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2017年2月12日日曜日

キューバに似合う言葉 その7

 陽気で明るいというイメージのキューバ。子供たちのくったくのない様子、どこでも聞こえるラテンの曲とリズムが、旅による気持ちの高揚によるものだとしたら、楽天的という言葉でもいいと思う。「楽天」の意味が天の与えたものとのと解すると、少々違うが、もうひとつ突っ込むとしたら、ノープロブラム(大丈夫だ いいとも オーケーだ)でもいいかもしれない。

 身体からしても「貧しい」というイメージはない(子供はスラリとした体格で、ある年齢になるとすっかり立派すぎる体格になる。公務員が多いがその賃金は高くないし、退職後の年金も少ないとのことだ。そのガイドさんが、もし食っていけないようなら、近所の病院で食べられると話していた。「最低保証」のしくみがあるわけだ。

 あちこち回ったなかで、ホームレスは見当たらなかったが、まったくいないわけではないとのことだった。ソ連崩壊による経済危機を乗り切って、年12%の経済成長を達成した。観光、ハイテク製品、医療技術(中南米に18000人以上の医師を派遣している)によってのこととされている。大学までの教育費無料により、識字率は先進国並みであり、ユネスコからも称賛を受けている。

 ギリシャのことわざに「愚かな王は、兵を集めて国を滅ぼし。賢き王は、智者を育てて国富ます。」とある。日本にピタリの言葉だが、「知者を育てて国を富ます」はキューバにも当てはまる。しかし、ニューリッチ階層が出現して格差が起きはじめていると言われている。これから先も楽には進まないことかもしれないが、それおも乗り越えていくだろう。(日本から見ると爪の垢でも…という気にもなる。)

丘の上のホテルに宿泊した折、坂の下にあるレストランまで歩いた。途中でどうも山火事らしい様子を見た。食事がすんで坂を上って行くと、消防車が一台と持っていた。言葉はわからないのだが、なにか話しているのに危機感がちっとも伝わってこない。まったくの想像だが、「あれはもうじ き消える」というような態度のようだった。

 翌日のバスの車窓から、雑草が燃えたらしき跡があちこちに見えた。よくあることなのだろうか。そういえばキューバにいた8日間、サイレンの音は聞こえなかった。


2017年2月10日金曜日

キューバの旅 ラテン音楽のノリ その6

 貧しさが、イコール「ビンボー」との嘲笑は適用できない。そんな気がしたキューバの旅だった。日本で「ハグ」をするのは限られた場面しかないが、ツアー現地ガイドさんは知り合いに会うたびにちゃんとハグをするし、街角のどこでも知り合い同士でハグをしている人をしょっちゅう見かける。

 昼食時のレストランはラテンのリズムを演奏を楽しませてくれる。もちろんDVDの販売やチップのためということもあるのだが、キサスキサスキサスやグアンタメラをどこでも演奏してくれる。日本人に知られている曲ということがあるのだろうが、キューバで生まれた曲を日本人が知っているというのも「名曲」たるゆえんなのだろう。その演奏がすべて演奏グループ集団によって違ったものになっている。音楽演奏法の広がりを見せているように思えた。

 バスのガイドさんが、グアンタメラを歌ってくれながら、自分で笑い出してしまった。皆それに乗って大喜び。バスの運転手さんがレストランで、クラーベス(下記画像)の楽器を持ってさあやってみろと、私たちのところを回って歩いたのも、素敵な配慮だった。ともかくとてもノリがいい、貧しいというワードはとても使えない雰囲気のキューバだ。
グァンタナメラ Guantanameraはその歌詞に深い意味があるという。NETで拾った書き込みにあった。
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 グアンタナモはアメリカ軍基地、ブッシュ前政権の人権侵害の象徴として知られる「グアンタナモ収容所」がある、キューバ南東部の都市です。歌は、それよりずっと前のキューバ。

 グアンタナモの娘に、「俺は正直者、ヤシの木が育つところから来た。死ぬ前に俺の魂の詩を聴いてくれ。俺の詩は、きれいな緑、そして、燃えるような真紅の炎。俺の詩は、森の中で隠れ場所を探している傷ついた鹿。俺は白い薔薇を育てよう、7月に1月のように、俺に親切な手を差し伸べてくれる、誠実な友のために・・・グアンタナモの娘さん」というよう内容の歌です。

 熱烈な恋の歌のようでもあり、キューバ革命を少し知っている人には、国民開放の歌にも聞こえます。歌詞の7月は「726日運動」(M26)1月は195911日のキューバ革命記念日ともとれます。ですから、適当に日本語に意訳すると、キューバの人たちが感じる原曲のイメージとかけ離れたものになります。暢気でお気楽な恋の歌ようでいて、この歌詞、深いでしょ?

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クラベース








2017年2月8日水曜日

キューバの人たちの生活・建物 キューバその5

 我が家は都合40年住んでいる。最初の建売は10年もたつと傷んできた。ベランダの付け根のところにシロアリが巣を作って喰われ、押し入れに水漏れがおきるようになった。やむなく改築することになった。同時に売られた隣接5軒の建売物件は1軒を除いては、今では全部建て替えになっている。建て替えに前後して居住者も入れ替わった。通り側の近所の家もほぼ建て替えられている。家も消費財として、使い捨てまではいかないにしても、どれだけ長く住めるかという基準での選択は難しい。ローンを背負ってようやくその頸木から抜けられるころには、ボロ屋になってしまう。今はそれでもいいほうなのだろうか。

