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2025年6月29日日曜日

今日は何のゴミだっけ?

ついに曜日がわからなくなった?ゴミ出しの日が「曜日と日にち」を自覚できる日なので、何曜日かを理解できる貴重な行動になっている。今日はプラゴミの日だと、勇んでゴミ袋をかかえて外に出た。ところがゴミの集積場にあるべきものが、全くおいていない。あれれと思いつつ、向かい側で玄関前を掃除している若ご主人さんに、「今日はゴミの日だよね」と声をかけた。

水曜日だと思ってプラゴミだと思っていたのに、実は火曜日で「資源ゴミ」の日だとを教えてもらって、ようやく気がついた。ああついにここまで来たかと、一番しっかりしていたつもりのゴミ出しが、ショッキングな事件になった。

最近は体力に合わせて少しゆっくり目の行動がいいのだろうかと思いながら、日ごろの行動をセーブする気になってきた。それでもコマではないけれど、回転が止まれば倒れてしまうようではうまくない。

コーチングは自分で判断するしかないので、きらいな読書で辛みをつけながら好きな事柄をスローダウンして続けることと決めて、身体が動かないときには寝ころがって動かない…てな具合で行こうか。

ボケの花言葉なら、「平凡」「早熟」「指導者」「熱情」「先駆者」「妖精の輝き」「魅惑的な恋」などがあると。なんという違いか。




2023年6月30日金曜日

半年たってまた溜まったゴミ

あれよあれよと見る間に半年が終わる。時間がたって、もらった年金から貯蓄できたらいいと思うが、飲まず食わずの以外の方法ではそうはいかない。それどころか3月からは所得税、保険料、固定資産税、住民税がうまいぐあいに分割されてもっていかれる。癪に障るのは、「源泉徴収」と称して年金が懐に入る前に保険、住民税、所得税が取られてしまうこと。振替によるものはなくなってしまった。振替でさえ不届きだと思うが、有無を言わさず廃止の憂き目にあった。じつに「しっかり」と見事に取り立てる。金庫に入った税がどこに浪費されるのか?ナントカ対策などと花火をあげて、「財源はあとから考えるからね」って国会では議論を避けて先送り。でも、先日の日経新聞でもその一端がわかる。こういうときは「自己責任」はないのだろうか。

 日本経済新聞「トヨタに補助金1200億円経産省、EV電池生産向け」

経済産業省はトヨタ自動車が日本で計画する電気自動車(EV)用リチウムイオン電池の投資に約1200億円を補助する。車載用電池の世界シェアは中国が5割を占め、日本は1割弱にとどまる。車載用電池はEVの競争力を左右する。EVシフトが進むなか、国内の製造力を高め、サプライチェーン(供給網)の分断リスクを下げる。

多少の消費はしているし、遊んでいないわけでもない。生命のどこかに有意義なモノは留めていると思うが、目に見えて残っていくものは財には程遠い断捨離物のみ。

ことしはじめの退職者会会報への投稿



2022年6月19日日曜日

忘れてもいいようにと思うのが「ゴミ」を増やす?

 さあ朝だと、煩いマウスを外してスマホを見るとまだ5時半だった。また寝るほどでもないかとそのままツイッターを眺める。ツイッターを見て「なるほど」と思う記事を読む。それを残すのを仕事の一つにしている。忘れてもいいようにと考えて。忘れるのは高齢者の特権だと強弁しつつ、念のためついでに記録に残すことに努める。

 スマホとパソコンには、「メモ」をとる機能(アプリ)がたくさんある。なにかの仕事をするために必要不可欠な道具なのだ。四角いメモ帳、附箋的なもので、ちょっとした言葉を書き込んでおくのにとてもよい。我がスマホとパソコンはほとんどが同期されているから、「メモ」が残っていることは間違いない。新聞の切り抜きも記録として取り込んでいるから、自分ではスッキリ整理しているつもりでいる。

