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2025年7月27日日曜日

昔(昭和)の残像チラリと味わう

写真を撮る対象として「昭和」がテーマとして取り上げることが多い。生きて親しんできた風景を残したり懐かしんだり、癒しのような気分を持たせてくれる。

合唱の練習で北千住の先に集まって、合唱でひと汗かいたあと、昼食の店さがしで駅の近所を探した。この方角はめったに行かない機会なので、カメラをもっていくべきだったと反省。合唱の練習が主なのだから、それは二の次三の次の話になるのだけれども、若い時にこの界隈を動き回った街並みを歩くうち懐かしさがわいてきた。

長年の変化を感じさせずに存在しているのはうれしかった。知っている店主さんと会話している仲間の優しいやり取りが交わされているのを見て、もう50年前にもなるかの懐かしい残像が浮かんだ。

これが例えば都庁がある西新宿の街だったらどうだろう?「残っている」ところなどはほとんどない。住宅地にある近所でさえ、魚屋、八百屋店は消えてしまい代わりにスーパーばかりが席巻して、オートキャッシャーで支払いを済ませて、会話など全くの不在だ。変容した街になつかしさを思う気持ちが残っているところがあるのかと思う。



2025年4月19日土曜日

写真展をみにきてくれた人たちと新宿御苑に行ってみた

 合唱団のメンバーが見に来てくれた写真展、6時過ぎから始まるレッスンの前で十分時間があるので、喫茶店に入ろうかと近所を探したが、どういうわけか客がたくさん入っていて、席を確保でない。それではとコーヒーを持って新宿御苑に行こうかと、ローソンで飲み物を手に入れることにした。それもカップをもらって金を払い、あとは自分で器具から自分で入れるという仕掛け。それは何回かやっていて知ってはいたが、機械がまた新しくなっているようで、どこをどうすればいいのかを確かめつつカップに注ぎ入れた。待っている若者たちにはお待たせすることになったが、わいわい話しながら(恥ずかしげもなく?)飲み物が手に入った。

そこから御苑の入り口までは少し距離があった。その入り口でまた、入場券を買うのにシニアの250円の支払いをスイカでもできるようになっていた。一般500円の入場料をスイカで払うときにどうして250円と読み取るのかと思ったら、係員が作動してくれて通り抜けられた。65歳以上の証明は、顔を見ればわかるだろうからと高をくくっていたのはその通りだった。もっとも入園する65歳以上の客は相当数いるだろうから、いちいち年齢確認をしていられないということもあるかもしれない。結局アナログなんだと独り言。でも油断禁物で、マイナンバーカードを使うなどとなればまた面倒なことになるのかな。

入り口を通過してすぐに椅子を探して、まだ氷が残っているアイスラテを一気に飲み込んだ。公園には桜がたくさん残って咲いていた。桜の種類がたくさんあって、咲く時期がずれているというパンフレットを見ながら、おおよそ一周して元の入り口の場所へ戻った。途中休憩一回。












2025年1月26日日曜日

25日合唱団の演奏会が済んで

合唱団の演奏会が25日にあった。睡眠時間が少なくて集中力も落ちていながら、数日練習レコードを聴きて譜面を眺めていた。当日になってしまって、もうしょうがねーと開きなおって会場へ向かった。午前中にステージで練習をして午後からの本番が始まって、だいたいは練習に近いことができた。(と思うけど)ところどころでつまずいて、お隣さんの音声に助けられた。演奏会までの練習も(高齢ゆえ?)の難しさもあったし、復習も思うに任せなかった。

それゆえ歌の良さを感じ始めてから本番までの期間は短いものだった。演奏会が終わって振り返ると、歌った曲の歌詞の味わいと解釈がこころに残った。曲は評価できるほどの力はないけれども、その構成は多様で生き物のようだ。歌詞のほうは実に素晴らしい。もの見る表現が感動をもってくるような言葉が随所に使われて、全曲の歌詞が日本語のみということからも、日本の言葉の凄さを感じさせられる。

「歌」で世の中が変えられるのかなどとうっすらした疑問が頭な中にずっとあったが、演奏会の感想などでの反響を思うと、言葉は伝えられるという確信がちょっと出てきた。ここまで引き上げていただいた先生とスタッフ一同に感謝です。





 

2025年1月13日月曜日

志あれば、いくらかの力がでるかな

断捨離を心掛けつつも、なかなかできないものだ。できないのも年のせいにして、働きの鈍い頭と手足を動かして、「抵抗」を試みる。そんなこと考えずに気合を入れてという気持ちの切り替えも、なにか少しずつできなくなってきた。いままでやってきたことを、さっとちょん切ってしまうことも、いいのかなあと別の声も聞こえる。いい加減にしろと折り合いをつけることなく、「めんどくさい」とさようならをする手もあるんじゃないかと思うこのごろ。認知症の気は感じても手足は動くし、食欲もあるからその限りではまだ健常者には違いない。

今月は合唱団の「65周年記念の演奏会」を控えて、練習も大詰めになってきた。「自習」をしなけりゃ間に合わないから、気にだけはしているけどほかにやることもあるし、子供のころの「勉強前の鉛筆削り」みたいにぐずぐずとしている。今はスマホのレコードアプリで音声記録ができて、スイッチさえ入れれば聞くことができる。これが、いつでもできるとなるとまたサボリの虫が動くし、困ったことだ。

でも、練習しているときは、難しいとか理解できないと感じて、ともかく楽しくなかった。それが、練習を重ねて慣れてくると、歌う曲の良さを感じるようになり「楽しさ」がでてきた。合唱がぴたりとはまると、曲と歌詞のすばらしく心地よさが広がる。かつては、この楽しさや心地よさがよく感じられたものだったが、今はここまで来てやっとその境地にはいることができた。じつはもうだめなのかとあきらめかけていた。暗譜が要求されるので頑張ってみるが、やっぱり危ない感があって難しい。