川は川らしく山は山らしいのがいい

 渓流釣りに山の中にはいるとわかった。ダムや堰堤が川を変造している。川は山のなかから、最初は小さな源流から始まって、あちこちの支流を集めて畑を潤して、里を通って海へと下る。海の水は温められて空にあがり、また山へ雨となって注ぐ。

 今、当たり前の川の格好を残しているところはほとんどみることができない。十中八九堰堤やダムに出会う。渓流釣りを始めた頃はなにも判らなかった。ただ堰堤の下は水の溜まりができていたから、遡るのには迂回することになった。

 ダムの場合は、一度溜まったものが流れ出すので富栄養になった水によって、石にコケが生えたり清流でない濁りが入った水で、そこに渓流魚は少ない。堰やダムで寸断されると、魚の繁殖条件が悪くなるから、だんだん少なくなってしまう。


 川の砂利はコンクリートの材料に使われた。砂利として使えそうな川は、採取されて壊滅的と言えるほど川の体をなさなくなってしまった。今は採取ができなくなっているはずだが、取っているところがある。ぬけみちがあるとうことだろうか。

 川と人の生活との共存ができなくなっている。上流の土砂を堰堤で止めることを、日本は悲願のようにしてきた。住む人にとって生活の安全は不可欠なことだ。砂防ダムを必要として、どこへでも造った。

 古くなった堰堤は砂利で埋まってきている。役目は終わったから事実上廃棄することになる。埋まった砂利を始末しなければならない。そんなことができるのか。やれば相当の金がかかることになる。

 鉄筋コンクリートの建物を造るのもこれに似ているのかもしれないが、鉄筋コンクリートの耐用年数が過ぎたらどうするのか。結論的にはそんなことは「どうでもよいか知らないこと」としか導き出せない。

 これでは、後は野となれ山となれとなってしまう。人間の見識であってはいけないのだろう。何十年か先のことは考える必要はないのか。造ったことの効用が大きければ、後におこることの損失は埋まるのだというのだろうか。


有名な球磨川の荒瀬ダム撤去秒読み

 かつての水資源開発公団は、水の需要予測をほんの何パーセントか大きく見込むことで、ダム建設数の裏付けとして使った。本当はいらないダムは、今批判にさらされている。建設見直しとして遡上しているダムはほんの数えるほどだ。

 山の破壊も酷い。旅に出て一番目に着くのが小型の山の破壊だ。きっと、山をそっくり削って道路造りにするのか、ビル建設のコンクリートに混ぜて使うのか。

 道路を造るというのも、政治のわかりやすい現れだ。高速道路につなげたジャンクションだの「何とか道」だの「便利になる」との一点でできある。反対する声がないわけでないが、まず無視。

 しかし、連休の高速道路の混み具合はどうだ。費用対効果もきっちりやってもらう必要がある。都市の開発にしても、ビルがどんどん建てば我々のフトコロ景気が良くなるみたいな宣伝で進められる。こういうのも「ナントカ神話」になるのではないか。

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