 とはいえ、どんどん増えてゆき、パソコンの記憶装置の中にはたくさんの「記録」が留まっている。だいたいその「記録」がどこに残されているのかも、時間が少し経つと忘れてしまう。テレビでよく放映される、「片付けができなくて部屋中だけなく家の外にもゴミのビニール袋を積み上げる」。それにほぼ近い。

煩わしいマウスを外したら快感。快感に感謝して毎日洗浄して干す




2021年9月1日水曜日

捨てないでおくれ

 テレビでしょっちゅうやっているゴミ住宅が、他人事でない「親近感」を思わせることがある。部屋の中のモノ、特に本は散らかっている。月刊誌もあるし、時折気が向いて買った本も行き先のコーナーが決まらないまま、デスクや棚など平らなところの上に重なっていく。決まらないのは読み切っていないせいもある。おまけに順不同になって、後からどこにあるかと探すのが難しい。衣類の方は退職人種ゆえ増える要素はそうない。捨てる決意をするチャンスを待つのみだけど、「一年間使用せず」の基準は忍びない…。ほかに手紙やら宣伝物やら整理すればよいものを、ゆったりと目を通すものだから、身の回りに見る間に溜まっていく。

 寝られなくなるのは体力が無くなったといわれるが、片付けも体力がいる。新聞の切り抜きをスキャンして保存するなどは、やるべきことでもやらなくてはいけないことでもないが、自己目的化して一日の励みにはなる。そうでもなければ、余計惚けるだけのことなのだと思い、あれこれの目的をみつくろって実行する。

 だけどそれにも体力がいるようで、だんだんと、とっかかりが遅くなったり、すぐ疲れてしまったりで終えるまでに時間がかかる。自分が役に立たない廃棄物に近づいていくようでもある。まあ末はいらないものになるのは必定だからあきらめもする。コロナ下で二年も追いかけられ、この先もどうなることか。頭の中も、後ろ向きになっていくようで困ったことだ。

これは「捨てないでくれ」使えるのだから



2021年2月25日木曜日

考えてみれば「ゴミに囲まれた生活」

 ゴミや資源回収を出すのは月火水曜日。木がなくて金曜は月二回の不燃ごみ、土曜日はビン缶が集積日。つらつら思うにこのおかげで毎日のメリハリが付いているようだ。「燃やすごみ」が集積場に一番多いのは月曜日。かけた網からあふれ出そうな量が集まる。

 水曜日のプラスチックが最近は減ってきて、「燃やすごみ」に入れるようになっているようだ。プラスチックを減らすべきとの要請は大切な視点であり、海の魚の体内にもマイクロプラスチックが入っているとのことなどからすれば、今や焦眉のことになる。焼却炉の高温処理ができるようになって、一定焼却可能になっているようだが、家で分別して溜まるプラゴミの量はともかくものすごい。ナフサが材料であることからすれば、ガソリンの使用量が減れば連動して減ることになるのだろうか。買い物袋の有料化で減るなどというとぼけた政策で、どれだけ減少の効果を上げているのだろうか。

 「ゴミは家中にある」という発想は、確かに「断捨離の視点」とのかねあいからすれば、納得することができる。この世を去ったあとは全部ゴミなわけだから、断捨離による整理から逃れたとしても、残ったものは「末はゴミ」なので、ゴミに囲まれて生き抜いていることになる。家中ゴミだらけで、外にも積み上げられている様子のテレビ映像をよく見るが、あれは袋に分けてあるだけ整理されているともいえる。

公園の河津桜が満開になった



 ボケもすっかり賑やかに つぼみは2月9日




2017年12月24日日曜日

熟年だって忙しい毎日

 熟年同士の話で、時間が経つのは早いというのが、枕詞のように出る。仕事はしていないわけだから、そんなはずはないわけなのだが、どんなに時間を費やしているのか?最近は、朝はパッと起き上がることはない。寒くてグータラして起きると言えばそうなのだが、血圧上昇のことを心配すると、ジワーと動き出して血流を少しずつ上げてやるのがおすすめとのことだから。

