2013年7月8日月曜日

ドイツの旅三日目、ハイデルベルク

 ハイデルベルクは詩情あふれる景観で「古城街道」と名付けられた一角を占めている。中世の雰囲気に浸りながら音楽を楽しむという趣向を準備していた。そんな道には詳しければもっと趣を楽しめるたこましれない。人にやさしい文化が息づいている気分を味わった。

 





恋人同士の「契の鍵」だそうな



レストランの入口のバラがきれいだった




 午後からは220キロ移動。ローデンブルグの城壁の「街」を楽しんで歩いた。20時を過ぎても明るい日差しがあって、夕食のチキン料理をレストランで食べた後も歩き回った。日本で言えば老舗のホテルと言ったところか、年季の入った建物だった。























2013年7月7日日曜日

二日目午後から晴れて、ケルン大聖堂

 これも世界遺産ということで、聖堂の鐘楼階段を500段上るかというオプションがあり、即座に参加しないことにした。500段上がって景色が見られる感じではないと思えたし、その時間街中を眺めたほうがいいう判断をした。登った人の話では、行かなければならないほどの景色ではなかったようだ。聖堂の中もミサ中で人が沢山座っていたし、撮ってはいけないという制約もあったので、すぐに出て、街中へと入った。

 日本人のパフォーマンスや大道芸人のアトラクションありで、賑やかなカットがカメラに収まった。原宿の町みたいな、そんな感じだ。若者が集まるところのようだ。中世と現代との取り合わせが面白い。

















2013年7月6日土曜日

二日目はライン川クルーズから

 ドイツに着いた日は、夕食の前に宴会を部屋でこなす余裕の時間があった。旅の二日目になるが、これがまた気が利いていてワインセラーで飲み物が手に入るという嗜好だ。試飲後お土産で送る人は送って、旅中で味わうべきワインを忘れることなく買い入れた。1番から順に試飲して10本も飲んだら選択肢が広がって、うまいものを手に入れたきにもなる。が、確かに美味いとおもった。


 
       


 ちょっぴりほろ酔いの頭を、ライン川クルーズでと洒落込んだ計画だったが、雨がだんだん強くなって、写真を撮るのが大変になった。両岸の建物やら城やらを眺めるのに支障はないものの、雨宿りしながらかわるがわるデッキに出て撮るということになった。

 川はクルーズ船がかなり航行しているし、輸送船も頻繁に走っていた。岸の方には鉄道も貨物車がかなり走っていた。それらの色もなかなかバランスがとれて、自然と調和した感じだった。世界遺産ということもあるだろうけど。古い城を保存して、昔の風景ごと残してあるというは、日本では考えられないことだ。それなりの財政支出も当然していることだろう。日本で言えば「川下り」となるが、そんな表現ではとてもまかなえない風情だ。






          

          









2013年7月5日金曜日

「各国は異常気象に備える必要がある」とWMOが。

 世界気象機関(WMO)が10年間の気象を分析した「異常気象の10年」を発表した。世界平均気温が観測史上最高を更新し、2000年までの10年間より平均0.47度上昇した。2007年には北極圏の海氷の大きさは最小になった。二酸化炭素の大気中濃度の押し上げが、世界の気温上昇を招いて気象パターンに影響を及ぼしたと分析している。日本の気象庁のデータも元になっているということだが、どうもこの重大性が政治に捉えられていないように思う。

 気象庁の天気予報、予想にも、異常気象についての説明はついぞ聞いたことがない。異常な天気であっても何年に1回だとか、何年周期だとかで起こりうることと説明される。二酸化炭素低減の対策と言っても企業の自主性に任せる程度だし、暑いときには冷房を27度に設定してとかということくらいが対策だ。ニュースでは異常気象が世界中で起きていることが伝えられるのに、政治の面ではおざなりになっている。2011年からさきの10年間で、このままいったらどうなることか。

 奈良の平城京跡に広がる草原と湿地を埋め立てて舗装するということを国土交通省近畿整備局が昨年9月から始めているという。テーマパークづくりのためのものということで、批判が上がっている。平城京跡は1000年以上も破壊されたことなく、破壊される危機の度に止めてきたが、国交省は強行しているということだ。史蹟を残していくことは、将来を生きていくものにとっても大切なものだ。日本ではいとも簡単に、安全のため・観光のためといいいつつ破壊に向かう。

もっとも、政権党が建設業界に献金を金額付きで明示して依頼するようでは、さもありなんということでしかない。
 土面といったらいのか、泥が表にでているところは貴重だ。草も木も育つし場合によっては作物を造ることもできる。都市部で言えば、気温の上昇を吸収することができる。大都市などではビルを建てるスペースには、地表をだした緑地として確保すれば、防災対策にできるだろう。

 自然を改変して人間の役にたてていくという大義名分を使い、いわば事業利益の享受で、あとは知らぬ存ぜぬということがまかり通る日本は、良い国とはお世辞にも言えない。壊された自然と歴史とそのつけ(借金)を、子々孫々に負わせる気かといっておきたい。


洪水から立ち直った世界遺産ハルシュタット湖    舟屋が見える

(ミュンヘンから約220キロウィーンへ約300キロ)


