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2019年9月6日金曜日

韓国報道でのバランス感覚

 毎日毎日韓国の報道を続けられて,もう大概にしろと思う。「反韓」とか「半日」というヘイト用語を使って、「たまねぎ男」などと枕詞にいつも使う報道は見ていられない。時期の韓国大統領選挙を前にした、韓国の野党からの攻撃に加わっているようだし、ことの真偽がどうであっても、基本は国内での議論と対応に任せられるべき事柄だろう。

 マスコミが日本政府の目論見に乗って、「それいけ」みたいな報道になってしまっていいのか。韓国のメディアが自国の政治の在り方に、意見や批判をぶつけるのは当然なこと。それに比して日本のメディアがそれを使って、事細かに知らせてくれるのは視聴率のためとはいえ、メディアの軽さと安易さを考えさせられる。日本の政治の様々な汚点を追及もできずにいるのは、マスコミに対する陰陽の脅しで腰抜け状態になっているからだと。

 別の面で思うのは「いじめ体質」がこの社会に色濃くあると思うことで、徹底的に集団で相手を叩くという手法がとられているということ。おりしも親の虐待で幼児が死亡するという事件が報道されているのをみて、「言うことを聞かないと徹底的にやっつける」構図が重なって見えて仕方がない。

週刊ポストの「反韓」記事を書き、批判を受けて及び腰の謝罪をしたが、売り上げを考えて、ここまで書くかと思うと同時に、先日ビデオで見た「2.26事件」のようなクーデターがまた…などと思ってしまった。


 ポスト記事(朝…新聞から)

『嫌韓』よりも『減韓』、『断韓』を考える 厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない!」と題した全10ページの特集を掲載。中には、「怒りを抑えられない『韓国人という病理』 『10人に1人は治療が必要』」との見出しをつけた記事も。


ツイッター投稿から


https://twitter.com/ChizuruA1/status/1169075169928761345?s=09

2014年2月19日水曜日

カッカッカーのカッカッカーの顛末

 山形県上山市の「かせ鳥」が「奇習」と呼ばれているが、奇習の意味は素直に珍しいという解釈でいいが、「奇妙な」風習という理解で行くとどんなものだろうか。明治の「廃藩置県」のために、藩の「悪しき風習」がいわば弾圧された歴史を持つなら、「奇」と表する意味合いもなんとなくわかるような気がする。まあ、考えすぎかもしれない。

 上山城を起点に城下の温泉街を回って歩き、「カッカッカーのカッカッカー」とのみ声をあげる仕草はなんとも「奇妙」には違いない。当日は氷点下だから、水をかけられると湯気が立つほどだ。情け容赦なく、「火勢と稼ぎ」としての「かせ鳥」に水をあびせかける。この水をかけられるほうの30数名は、各地からの有志とのことだ。秋田の西馬音内盆踊りもそうだったが、伝統行事も助っ人があって成り立っている。能登の「間垣の里」の間垣保全にも金沢大学の学生グループが手助けしている。日本の文化、伝統がこんなふうに支え合って成り立っているのがわかったのは、写真ヤの旅のおかげだ。



















2013年1月31日木曜日

体罰や暴力は不要という展望をもたなきゃなりません

 柔道日本女子代表の園田監督が辞表を出した。午前中の報道を見る限りでは、止めるまでは一定の時間があるのだろうと思われたが、早い対応だった。園田氏は率直に、「メダル至上主義」を語ったが、まさに名をあげるための桜宮高校と同様な「教育指導」をしていたことを認めたことになった。

 戒告処分で済むと踏んだものが、皮肉なことに体罰、暴力事件の橋下氏の騒動で、下火になっていたものがまた燃え出してしまった。指導も教育も暴力を使うことは絶対にあってはならないという価値感を、本当に共有できるまでは、おおいに明るみに出すべきだという点では結構なことだと思う。

 監督辞任と言う素早い対応が、オリンピック招致に傷をつけないためだという配慮が見える。スポーツマン精神の高揚を図るべきオリンピックが、景気刺激のための関連公共事業推進を本音とするうちは、批判をされるようなまずいところは隠す、ということになってしまう。メダルを獲ることができれば、日本人としてうれしく思うのは当然だ。しかし、スポーツ指導や教育で体罰暴力を肯定する考え方は、「ある程度」「場合によっては」という余地を、彼の橋下氏も持っているようだ。谷議員のコメントにも体罰暴力は否定されるべきという発想は見えない。

 体罰、暴力を含む指導が効果を上げるのだというくびきから抜け出られない限りは、なかなか難しいことになる。指導方法についての手法を考えていくことが重要だし、その方向にむかう取り組みが旺盛にできるように、考えていくべきだと思う。橋下市長のひざ元でおきた暴力事件が、オリンピック招致に熱心な同党の石原氏にも飛んでいったというのは、どういうめぐり合わせかわからないが、戦争という最大の暴力肯定論者に降って湧いたと思うといささか面白くもある。



2013年1月23日水曜日

体罰、暴力の根源に迫らないと


 暴力はいけない、なぜなら刑罰が科せられているから。というと、簡単に結論は出る。でも実態はそう簡単ではない。主張、要求を理解してもらうのではなく、否応なく呑み込んでもらうという性質で手段だ。相手を尊重するとか、人権を考えるとかという、いわば憲法で言われているような理念や思想は、少しも判断の基準としないで、合意させるとが唯一の形態だ。

 人間は暴力を使う手段を知っている。どうしたら傷つけられるか、場合によっては殺せるか。相手が動物のうちは、殺すことをもって空腹を満たすことが、必要不可欠だった。今も生きていくための手段として、その行動をとっている。人が人に対して暴力を用いる行為は、地球上では圧倒的に減ってきたし、平和に生きる願いは万国共通の課題になってはいる。イスラム過激派テロが横行するアルジェリアでも、議会制民主主義制度が確立している。

 そうでいながら、相手を自分の意見に従わせるための暴力は、相変わらず生活の少なくない分野に幅を利かしている。六本木の暴力団による殺人事件も、いまだに追いかけているし、国会には「自衛隊を増強、国防軍にして」などと、暴力を見せひけらかすことを公然と言い放つ。警察の内部や被疑者への対応、自衛隊の内部にかぎらず、企業の中にさえ時によっては暴力を使った脅かしが存在する。

 桜宮高校の体罰は、妙な解決を市長から圧しつけられて本論の「体罰、暴力をどうやってなくすか」の課題が飛んでしまった。在校生8人の記者会見なるものがあったが、生徒の意見のなかに、普通科に編入されることや先生を全部取り換える不当を訴えるものだったが、暴力否定の言葉はなかった。(あったのにカットしたとは思えないが)


 身の回りにある暴力は、深く我々の中に食い込んでいる。問題解決の手段に使わないこと、使ってはならないこと。これは口では言うのは簡単だが、構造的なものができ上がっている。「暴力によらない」「暴力をなくす」には相当のエネルギーがいる。無くすことを主眼にするなら、例えば苛め問題のように文部科学省が調査したらいかがなものか。

 他に暴力行為はないと思っているわけではないのだから。市長の対応を浮き立たせて、反論する父兄や生徒の反応を取り上げる報道が繰り替えされているが、これまでよりは本質論議になっているとはいえ、総選挙前から「第3勢力」といっておだててきたことが、こういう事態を生んでいることもあるように思う。