2013年11月15日金曜日

首里公園の次は「不屈館」で沖縄の心に触れ、「歌と踊りの交流会」に触れる

 「不屈」は凡人にとっては、辛い表現。多分、実世界にはそうそういるものでない。しかし瀬長亀次郎にはその言葉が100%似合う。
瀬長亀次郎は沖縄人民党で活躍した人。経歴はウィキペディアに端的なのでコピーした。
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1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれる。沖縄県立二中(現沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。2年間の兵役を務めた後、1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征する。
戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営する傍らで沖縄人民党書記長となり、1950年、沖縄群島知事選挙に出馬するが、準備不足もあり当選者の1割にも満たない得票数で落選。しかし、1952年の第1回立法院議員総選挙では最高得票数でトップ当選を果たす。この選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。
195410月、米軍は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕。たった1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけ、懲役2年の刑の判決をして、再び投獄された(沖縄人民党事件)。19564月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬する。対立候補から選挙妨害を受けるが、まったく保護されない無法選挙を戦うことを余儀なくされたものの、大方の予想を覆し当選を果たす。だが占領軍出資の琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置に遭い市政運営の危機に見舞われるが、市民は自主的な納税によって瀬長を助けようとし、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し当選後は86%にものぼり、最高で97%にもなった。そのおかげで自主財源での市政運営できるようになり危機を脱する。これに対し占領軍と琉球民主党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。しびれを切らした占領軍は1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)1954年の投獄を理由に、瀬長を追放し被選挙権を剥奪した。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米軍との攻防は、瀬長に対する沖縄県民の絶大な支持を呼んだ。

196712月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年の沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に当選する。以降7期連続当選を果たした。日本共産党に所属し共産党副委員長などを歴任。1990年、政治活動を引退する。2001105日、肺炎で死去。享年94
ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。
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 感心することは多々あるが、瀬長亀次郎が那覇市長になったときの市民の行動は驚くべきものだった。占領軍が補助金と融資を打ち切って、預金凍結までして妨害をした。市民は自主的な納税によって瀬長市長を助ける行動に出た。納税率が最高で97%になったという。自主財源での市政運営できるようになり危機を脱した。こんな出来事は将来もはたしてあるだろうか、まさに驚きの出来事だった。自治体財政を開発などの浪費に使う自治体の長には爪の垢を煎じてやりたい思いがする。


 「沖縄の歌と踊りの交流会」は琉球料理を味わいながらの催しだった。「沖縄参戦音楽研究の芸術学博士」の新城亘氏を中心にした沖縄の文化を披露していただいた。