2013年7月4日木曜日

静かなドイツ、オーストリア

 12時に目が覚めて、寝られず4時まで起きていた。ドイツとの時間差は7時間(サマータイム)。時計とカメラと携帯電話の時間差は、設定を操作してシャンと修正するが、体内時計はボタンもなにもないから修正ができない。とにかくぼーっとした二日目になって、午後ようやく頭が動き始めた。

 昨日午後に、撮り貯めた画像をHDDにコピーた。合計1400の数になった。ツアーの帰りのレストランで、写したものを旅行案内のようにして造るという方の話を聞いた。メモをキチンと手帳に記録して、パソコンで書き上げるという。その方は700枚程度写したとのことだった。城や聖堂、景色は、素晴らしいものというのは当たり前だが、せっかくの機会に他に「見えるもの」があるはずだから、それも記録に残せるようにと、張り切ってシャッターを押した分だけ多くなったのだろう。「下手な鉄砲も」という気概(?)を落とさずに、後で見るカットを楽しみに溜め込んできた。
 
 ドイツ旅行に乗ったのは、原発とゴミ箱と自転車道を見てみたいという思いがあったからだった。原発は、日本の原発事故がきっかけで、脱原発への舵を大きく切った。これはしかし、ツアーにはなじまないだろうから期待はできなかった。ゴミはリサイクルの先進国だから、シッカリした対策が見えるだろうと思っていたが、これはスペインツアーの時と同様に、街中にも集積場(ポスト)を設置してあり、日本ならこの程度のものでは到底賄いきれないだろうと感じられた。自転車道は都市部では明確に、歩道や車道の他に道を造ってあった。観光地のせいもあるだろうが、リュックを背負った旅人がたくさん行き交っていた。

  移動はバスで長距離を走ったが、アウトバーンの整備は地方への繋ぎがよくできたものだった。ヒトラーが最初に軍用と失業対策として始めた歴史をもっているそうで、大型トラックと乗用車が相当量行き来していた。

 目的は果たせたと言えないが、ツアーのお土産屋にはなるべく留まらずに、その時間も外に出て撮ったものも加えて、これからまとめてみたい。
 日本は参議院選挙が公示されたが、同じ「敗戦国」でありながら、戦争を否定して、歩んできたドイツとの差について突っ込んで見てみるのも、わが身を見るのに役立ちそうだ。










2013年7月3日水曜日

総括的まとめ。6月25日~28日、能登の旅の「若者」のキーワード。

 五箇山の相倉で泊まった民宿に、若者が何人か同宿した。さる旅行会社(だったと思う)の社長が新採の若者たちに、五箇山の暮らしを体験させようという企画だった。相当人数がいたらしいが、あちこちの民宿に別れて、和紙造りなどの生活体験を学んで、仕事に活かそうというものだったらしい。それはそこまでの話だが、遊びの範疇を超えた何かを若者が感じたとき、何か起きないかと淡い期待をもった。

 民宿の奥さんに、あの若者のうち何人か、ここで暮らすみたいなことにならないかなと話した。奥さんはまともに受け止めなかったが、いったいこの先どうなるかという不安は随分口に出して話した。馬鹿なことに、ここでの若者の写真を一枚も撮っていなかった。大失敗。カメラを構えて何を撮ろうというのか。いつもせっつかれて考えていることなのに。だから、シロウトの域をでないんだろう。

 狼煙(のろし)の漁港では魚の水揚げの時に、必死に網から魚を外している女の子がいた。取れない、外れないと大騒ぎしていた。漁業を営んでいる家に泊まった若者が、水揚げの体験をするということだったようだ。埼玉県の高校生だということだったが、こういった体験も、なかなかできるものではない。漁師のおばあさんが、魚を網から外す方法を、優しく教えるところなど、「いいね」感たっぷりだった。もっとその学生を撮るべきところ、やや疲れ気味の時間に至り、たくさん撮ることができなかった。これももったいないことだった。

 間垣の里の垣根作りは、金沢大学の学生がその存続維持のための研究をした。去年の12月には、伝統的に使用しているニガタケの間伐、栽培に向けた取り組みをしていると、旅から帰ってきてから知った。
 この撮影旅で、地元にはいなくなってきている若者が、顔を出しているうれしい場面に遭遇できた。若者の中に、気の遠くなるような長い間、苦労して築き上げた生活や文化が、少しでも心に止まって、残っていけばいいだろうなとつくづく思った。その夢を持たせてもらった。これは収穫だった。



五箇山


狼煙漁港


間垣の里





2013年7月2日火曜日

世界遺産、間垣の里も助っ人が必要だ(5月28日)

 輪島を離れて、能登半島の旅の終焉は、間垣の里に寄るのが通例だ。旅の終わりを惜しみながら、通りかかるのにはふさわしいところかもしれない。ともかく人がいない、そしてともかく海からの風に圧倒される集落。店一軒あるでもない。