 そうするうちには、たしかに以前よりは時間が過ぎてしまって、希少なゴミ出し仕事も少々忙しいことになる。それよりなにより、食事の時からのワイドショーだ。賑々しく時の話題を振りまくものだから、これへの時間投入がずっと増えた。北朝鮮の頻発報道(?)から、逃げ回る政府・モリからカケ問題追及、線香花火のような都民ファースト・小池知事の話題、「なんとか解散」総選挙、角界暴力事件と、目まぐるしく報道してくれて、一日の時間を縮めてくれる。昼食時も同じような報道で、新しそうなネタであればつい見続ける。

 そりゃあこのほかにも、あれこれの打ち合わせと、飲み会もあり、パソコンの前での仕事ならぬ不毛趣味などなど、天からいただいた時間の消化に努めている生業。これを称して、忙しいとはとてもとても言えず、「時間のたつのが早い」と言うしかないこと。


 ツイッターで見かけた現職の仕事、大変な状態と思いつつ。眺めるしかできない役立たず。郵便物は年内にはもう届かないという話もある。景気が回復していると、まことしやかに言うこととの違和感あり。
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 ええ、もう現場は大混乱ですよ……
ゆうパックに携わる社員は完全に労基案件ラインぶっちぎって残業休日出勤繰り返して処理に当たっていますが、やってもやっても終わりません……。管理職や本来現場とは関係ない部署も応援に入って処理や配達に向かっています……

2:51 - 2017
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2015年4月17日金曜日

「片づけ」は、闘いと思い至る

 日曜日に、二週間入院していた義母が退院した。顔色があまり良くないし、身体を動かすのが大変そうだ。息子の部屋を空けて移動させ、義母の部屋として使うことにしていたので、その荷物移動を2月の初めからやってきた。退院前日になんとか荷物の移動ができて、ベッドも借りることができてうまい具合に落ち着いた。

 2か月以上かかって荷物の移動と整理をしてきたが、息子の仕事が忙しくてなかなかすすまなかった。義母のベッド搬入が現実のことになって、前日夜にも荷物整理をする状況だった。連れ合いも大変そうだが、こっちも腰が痛くて参った。とはいっても、後がないからやらないわけにはいかない。なにせ、今では使わないものが嫌というほどある。

 片づけながら、片づけとは闘いだなと思った。いるのか不用なのか、使わないなら捨てるという訓練が身についていないと、広くはない部屋なのだから一杯になるのは当たり前のこと。「いつか使うかもしれない」という、かつては美徳であったことも、いまはそのまま当てはめられない。大量消費大量生産の時代を通じて、新しい商品が、特にIC関係の音響製品やらビデオデッキやらそれに伴うVHSCD各種が貯まりこんでしまう。

 仕事が忙しいと時間を取られていると、なかなか整理に至らないのも事実ある。元気でいるときに、片づけるという思想を持つ必要がある。この闘いに臨まないと、よく報道されているゴミ屋敷と同じことが身に降りかかることになるのではないかと、冗談で言い合っている。自分の「荷物」となるとなかなか見切ることができないのに、息子という他人が抱えているいらないものを「選択してもらう」のも、妙な違和感が生じる。自分の洋服やら本やらも「よし!」と思い切って、処分することに至った。これも今回の整理事業の成果になった。

粗大ごみでウッドデッキは足の踏み場がなくなった
収集料金は6000円以上








2014年12月6日土曜日

時は金にはならないが、意味はある。

 今日はビンカン集積の日。持って出たついでに、久しぶりの山手通りコースウォーキング。帰りに喫茶店に寄って、ノートパソコンでWifiをつないで試す。設定は先日やったが、家の無線LANで使用した後問題なく使えるのかどうかを試したのだが、支障なく繋がった。Facebookに写真を投稿して9時に家に帰る。食事は終わっていたが息子と一緒に食べることになった。

