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2020年6月14日日曜日

少しずつもとのように動き始めるが、気分の持ち様が付いていくか

 いままでやっていた物事が、突如として止められてしまった。なくなってしまったことで、片付けだとか読書だとかこの際に、積んであったものを整理するという、珍しくも積極的な生活をやった。やったことはよかったが、Aを少し動かすとBに取り組み、BからまたすぐにCに移っていく。高齢者の生活態様がモロにでているのも可笑しい。たまったテレビ録画は、記録時間がなしに等しかったものが残11時間となり、新しい録画で溜まっていく時間を超えて減らせたのは、新型コロナのおかげだ。

 ぼちぼちもとの生活再開の動きが出てきて、予定表への書き込みも再開となった。そしたらこの度はなぜかだんだんおっくうな感じが出てきてしまった。他から強制されない、何もしない生活とはそれなりに良さもあるのだ。右のものを移すのも掛け声がいるような具合になったのだから、もう周回遅れでもいいからゆっくりしたい。そんな気分がフワッと現れ出てくる。

 でも年寄りになったら「動かない」のは褒められたことでない。まだ動ければまだ健康人の部類なのだろうから、ぜいたくを言っちゃいけない。しかし、「コロナ前」に戻すには、掛け声どころでは元に戻りそうもないない。自粛生活で得したことは多々あり、これまでの日常で「棚」に積むだけ積んだ「ゴミ近」を埃が経たないようにそっと下ろして、どう始末してくれようかとあり余る時間を使えた。有効に使えたのはよかったが、あんまり「切れよく」と言うわけでもなかった。でもまあ、普段ハタキをかけていなかったものに、パタパタとかけて塵を追い出せたのは精神の上でもよかった。ほかに何かいいことがあったのか?考えるほどのこともない。せいぜいそんなものだ。

梅雨の予兆、紫陽花が近所でも賑やかに咲き始めた






2018年1月3日水曜日

ブログを書けば健康に結びつくかな?

 ブログを書くのに着想がいるし、文章をまとめるためにエネルギーを使う。健康のためにいいことだと思って書く。書くことを自己目的化して続けていけば、やっている気分がストレス解消になっているのかもしれない。ブログが出来上がるとほっとするから、逆に書こうとすることでストレスにもなっている。

 もっぱら余生の生活は、成果なぞというものはいらない。業績の価値観も考える必要はないから、専ら己のみの満足感を求めてのこと。当然金に結び付くことはない。今年も朝の洗顔と同じつもりでやっていければいいと思う。

 暮れに健診結果が送られてきた。心臓の働きが悪いので再検査が必要とのこと。休肝日の効用で肝機能の数値はよくなってきた。年相応の証明だろうなと、お付き合いのほどを祈るのみ。BMIは経年少しずつ小さくなってきているが、このメタボ基準はずっと高めになっている。この間チラ見だったが、テレビで22~27までも基準の幅として認めていいとの話をしていた。

 健診の基準は18.524.9までが幅となっているが、人間は太目細目があるので、健康的であるならば、その数値にこだわることはないのではないかと思う。タイプ別の区分を考えないのか。もっともそういってしまえば、他の血液検査などの結果も人別になってくるということになるが、ビックデータ利用による把握などができれば、個性の数値水準をもつことができるのではないか?個人情報の利用にあたるから工夫はいると思うけれども。

2013年1月16日水曜日

刺激が強い東京


 古いプリンターのインクが余っているので、依然通っていた現代写真研究所に連絡したら、使っているとの返事だったので、ウォーキングがてら四谷三丁目まで行って届けた。研究所の様子も当時とは違って、デジタルにもスタンスがおかれて、パソコンが相当台数設置されていた。デジタル講習会が近々始まるのでどうかと誘われたが、以前は本科の受講者が対象だったものを、対象を広げて本科経験者ならよいとのことだ。

 前からこの講習会にでてみたいと思っていたので、やってみようかと気持ちが動いた。月2回ならなんとかなりそうだ。自分の撮ったデジタル写真を、手持ちのソフトを動かしてやってはいるが、もうひとつ使いこなせない。自分で研究する時間がなかなか持てないとなると、短期間の講習会がいいかもしれない。

