ラベル ウクライナ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ウクライナ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年4月21日木曜日

毎日ウクライナの惨状を見て戦前と重ねる

 ウクライナの惨状を毎日テレビで知らされて、日常の「平和」(?)との乖離をこれでもかと感じさせらている。平和とはと、上段に構えて説法などできないが、生まれる前の年には15年戦争が「敗戦」という歴史を踏んだ。これおも「終戦」という言葉に置き換えて、かつての侵略行為への反省をろくにせず、戦争を軽んじようとする意図が、いつまでも続いている。

 再び侵略をしてはならぬという憲法のしばりをもって、日本は今の位置が保たれているはず。それを顧みることなしに「侵略」に抗するための武力や軍事同盟を強化するということで活路を開くという、1920世紀の時代スタイルを持ち込んだままでいこうとする愚行。

 ロシアに対抗する「民主主義国」の装いをこらしても、アメリカが縦横無尽に「他国侵略」してきたことを帳消しにすることはできない。他国を侵略することをさておくことはできないと思うのは、テレビに映し出される例えようもない状況。大量殺戮、破壊を止める意思が全く見えない。

 あれこれフェイクニュースをまき散らして、これも日本が武力侵略をしていた頃と同じ轍を踏んでいる。国内の反戦世論を押さえつける屁理屈とウソ以外はない。もう「攻撃の目的」もなにも、理屈も説明も不存在なのだ。戦争はそういうもの、地上にあるもの生きているもの全部をないものにしていく。その結果は考えたくもないが、生き残った人々の膨大なエネルギーと、財力と時間が費やされる。「合理性、効率性、安全性」がまた一から始まる。

 しかし、それは織り込み済みで戦争継続している節もある。始めてしまったら終えようのない麻薬のようなものかもしれない。その意味でも「敵地攻撃能力」などという代物は願い下げの「ゴミ箱削除」行きがよい。名称を変えてよいとするのは、プーチン流「軍事行動」と同じだ。

どれだけの人々の血が…



2022年4月14日木曜日

昨夜寝しなに眺めた都庁は「ウクライナ」

 都庁のライトアップは、その都度ごとの「政策テーマ」をとりあげて実施しているのだとか。それは何?と聞かれてそうかと納得できるようなことなのかと疑問が湧く。

 今は「ウクライナ」キャンペーンらしい。ウクライナ支援という意味だとは理解できないわけではない。電気代は12000円で予算化しているらしい。新しく予算をとったわけでないとの断りが都民ファースト議員から表明されている。たしかに新型コロナでもそれはあった。時たま都庁を眺めて「ああウクライナの平和だよね」という気になる人もいないとは言わないにしても、プーチンの残虐な殺戮を毎日テレビ映像で見ていて、何とかならないかと誰でもが思うことで、都の政治としてライトアップでございますと言われても、何か浅薄さを免れない気がする。

 だって、「何色のスイッチ、これだよね」と指一本で平和を願うなどとは、あんまりではないか。世界の首都の長に呼び掛けて、ウクライナで起こされている、言葉にも表現しにくいほどの非道行為を、断罪するくらいなことをできないものだろうか。