 食べて一段落してから、義父のところへ行くことにした。20分ほど歩いて病院に着くと、ちょうど昼食を食べさせてもらっているところだった。一生懸命食べていた。食べさせてもらえれば、少しはおかずも食べているようだった。入院の時には青い顔色をしていたが、頬に少し赤みが出てきたようだ。まだ、頭がぼうっとしているらしく、記憶があまりないようだ。

 
 連れ合いの手術後の回復には時間まだがかかりそうだが、少しは元気が出てきたように見える。それはいいのだが、義父がまた入院することになったのは3日。特養ホームの「仮住まい」から、老健施設に移ることができたのが1119日だった。家に戻ってくるための「体力をつけるのが目標」で、リハビリをしてもらえる施設に移れたことで、ひと山越えたかに思えた。

 しかし、ご飯や食パンのみの食事で食べられるものが極度な偏食になっているために、「電解質が不足だ」という検査結果で、入院が必要ということになった。塩分摂取が少ないために、意識レベルが相当低下してしまって、アブナイ状況までに陥ったという医師の説明だ。病院は隣接しているので、すぐに入院して、点滴を受けることになった。

 年末には家で過ごしたいという本人の願いでも、ちょっと危うくなってきた。入院の期間によっては、せっかく移った老健施設の再入所もできなくなるというので、なんとか短い間に回復基調になってほしいものだ。天気もいいし、カメラを持って出たのだが、特に撮りたいところもなくて終わってしまった。



2013年7月18日木曜日

ドイツの廃棄物の扱いは違っている

 先日のドイツ旅行の記事で、ゴミのことについて書いた。

「街中ではゴミはほとんどない。おおきなタンクのような器を置いて、そこに分別して入れておくようになっている。都市のなかでも、いわゆるゴミとして廃棄するというものが相当圧縮されているのか、もともと少ないのかどうかわからないが、…」

 ドイツをよく御存じの方から、このことについてメールがあって教えていただいた。
 「ドイツでは家庭や企業から出る廃棄物はゴミではありません。資源です。幼稚園の物心ついた頃から先生がゴミ出しの実習をさせて教育させています。ビン類は洗浄して再利用します。ゴミになるものは作らない、売らないという発想で企業側も努力しています。昔から日本でも言われているようにドイツ人の考え方は合理的なのです。」

 やはり、発想と扱いが日本とは相当違っているらしい。資源をして回収するのは日本でも現在はやられているが、「企業努力」の方は(あるのかもしれないが)ちっとも見えない。プラスチック類にしても、消費者が洗って集積場へ持っていったものが「商品化」されるのに、そのコストはただというのも納得いかないことだ。缶類びん類も中を洗ってシールをはがして…となると水道料金まで負担することになる。

 その分が再生利用された器の商品のコストを下げているという理屈なのかもしれないが、回収することにたいする対価がみえれば、そこいらに空を放っておくことが減るのではないか。それに、自動販売機の数はどれだけあるのだろう。どこにでもある安心感も醸造されているが、もしなければ熱中症対策には入れ物に入れて持ち歩くことで、ペットボトルの器の数を減らすことにはなる。

 どこかの知事が電力使用量を抑えるのに、自動販売機をなくせと言ったことがあった。これは総スカンになるだろうけど、本来的にはそう考えるのも一理あると思う。いまから「なくせ」では抵抗は感じるが、電力使用量野放しというわけにはいかないご時世にはなった。どこの家庭でもおなじだろうが、再生利用のプラスチック類の量はすさまじいものだ。この圧縮だって必死に考えていかないと、日本のゴミ社会はどうなっていくか心配だ。
 それにつけても日本という国はどうしてこう、後進国なのだろうか。