いのやらで、迷いながらも比較的水温の高い深場に移動していく。いつもなら9月の初めにはその時がくる。その前が、夏の間の活発な就餌で、育ったハゼの大づりのビッグチャンスだ。

2018年9月11日火曜日

古い蒲団を捨ててみる

 写真を撮って、選んでプリントして、合評会に出す。この繰り返しで「いらない写真」を片付ける。逆に言うといい写真を残すわけなのだが、これがうまくゆかない。講師なり誰かの取捨選択と、自分の思い入れが交錯するので、そうかという得心がなかなか定まらず、得にくい。

 この先に「これはいい」というものを、手に入れられるかどうかはなんとも言い難い。いつまでも下手な鉄砲も数打ちゃー…」というわけにはいかないが、打たなきゃ手に入らないことでもある。やっと涼しくなってきて、鈍くなった頭の回転も少しは解消するかと期待しつつ、繰り返しの作業に入ることにする。

 敷蒲団をどうするのかとずっとお試しで研究しているが、柔らかいマットレスが腰に影響しているのかと、外すことにした。使ってみてから大分たつが、先日の旅行の時に旅館で使った敷物が、ちょっと固めだったのが、いい感じがしての着想だ。

 ちょうど季節の変わり目だし、長年使っていた「せんべい布団」もこの際片付けの対象とした。こちらは撮影した写真の扱い程難しくはない。虫の声も聞こえるようになったころには、近所の神社の祭礼がある。

2018年9月5日水曜日

三方五湖の立ち寄り、衆議一決

 連れ合いの観光推薦により、三方五湖がいいかと定めて、中一日の立ち寄り場所にした。観光のなにが好みかと言えば、温泉であることは一致するが、長年「釣り主体型」であった我が旅は、ぜいたくをなるべく避けるのを通例としてきた。

 釣り趣向は病気とは言わせないが、突っ込み型の「道楽」には違いない。だからこそ回数を稼ぎたい。となるので、なるべく安い経費でやることを旨とする。高級な温泉でなくていいと、いつも不平を垂れている。

 海と湖がくっついているのだから、ああ魚がいるのだなと、性癖からさきに頭が動く。若狭湾と言う素晴らしい漁場の一角に位置するのだから、魚種も豊富に違いないと思うと親近感が湧いてくる。

 案の定、三方五湖の案内には、魚の豊富さが書かれていた。コイ、フナ、ボラ、ハゼ、クロダイ、スズキ、カレイ、サバがいる。養殖ではハマチ、フグ、マダイなど。五つの湖はつながっているようで、三つが汽水域になっているとのこと。つまり河口と同様の役割があることで、魚種が豊富なのだろう。太平洋側でこれだけの魚が育つところはそうないだろう。釣りの会があれば、この場所は格好な釣り場となると、余計なことまで考えてしまった。





2018年9月1日土曜日

永平寺大燈籠流し法要の圧巻


 曹洞宗大本山永平寺の役寮・雲衲衆130名が行う大施食法要(読経と戒名・法名の読み上げ供養)は、見栄えのするものだった。向こう岸に渡ってしまった人への思いをのせて読経が続いた。燈籠流しはそのあと、たくさんの人たちが並んで九頭竜川へ流した。燈籠の数は一万基だとのことだった。

 曹洞宗は、かつての戦争で果たしてしまった役割を「懺悔」している。反省を込めた主張が明快に述べられている。一万の流し燈籠のなかに、いくつもの懺悔がふくまれていることだろう。




曹洞宗のサイトから
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曹洞宗は、1992年11月20日付で過去に関与した侵略と植民地支配について「懺謝文」を表明しました。「ともに生きる喜び」について、「懺謝文」では、次のように説かれてあります。
「われわれは誓う。二度と過ちを犯すことはしない、と。人は、何人と言えども、他によって侵されたり、迫害されたりすることは許されない。人はかけがえのない存在としてこの地上に存在するものだからである。それは国家においても、民族においても同じである。」
省みれば第二次世界大戦以前、国内外にて我が宗門はさまざまな形で戦争賛美や他国の人びとを傷つけるような説教を繰り返した、恥ずかしい過ちの歴史を有しております。今一度ここに懺悔(さんげ)の念をおこすとともに「過ちは繰り返さない」という思いを皆さまとともに受け止め、曹洞宗は「不戦」の立場から、戦争は誰にとっても過ちであることを主張します。
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