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2018年8月2日木曜日

ゴミを溜める人になるか


断捨離とはヨーガの行法が元になっているとのことで
断:入ってくるいらない物を断つ。
捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。 
離:物への執着から離れる。
 と、ごく普通の整理のやりかたが律されているように見える。当然と思いつつ実際のところ、家のモノが増えていっているのは間違いのないことなので、少なくともタグ付けして減らしていく作業は必要なことだといえる。

 この有り様の原因について、
「日本では伝統的に“もったいない“という観念・考え方があるが(これはこれでひとつの考え方・価値観ではあるが)、この考え方が行き過ぎると物を捨てることができなくなり、やがてすでに使わなくなったモノ・将来も使うはずがないモノなどが家・部屋の中に次第に増えてゆき、やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて心身の健康を害するほどになってしまう。」
というテーゼとして語られている。

 しかし、「もったいない」と考えることが「心身の健康を害するほど」にまで断じてしまうというのはゆき過ぎのような気もする。動くことのおっくうさを感じる年になると、日常のゴミであるもののほかに不要なものの除外化をするのは、作業として負担になってくる。だからこそ必要なことと言えるのも確かだが、子供たちの様子を見ると、長時間の仕事でろくに部屋にいる時間がなくて…ということもある。年齢の事情だけではない。

 いらないものを買うことはある。消費すること自体は、人間の本性と言ってもいいのではないかと思う。仕事して得た成果で、なにがしかの満足を得ることをなしにはできない。よしんば無駄だったとしても、モノが自分の所有になったことの満足感ということもある。見分けて買わぬことには異議はないが、それはかなり難しい。

 「もったいない」は、時とところ、例えば後進国から見たら、やっぱりもったいないを不文律にしなくてはならない。先日水道の蛇口が壊れて、部品をようやく購入して修繕した。日曜大工程度でなおせるものは今はまずない。トイレの流しも同様で、業者を頼むのが当たり前のような作りになっている。だから家にあるいらないものを捨てるというのは、ある意味当たってもいる。ノコギリも金槌もいらなくなるわけだ。でも本当のもったいなさがどこかへ、なくなったかのようだ。

不動産屋の宣伝がある~
ー5.2畳のワンルームはスッキリしたレイアウト。カーテン代わりにしつらえた布がゆるやかで明るい空気感を醸し出すー
「ものの少なさ」が5.1畳のくらしでも可という、「明るい暮らし」に使われようとは…


2013年9月12日木曜日

広告の迫力

 テレビのチャンネルを転換すると、健康食品のコマーシャルがいくつも飛び出す。どれも効果があると自画自賛だが、高齢になるにしたがって、あれこれの身体的な不都合がでてくるから、的になって責められる。出てくる症状は治癒するものならいいが、なかなか治らないと病気なんだろうという診断を自分で下す。いちいち医者にいて行っていられるかと、我慢できて間に合っている時はそれで済ます。医者に診てもらったところで、症状の軽減をするための薬をしこたまもらって金を置いてくる羽目になるし、年齢ですからねと納得させる妙薬を頂戴しておしまいのこともある。

 そこを見透かしての健康食品の宣伝大攻勢だ。○○パワー、コラーゲン、しじみナントカ、生薬、痩身「薬・食品・道具」と、「個人的な意見」だと断わりながら効能とやらを紹介する。こっちは身に覚えがあるから、フッと乗せられることになるのだろう。100%偽りとは言えないかもしれないが、その効能なるものはどこまで信用してよいものやら。家が唯一の居所になれば、テレビ情報が貴重なものになる。しかし、なにも使用前使用後の写真を撮ってまで宣伝することはないとは思うのだが、ヤセ願望とかビハク願望が幅を利かせるようでは、不幸な世の中だと思う。

ドイツの看板、ショウウインドウは迫力がある。












2012年10月7日日曜日

購買意欲で溜まるゴミ

 お婆ちゃんが荷物整理したいとしきりに言っているので、午前中手伝いするが、まだ終わらない。午後から続きをやるが、収束を考えながら疲れないようにと、気遣いつつ片付ける。昔の苦労があるからなんでも残してとってある。それに、不要なものとは言えないが、気持ちの残っているものが箱の中に溜まっている。誰にでもあることだろう。

 自分では整理のできないものでも、他人ならできるということがある。しかし、関係者の一人が「それは」と言い始めると残ってしまう。それも人情だろう。自分の釣り道具だって、きっと使わないだろうと思うものも多々ある。使うかもしれないとため込んだものは、他人から見たら「こんなもの」と思うに違いない。

 でも、あそこに「あれ」があったなと思うとき、その場所にあれば満足という気分もある。これは貧乏人の発想かもしれない。満足感は生きていくうえで大事なことだ、財産をもたない身にとっては。

 しかし今や必要でないものを過剰に持たされる世の中になってきたのは間違いない。「本当に必要かを考えてから買う」とか「一年触らなかったら捨てるとか」「新しいものは、古いものと入れ替える」ことがコツだと教えられる。しかしこれを上回る「購買意欲」を掻き立てられる。

 生産、販売する側は、携帯電話もパソコンも車も、次から次と新しい機種へ変えていく。買い替えて古くなったものはリサイクルで回収するが、たぶん相当数「不用物」として、日本の狭い空間に蓄積されているのではないか。

 一世帯に二台になろうかという車、各部屋へのテレビ設置。購入できる懐具合になったともいえるが、そうなって家族がバラバラになるということも手に入れた。固定電話が家族全員の携帯電話に置き換えられた。携帯電話は旧世代で造らなくなり、スマートフォンと変えられる。