三陸鉄道復旧へのがんばり


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Mai 走るローカル線

三陸鉄道の3カ月<上> 3年で復旧させたい
東日本大震災で線路や駅舎などに大きな被害を受け、100億円以上の復旧費用が必要とされる岩手県の第三セクターの「三陸鉄道」(盛岡市)。望月正彦社長は「資金のめどさえつけば3年で完全復旧させたい」と日夜奮闘している。地域の足「さんてつ」の震災から3カ月を取材した。【米田堅持】
 ◇運転士は津波に流され、社長らは橋の上に避難
 3月11日。運転士の飯田晃司さんは、大きな揺れの後、岩手県宮古市の自宅から食料を持ち出し避難所に向かおうと玄関の鍵をかけた時、ゴゴゴという音を聞いた。家に入ろうとしたが、100メートルほど離れた老人施設まで流された。雨どいにつかまり、エアコンの室外機に足をかけてようやく息ができた。上にいた人たちがシーツでロープを作って引き上げてくれ、ようやく一命をとりとめた。ずぶぬれの衣類を着替えさせてもらい、施設で一夜を明かした。12日、避難所で家族全員と再会し無事を確認した。右手の小指にけがをしていたため病院で12針縫ってもらってから出社した。自宅は土台だけ残して流されていた。「津波があんなに大きいとは思わなかった。家にいたら助からなかったかもしれない」と当時を振り返る。
 望月社長は11日、宮古本社で震災に遭遇した。午後3時4分に災害対策本部を設置したが、電話も電気も使えなくなっていた。大津波警報の発令を受け、社長ら10人の幹部社員は橋の上へ、一般社員は避難所へ避難した。津波は宮古駅のロータリーで止まり、一段高い駅などは被災を免れた。夕方になって雪が舞い、寒くなったこともあり、宮古駅に停車していた車両へ移り、16日夕方まで車内を対策本部として使った。車両は電車ではなくディーゼル機関で走る気動車だったので、電気や暖房を確保することができた。駅前で行き場を失った市民数人を車内に案内し、新聞紙を体に巻いて寝た。
 ◇見えないはずの海が見えた
 13日、いてもたってもいられなかった望月社長は大津波警報が解除されるとともに部下とともに被害を把握すべく沿線をチェックした。宮古駅から1キロほど歩き「北リアス線は大丈夫かな」と気にしつつ、通行できない国道45号を使わず裏道を走った。しかし、田老駅では厳しい現実が待ち受けていた。屋根は線路に落ち、線路下の砂利は流されていた。駅付近の道路はがれきで埋まっていた。だが、これで終わりではなかった。島越(しまのこし)駅は駅舎も線路も流され跡形もなかった。駅があったあたりから海が見えた。「集落が100軒ほどあるから海は見えないはずなのに」。望月社長は被害の大きさにがくぜんとした。
 ◇常識破りの復旧優先
 久慈-陸中野田間(11.1キロ)は大丈夫そうだとの報告を受けた望月社長は、運行できる路線の復旧を最優先させることにした。通常ならば被害状況の全容を把握し、被害の大きい場所を中心に復旧作業をするのが常識だったこともあって部下から驚きの声が上がったという。15日には「田老駅付近のがれきの撤去さえできれば1週間以内に宮古と田老の間は復旧させることができる」と山本正徳・宮古市長に要請し自衛隊ががれきの撤去を行った。流失した線路下の砂利の手配なども行い復旧に向け奔走した。
 ◇安全確保のために手旗信号のリハーサル
 金野淳一運行本部長らも、運行再開に向けて準備を進めた。久慈にある駅舎や車両基地、11両あった車両や信号設備などに大きな被害はなく、電気も12日夜に復旧していた。14日までに点検を終え15日に試運転にこぎつけた。1カ所揺れるところがあるが時速25キロの走行なら問題ない範囲だった。しかし、試運転までに陸中野田駅への電気供給は再開されなかったため信号が使えなかった。手旗信号での運行で再開することにしたが、社員に青信号を出すまでの段取りを体得させるのに苦労し何度もリハーサルをした。「鉄道では赤信号以外はすべて進むことができる、次の信号までは絶対に安全という意味。だから、信号を出すまでの安全確認の手順を必死でチェックした」。午後8時ごろ、陸中野田駅にも電気が復旧し、午後10時ごろには信号設備の点検も終了した。しかし運行手順を見直す時間的余裕はなかったため、16日だけは手旗信号で運行することにした。
 16日午前8時、復旧後初の車両が陸中野田へ向けて動き出した。少しでも余裕を持って乗ってもらえるよう2両編成とした。「お客さんを乗せて動かせるんだ」。金野本部長は乗客を案内しながら復旧を実感した。「ありがとうございます」と感謝の声をかけられたという報告も届いた。「野田ではマイカーを流され、移動手段を失った人も多いはず。走らせることができて本当に良かった」。さんてつ設立とともに鉄道マンとなった金野さんは、感慨にひたる余裕もなく、次の区間の復旧へ全力を傾注した。=つづく
