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2018年8月21日火曜日

散骨~さらば仙人


 散骨で…と言っていた親父の要望に沿って、ではあったが家系の墓に入ることも、その前は言っていたのだから、正確にはどっちなのかはわからない。特に望みを確定していなかったことには違いない。神仏に関しての話などはしたことがなかったので、どういう志向なのかもよくわからないのだが、家の柱に神社の札が掲げてあったから、神には信頼を寄せていたのかもしれない。

 片付けの中から軍隊の紀章もでてきた。「神」についての存在感を十二分に与えられた時代を通ってきた。だからその影響はあったといえるだろう。

 親父は次男坊だったから家を継ぐということからは外れていた。重きを置くことはなかった事情はそこにあったのかもしれない。そしてそのあとの私なのだから、神も仏も「みんな夢の中」的解釈する輩が判断することは、散骨が妥当ということが帰結だったのだろうか。

 3組が海洋散骨に参加した。それぞれの思いが、散骨の方法にも反映していた。海洋散骨を「委託」した家族。一人だけで参加の人。そして3人で参加した我々。台風が近づいていて波が少し高かった。船頭さんが、波のない島近くまで船を運んでくれて、海上をゆっくり旋回させた。細かく粉砕した袋入りの遺骨は、口を開けると海上に舞いながら散った。記念の写真を撮ってから献花をし、お酒も投入した。昨今は散骨が増えているのだと業者が話していた。




2018年7月27日金曜日

滝沢で動きまわった二日、クワガタが現れる


 浮世の付き合いが終わると、さまざまな手続きが残される。人が生きているという大きさと広さが実感される。残されたものが責任をもって片付けるのは世の習いだが、結構な仕事があるものだ。負の遺産がないだけ幸いに思わなくてはならないだろう。

 面倒を見てくれた従妹と話をしながら、庭に植えてお気に入りだったミズキ、桜の木がやせていっていることに、なにかの因縁を感じさせる。ミズキは年を追うごとにやせてしまって、木の上の方は申し訳程度の葉しか生えてこない。ひところは勢いがあった桜は、根元のあたりに虫が入ったのか、かなりの痛手を負っているようだ。16年前になるかブナの苗木を1000円で購入して植えたが、これだけはすくすくと育った。

 岩手山麓のこの土地は、ザレ場に土を盛ったところなので、平地に育つ樹々では環境になじまないのだろう。一時白樺もあったが、あまり成長が早くてほかの植木と競合して、処分されてしまった。

役所と金融機関の手続きで一日を使い、翌日の朝にブナの幹に立派なクワガタがとまっているのが見えた。これまで一度も見たことはなかった。もしかしたら「化身」かと、一瞬思わないでもなかった。


2016年12月18日日曜日

義母、身罷る

 14日に義母が身罷った。医師の宣告から一週間の後だった。義父が亡くなってから六か月、89歳の往生だった。片肺のハンディを持ちながら、昭和38年に新潟から東京にでてきて、50年余の時間を、働きかつ家族との時間を過ごした。

 やはり義父に旅立たれたのが大きな気落ちになったのだろうか。弱音を吐くことが増えていたことが印象に残る。病院でもう眠るばかりの顔を見ながら、命が無くなるという重みを家族とかみしめた。落ち着いてくるにつれ、家のなかの一角がスポンと抜け落ちたような寂寥感が湧いてくる。

 直接のきっかけは肺炎だったが、傷んでいたところはそればかりではなかった。病院通いをしながらも、自覚して足を引きずりながらの散歩にでかけ、「途中休んでね」とよく話していた。寄ってくる病魔との闘いという、深刻さを感じさせない様子だったが、本音は出さぬようにしていたのかもしれない。

 一緒に過ごしてきた時間を今になって思い返しても、至らなかった後悔の上塗りになるばかりだ。孫の運転するレンタカーで温泉に行くのが楽しみだった。温泉につかり、土産屋に必ず寄って土産を買い込むのが一番の楽しみだった。風呂は大好きで、家の風呂にも長時間入っていた。あまり長いと心配だからと、最近はそれも好事魔多しとなった。

 もっている体力にもかかわらず、長命に至ったのは義父の努力が大きかった。「爺ちゃんの料理うまいね」という言葉も、義父が寝たきりになった10年近く前から途絶えてしまった。寂しさはそのころから募っていたのだろう。耳が遠くなって会話が交わしにくくなってからは、日常生活からの疎外感を味わっていたのではないかと想像する。

 しかし頑張ってきたと、それは間違いなく言える。わが身の齢と活力からして、そこまでの域にまで到達するものかと思う。戦後の困難な時期を超えてきた力が、基本にあるのかとそんな気もする。合掌。

2012年7月3日火曜日

お別れは辛いが、皆と会えて


 叔父の葬式。親戚が顔を合わせて、互いの近況を伝えあう「葬式外交」のようになる。病気で調子を崩した話しが多い。良く聞く病名、症状をこの場でも聞いて、多いことを実感させられる。顔を合わせて無事を確かめられるのが幸いのよう。就活で苦労している若者もいた。

 中年も少々いるが、高齢者が多い中で若者の顔が見えるのがなんとなく嬉しい。新庄市までの往復400キロくらいを二人で運転したが、疲れた。10年前は東京から岩手山麓までの600キロほどを運転していたのだが、もう及びも付かない。

 仙人が腰を痛めていたから、行かれるかどうか心配した。幸い痛みが薄らいでいるというので、弟の別れに参加することができた。仙人も兄弟がすべていなくなってしまった。