 ヨーロッパでは、中世時代の古い建物が現役で使用ないし利用されているが、キューバがスペインの植民地だった影響を受けていることで、それと似たような中世期の建物の街並みが続いている。古いものというと言葉の響きはよくないが、使えるものを使うという「思想」は、現在の日本の「再開発」と対極にあるような気がする。使用可能なものでも古いものは破壊して、新しい何かを作るということは、そこにあった広い意味での文化構造を、ぶち壊すということにつながる。人間にとってそれが当たり前とされた時には、育んできた人たちにとっては大事なものが、失われてしまうことになるのではないか。経済成長という魔物と、うまい具合に付き合っていくことは大事なことと、よそ者が余計な心配をしてしまう。

 キューバは、今あるものを生かしているということを、ガイドさんの話の中で強調される。児童の学校も、保育園も環境客が行き交う賑やかな街のなかで、旧来の建物を利用して活発な活動がされていた。建物の内装をリニューアルして、賃貸をする予定のところを案内してもらった。その部屋の隣には瀟洒な店が営業していた。























2017年2月5日日曜日

キューバの人たちの生活・車 キューバその4

 今あるものを利用するのは理に適うこと。日本でも着物は浴衣になりおむつになっていった。いまは、大量消費時代を金科玉条にして、さして反省のないまま、あればあるほど良いという感覚が醸造されている。たまたまテレビで見たのだが、「MOTTAINAIもったいない」という言葉を、ケニアのノーベル平和賞受賞者ワンガリ・マータイさんが来日した折に、その意味に感銘して、世界に広げるという決意で実践をしたとのこと。ご本人は亡くなられたが、後継者マリナ・シルバさんも次世代へのメッセージとして世界に広げている。http://www.mottainai.info/jp/about/#anc01
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マリナ・シルバさん
日本語「もったいない」が、マータイさんが取り組む資源の有効活用、3RReduceReuseRecycle)を一言で表す言葉であり、さらに命の大切さや、かけがえのない地球資源に対するRespect(尊敬の念)という意味も込められていることを知り、子供たち、次世代へのメッセージを 含んだ言葉として深く感銘。環境を守る国際語「MOTTAINAI」として世界に広げることを決意しました。
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 「もったいない」というよき共通の概念が、実は日本では薄れてきているのは恥ずかしい限りだ。当たり前のことを絶やさずにしておきたいものだ。キューバで古い建物や年代物の車をみて、この「もったいない」という言葉が頭に浮かぶ。この有様の真っただ中ということが、歩き回って理解できる。

 年代物の乗用車は実用ということはもちろんあるだろうが、観光客を乗せる「お遊び」としてタクシー営業をしている。ツアー同行のメンバーもその車をチャーターして観光地を巡った。観光客は中国製の公営チャーターバスで移動している。新しくはないがオンボロということはない。「足」としては、乗り合いトラック交通が許されていて、廉価な乗車料金で済むらしい。タクシーは「公営」のものがあって、料金が決められているようだ。使うときは黄色のタクシーをとガイドさんから説明された。写真撮影メンバーはこれを利用した。年代物の車も登録することによって、タクシー営業が可能になっている。料金は公営より少し高めとのこと。車が走行する道路では、ときおりガタガタと揺すられることがあるが、長距離の移動は8070キロくらいのスピードで走っている。

 日本の事情と比較すべくもないが、ハバナの市街でも車は結構走っているし、歩行者との行き交いも注意は必要な状態だが、信号機は少ない。今後車が増加していけば、歩行者との対立が拡大していくのだろう。排気ガスをマフラーからだしている車が走っている。交差点では匂いがして気になった。車が故障して、道路端で修理したり修理待ちをしたりしている場面を見かけるが、大事に使うということの表れということになる。年代物の車を何枚か撮影させてもらったが、いずれも自慢げに写真を撮らせて、中には礼まで言うそぶりの運転さんもいた。キューバはどうしてこうも積極的で明るいのかと、驚くばかりだった。













2017年2月3日金曜日

キューバの人たちの暮らしぶりは… キューバその3

 写真を撮るメンバーは、キューバの暮らしを切り取りたいと、狙いを定めている。キューバの姿がドキュメントでつかまえられればいいのだが、それはあらかじめ狙いを定めておくわけにはいかない。出たとこ勝負のことになる。くじ引きのように当たりはずれがある。

 したがってキョロキョロと挙動不審者がごとき動きで、一瞬も気を抜かずに動かなければならない。特に人を撮るとなると、秒単位で千変万化する相手をとらえなくてはならないが、うまくその瞬間にシャッターを押せれば御の字というところ。

 ところでキューバの人たちは、基本的に写真を撮られることをさして問題にしない。もちろん撮らせてもらうときには断るが、日本の場合は事前に断りをいれないと、ときには齟齬が起きたりする。キューバの人(キューバに観光で来ている人も多くいる)が問題にしないというのが、どうしてなのかはわからない。ちょうど目が合ったとき、その機会にカメラで撮るポーズを示すと、「いいよ、撮れ!」という態度が返ってくる。こういうケースが一番多い。

 家の前で外を眺めている人も結構いる。ガイドさん話では、夏だから家にいるより外に出てくるのではと言う。この撮影チャンスは、日本から持ち込んだアメが役立つ。同行の先輩が慣れていて、ちゃんと準備していた。アメ一つで、まず笑顔がでてくる、さあ撮っていいよと、構えてくれる。でもそれが型式的になったりして…。

 もう一つは、多くはないが、「撮ってくれ!」とせびる人。これは後からチップをせびるというスタイルの人。申し訳ないがこれは応じない。金の問題ではないが、いい写真にはならないだろうから。で、どれだけ迫れたのかというところは、ウーン。