三陸鉄道の3カ月<中> 運賃が取れる状況ではなかった
◇橋の下で整備点検
 「さんてつ」(三陸鉄道)は3月20日、宮古-田老間(12.7キロ)で運転を再開し、震災の対策本部として使っていた車両に乗客を乗せて走り始めた。29日には田老-小本間(12.4キロ)も復旧、宮古-小本間(25.1キロ)がつながった。使える車両は1両だけだった。朝夕には約140人がこの1両にすし詰めとなり、混雑緩和と故障時の対応が課題となっていた。
 5月28日、岩手県が費用を負担して久慈から宮古へ向けて2両を陸送して事態を打開した。陸中野田-小本間(34.8キロ)が津波で寸断されたため、久慈にある指令所から信号を制御できず、宮古-小本間は現在も手旗信号による運行が続いている。震災当時、6000リットルほどの燃料が久慈の車両基地にあった。通常なら4日分の量だが、久慈-陸中野田間(11.1キロ)を1日3往復するだけなら当分大丈夫だ。一方、宮古-小本間には基地がなく燃料の備蓄ができない。久慈から燃料を運ぶわけにもいかず、地元の自治体にも協力を仰ぎ、タンクローリーを手配するなど手段を尽くして燃料を確保した。車両の整備や点検は久慈の基地へ回送できないため、宮古駅近くの橋の下で行っている。
 ◇「日々見守っているわ」
 「三陸鉄道は地域の声でできた。家や車をなくした被災者には絶対に必要な交通機関です」。望月正彦社長は、さんてつの果たす役割をこう語る。部分運行を再開したさんてつに乗ってみた。
 6月9日、宮古駅から午後4時10分発の小本行きの気動車に乗った。乗客は高校生やお年寄りなど約20人。「今日は暑いね。26度だって」。女性から話しかけられた運転士の飯田晃司さんは「昨日も暑かったね」と答えながら、下車する乗客から切符を受け取る。トンネルを抜けると緑が色濃く、津波による被災地というより山の中を走る鉄道のような印象だ。田老駅が見え始めると車窓に津波の爪痕が広がった。
 長いトンネルを抜けると窓がエアコンをかけていなかったためか曇った。以前は最高時速90キロだったが現在は45キロ。8分15秒で通りぬけたトンネルを13分かけて走る。午後4時52分、予定通り小本駅に到着した。いったん、ホームを離れ午後5時5分発宮古行きとなるべく準備をする。
 小本で買った宮古行きの600円の切符は昔懐かしい「硬券」だった。小本からは5人が乗った。乗客で主婦の柿本ユミ子さん(69)は「震災以降、車両が見えなくなって心配していたの。再開してくれて感謝の気持ちでいっぱい。車両が2両に増えたなとか、駅に入る車両を日々見守っているわ。大変だろうけど元通りになってほしい」と全面復旧への期待を話しながら田老で降りて自宅へ向かった。田老では高校生ら約30人が乗車し、座席はあっという間に埋まった。宮古には予定通り午後5時47分に到着した。
 宮古から小本へ折り返す午後6時20分発の列車は2両編成となった。地元の高校生ら100人以上が車両に吸い込まれ、あたりはだんだん暗くなっていった。
 10日午前7時、久慈から陸中野田へ向かう列車にも乗ってみた。40人以上の高校生たちが乗り込んだ。運賃は300円。陸中野田で運転士に硬貨を手渡した。折り返しの久慈行きには120人以上の高校生たちが乗り込んできた。日本史の教科書を手に級友たちと必死に最後の追い込みをする女子高生は、中間試験の真っ最中だという。
 久慈駅からはタクシーに相乗りして学校へ向かう学生の姿もあった。さんてつは高齢者や学生など「交通弱者」の足として生活を支えていた。
 ◇いまも割引続ける
 望月社長は運行再開当初、無料期間は1週間ほどと考えていた。だが「被災者の姿を見ると、とてもお金(運賃)が取れる状況ではなかった」と振り返る。結局、3月末まで無料運行を続け、4月末までは罹災(りさい)証明があれば無料とした。有料化した現在も割引運賃で運行している。【米田堅持】=つづく
三陸鉄道の3カ月<下> あきらめたことはない
 「さんてつ」(三陸鉄道)のホームページには「三陸鉄道の復旧に向けて」という望月正彦社長のメッセージが掲載されている。そこには「自力で復旧できるのはここまでです」と記されている。
 だが、金野淳一運行本部長は「もちろん、あきらめたことはありません。島越にレールは無理でも信号ケーブルだけでも通したい。そうすれば宮古-小本間は手旗信号を使わなくても運行できる」と、さんてつ応援イベントを知らせるファクスを手に次へのステップを語った。
 ◇目的を持たない者は受け付けない 被災地フロントライン研修
 さんてつは、被災地を視察し研究したいという全国の要望に応え「被災地フロントライン研修」というガイドツアーを展開している。フロントライン研修を企画した岩手県中核観光コーディネーターの草野悟さんは「現地を見たい、被災した時にどうすべきか参考にしたいという声を受けて、一般的なツアーや単なる金稼ぎではないものをと考えた。目的に応じて視察場所はアレンジしている」と語る。
