2013年11月27日水曜日

京都で紅葉を撮って、煩悩が取れるか

 年を重ねて、酸いも甘いも噛み分けたのかどうか。自分だけが苦労したと思っていることを、いやいやたたみこんでちょっと軽く箱にしまっておくことができればいいといつも思うけど、たやすいことではない。そう整理がつけられれば成功だろう。ところが己のような凡人には難しい。細胞の動きがだんだん緩やかになってくる。いままで簡単にできていたことがそうはいかなくなる。と、やけにものごとに苛立つことになってしまう。さして得意でなかったことも、よけい難題に見えてくる。

 あたりまえに面倒なことが重みで余計に避けたい気持ちが高じてくる。人並みじゃあないか、取り繕ってやることもあるだろというときもあるが、しかし気持ちはとっとと逃げ出す。流れは自分中心と言うわけにはいかない。返って棹をさして進めるごときの所業にとらわれるときもある。もっとも自分でまいた種だってあるわけだし、関わっているものもあるのだから、その責任に知らぬ顔をしたいものだと思うこともある。それもなかなかうまくゆかない。

京都に強いて行きたいと言ったわけでもないが、写真合評会グループの三分の一としては、愛想のない返事をすることは普通できない。多少の写真道具を取りそろえるとやっぱり使いたくなるという気持も一緒に手伝う。
 何回も来ている先輩の折々の気遣いで、勝手を知らない京都の寺と街中を旨く泳ぎまわる。新幹線を下りた時から、ツアー軍団に圧倒されていた。東福寺と泉涌寺で紅葉を撮り歩いたが、人の波の中で前後左右を気にしながらの道行だった。折角の寺巡りに、紅葉だけ見るのではなくて、煩悩のおさまりどころを追求するのも手だが、そんなゆとりは持てない。とりあえずは人よりいい写真を撮り当てなくてはならない。

 ホテルに戻って、ニュースで特定秘密保護法案の衆議院可決を知る。日本写真家協会が「成立に強く反対」の声明を昨日出したということだったが、どんなときでも事実を切り取ることができる写真を制限し、歴史の記録を認めないことで、戦争の道へのめり込むことに同意できないのは当然のことだ。先斗町の路地には、外国人の客がたくさん歩いていた。平和でなくては成立しない日常を汚すことは許されないことだ。