 実際の光の具合に合わせて撮ったつもりでも、見た印象と違うことはある。それを「修正」するか、少し手を加えたらもっと強調されて、よくなることをねらう。デジタル時代の前から現物を直すことはあった。現在はいろいろ変化をつけて全く自由に修飾可能だから、「これが写真?」と思うこともある。どこが境目だかは専門家に任せるとして、対象に何かを感じて撮ったものを、少しだけ強調するのはいいのではないかと思っている。

 誰が見てもいい写真はとても難しい。自分で撮ったものを、多少物知り顔にこれはいいと思ったりしても、他者の反応や感想が返ってこないのでは、良いも悪いもない。文句なくいいものは、自分の見る目を鍛えないとわかるようにならない。思い入ればかりにとどまっていないで、次のステップへ踏み出すのは、新しい刺激がないとダメなのだろう。

 しかし、岩手山麓では、マイナス十数度の世界以外はとりたてて、刺激はないが、東京は刺激が多すぎる。帰ってきている間に次々と用事が現れる。用事と言っても、自分がかかわってきていることだから文句も言えない。そのうえ、今日はデジタルカメラ基礎講座の話まで聞いてしまって、やることになりそうだ。知らなければそれはそれで済んだものを。

今日の一枚 閉塞感



2012年9月26日水曜日

夜活動するのはDNAに反する?


 人と土とは切っても切れない縁がある。住処も、ビルのマンションよりは小さくても庭が付いているのがいい。(もしも私が家を建てたなら…♪)大概の人は土に近いところをもとめる。
 
 人生の熟年ともなると、庭いじりか庭がなければ植木いじりを始める人が多い。育てるという作業が人にとって、潤いをもたらすような何かがあるのだろうか。
 
 農耕中心で暮らしていた時間は15000年もさかのぼるから、相当長期にわたって人の生き方を支配してきたといえる。明るいうちは田畑で働いて、暗くなったら家へ帰る。(明かりが使えるようになったら、「夜なべ」の仕事があった。)その長期の積み重ねが人のDNAを作ってきたのではないか。体内時計云々という話はそのことを指すのだろう。
 
 夜寝ない町は、世界中がコンピュータネットワークでつながり、「儲けの情報」を早くキャッチすることが必要なったところにできあがった。社会の活動スタイルの変容が、私たちのDNAの変化を要求しているというのだろうか。
 
 非正規従業者が、1年の就業期間、超過勤務の支給もないなどの処遇改善のために労働組合を作った。ハローワークの話となれば、漫才のネタにもできない笑えない話。不条理に出来上がってしまった社会に、土を触る生活をして自然に触れて暮らすことが、一つのテーマになっている現代は、人の生活を見直す「回帰」になっているのかも。

2012年5月25日金曜日

ストレスを元から断てば

 サバイバルナイフを持って、日常歩くという社会。監視カメラで犯罪を抑え込もうとする方策がうまくいかないという結果になった。


 犯罪者がつかまることも覚悟で、べつに隠し立てもしないで逮捕されたから、その限りでは役だったともいえる。監視カメラがあってもなくても、「怒りを発散させるときのために」凶器を日常もつなど、なんともひどい世の中になった。


 なったというより、作ってしまったというべきなのか。住んでいた大家さんの話で「1年ほど前に人員整理でクビになった」と言っていたとのこと。大企業は、利益を出すために大量の人員整理を臆面なく進めている。


 解雇・退職勧奨での相談件数が24,841件(5都道府県)あって、東京は前年度比17%増と朝日新聞が書いた。首切りを進めて企業の存続をはかる代わりに、社会生活に大変なリスクを負わせていることになる。


 駅でのトラブルも首都圏の大手私鉄では2.3年前から増加傾向とのことだ。「携帯電話の利用マナーや肩が触れたというのは日常茶飯事に起きている」と。ストレスの元をただすことがなければなお、こういった事件は増えることになるのではないだろうか。人を傷つけるまでに至るのは「特別な人」というだけでは済まない。