 「地域住民に白眼視されずにフロントライン研修ができるのはさんてつブランドが大きい。運転士や保線担当者だけでなく、被災者でもある旅行事務の担当者らが視察先との調整をしている。彼らがいるからこそできる企画だ」と地元企業ゆえの優位性を説明する。
 地元だからこそ被災者への配慮は当初から徹底している。道に迷ったり駐停車による渋滞原因を作らない▽自衛隊や警察、作業車両を優先させ事故を起こさない▽現場で作業の邪魔をしない▽撮影は被災者の感情に配慮し作業の妨げにならないようにする▽食事の場所などは事前に確認する▽危険な場所や避難所でのマナーを守り住民感情に配慮する▽宿泊施設は現場作業に従事する人を優先し、飲酒や騒音には十分注意する▽不要な支援物資を持ち込まない▽服装や持ち物は各自で準備する▽盛岡発着とする──といった原則を貫き、30件以上の研修を行った。
 「目的のないものや趣旨が合わないものは断っている。盛岡発着としたのは、一般的な旅行代理店ではできないことを地元で企画し地元の人でやることにこだわったから。将来の着地型観光の礎にしたい」と草野さんは復興後を見据えている。岩手県内の観光施設の被災状況を調べた愛車は3カ月で1万3000キロ以上を走ったという。
 ◇復旧は元通りのルートで
 6月末の時点でも、さんてつが運行を再開している区間は全線の3分の1、輸送力は10分の1ほど。南リアス線はすべて運休したままだ。「南リアス線はレールの損壊や津波によるがれきの流入がひどく、北リアス線よりも被害は深刻。車両も3両が津波の影響で自走できなくなっている。すぐにでも修理したいが、南リアス線の復旧にめどがたたないと……」。宮古駅のベンチに腰掛けた望月社長の表情が険しくなった。
 それでも「次は6億円ぐらいかかるが陸中野田-野田玉川(4キロ)を復旧させたい。取りかかれば1年以内にできる。島越や陸前赤崎は駅を数百メートル動かすことになるだろうが、将来的には元通りのルートで復旧させることにしている」と復旧への道筋を話してくれた。
 さんてつにとって運転資金の確保は、復旧費用同様に頭痛の種だ。パートなど約20人を解雇してコストカットをする一方で「きっと芽がでるせんべい」の新バージョンを売り出すなど関連グッズの販売にも力を入れている。「切符を1000枚購入したいという申し出があるなど、支援のために商品を買ってくれる人がいてありがたい。銚子電鉄のぬれせんべいみたいに危機を救ってくれたら」と望月社長は期待を寄せる。
 ◇地域の現実を考えたら鉄道の優位性は高い
 元々厳しい経営環境にあったさんてつにとって、震災は致命的打撃となった。道路の復旧が進み、自動車で移動することが可能になっても鉄道輸送にこだわる理由を望月社長に聞いた。
 「さんてつの運行区間は他に公共交通機関がないところもある。バスで運行したとしても、国道は山側を走っており沿岸部の地域へは2倍以上の時間がかかり、運行本数も減るだろう。冬になれば山道の国道は積雪もあり安全とはいえないだろう。地理的、気象的に地域の現実をみてほしい。鉄道の定時、高速、大量輸送能力の優位性は高い。震災前のアンケートでも70%以上の地域住民が必要と答えている」と力説する。記者は久慈と宮古をレンタカーで往復したが、国道45号線の山道はカーブも多く高低差もある。雪道での運転は慣れないと厳しいことは容易に想像できた。
 望月社長は花巻市出身の59歳。山形大を卒業後、1974年に岩手県職員として採用された。交通や観光、地域振興などを担当、久慈市の助役、盛岡地方振興局長などを務めた後、2010年3月に県庁を退職し、同年6月にさんてつ社長に就任した。役人出身で座っているだけというイメージはなく、自治体との交渉など復旧の先頭に立ってきた。「観光客だけでなく、ウニやアワビ、マツタケ、サケなどの特産品も運び、産業振興や食文化に寄与し、地域にもたらしたものは大きい」と地元交通や輸送の要だと強調した。
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 今回はさんてつの北リアス線を歩き関係者から話を聞いた。唯一無二の存在で競争相手がなければ価格は往々にして供給側の都合で決められるが、それにしてもさんてつは割引運賃で運行を続けているのだ。復旧費用を考えれば1円も無駄にできない非常時に、さんてつの決断は新鮮に映った。数字がさんてつに突き付けた現実は冷たく厳しい。しかし、地域住民にとって必要とされる存在である限り、多くの人々の力で暖かい風が吹き、さんてつが全面復旧する日を信じて「鉄Mai」は見守っていきたい。【米田堅持】

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