 間垣の里の景観を引き継いでいこう、という取り組みが金沢大学の学生たちによって進められていることは、東京に戻ってからわかったことだった。
 要するに、高齢化によって海からの強風から守るための間垣が、高齢化のために維持するのが大変になった。板張りに換えてしまうことや、放置してしまう状況を、どうしていけばいいのかという命題に取り組んで、方策を検討したというもの。垣根の材料であるニガタケの移植や、地域外人材の活用などの可能性を、実体験しながら探ったという。
 
 間垣の様子が依然来た時と変化していると、写真を撮りながら感じていた。それがなんだかは解るべくもなかったが、家並みに入り込んで撮った廃屋も、その象徴となったのかもしれない。
 こんなことが解かってくると、観光写真風というのからは、その背景が出てこないな、ということを思い知らされる。学生が調べた間垣の「伝統継承タイプ」の14のうち、現在残っているのは、たった4つという結果だった。このままでいけば、希少な文化がここでも廃れていくことになる。

 金沢大学の他にも研究が進められているということだが、こころ強いことだと思う。写真家(シャシンカ、シャシンヤ)は、金沢大学の学生が、ニガタケの植え替えと、垣根の取り換えをするところを撮らなければならないことになる。さて、そのエネルギーと時間があるのだろうか。














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「輪島西保地区の間垣」保全継承のための実証的研究
金沢大学地域創造学類地域プランニングコース

 能登・輪島の特徴的な里山里海景観を構成要素である「間垣(まがき)」は,大沢地区においては,過疎高齢化等の進行により,地域に自生するニガタケにより作られた伝統的なタイプのものがほとんど消失する状況にあり,その保全を図る必要性が急務であることが確認された。このため,間垣保全活動であるニガタケ伐採,間垣補修等の一連の活動を地域住民と学生が連携して行うプログラムの可能性を実践的に検証し,今後の支援のあり方について検討した。

強風から家々を守る
地域のニガタケを毎年差し替え
高齢化のため維持管理が難しい 板張りへの変更または放置
間垣の風景を残すためのの仕組みづくり
学生の活動と地域外人材の活用の可能性
東京農業大学荒井研究室

 ニガタケの休耕田等への移植事業の可能性について現地検討
所有者による補修が困難となっている複数の間垣
を対象に,学生と地域との連携による間垣補修作業を実施し,実施可能性を検証するとともに,作業内容等に関するデータを整理

 昔ながらのニガタケのみによって間垣を構成する「伝統継承タイプ」,維持管理のしやすい板材のみによって構成する「簡易タイプ」,簡易タイプの板材の隙間にニガタケを差した「混合タイプ」の存在が再確認されたとともに,板材の前面全てにニガタケを薄く差した「擬似伝統継承タイプ」やトタン板等のみで構成される「改変タイプ」の存在が確認された。
 また,2009 年時点で伝統継承タイプと確認されたもののうち(14 個),現在残っているものはわずか4個であることが確認された。

 補修支援活動対象間垣について,学生中心による補修作業を以下の内容で実施した。補修作業も,想定した作業時間の範囲内で作業が完了でき,学生中心によるニガタケ補修作業の実施可能性を検証
2012.11.05(月)(大学休日)
ニガタケの生息環境調査等にもとづき,ニガタケ伐採作業時および間垣補修作業時に,ニガタケの生息環境整備のための実証実験として,学生が中心となってニガタケの間伐,ニガタケの株掘り起し・移植作業を実施した(詳細省略)。今後の生育状況についてモニタリングを行う予定

地域からの評価も高く,間垣保全支援活動の今後の持続的,多面的な展開が期待されている。
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参考






2013年7月1日月曜日

輪島の朝市で(5月28日)

 ここも3回目だ。T先輩が朝市のお母さんたちに、前回きたときに撮った写真を届けると、被写体になってもらった相手を探し回る。あちこちでどこの場所にいるかを聞いていくが、顔を見てもピントはこない。様子が変わっていることもある。そして、中には老人ホームに入ったという人の情報もわかる。そのときは写真を預かってもらうが、気持ちよくやってくれるのでうれしい。

 そんな動きをきっかけにしても、何枚かを撮らせてもらう。ここまで来ると拒否というのはない。さすが先輩だと感心する。そこまでする写真家はあまりいないようだ。一人だけポツンと市場から離れて、草履を広げている人がいた。ちょうど、家で使っている布草履がダメになってきていたので、一足買うことにした。もちろん一枚撮らせてもらうように頼んだ。しゃんとしていい風貌だった。














2013年6月30日日曜日

白米千枚田の夕陽は残念ながら…。(5月27日)

 ここは3回目になった白米千枚田。ここで夕陽を取るのが、今回のメインのひとつ。輪島まで距離も遠くないから、一時寄って昼食を食べて撮ろうかと車を止めた。観光地なるゆえに賑やかに、さあどうぞという割には、腹にたまるような食べ物がなくて、食事がわりの簡単な食べ物を買って間に合わした。観光客もひっきりなしにやってきているが、田を回ってみる人は多くはない。

 すでに稲が水から立ち上がっている。田植えのアトラクションか何かで使ったらしい、飾りの残骸がぶら下がっている木が、一本だけ異様に残っている。それを入れたら絵になりそうもない。2年前に世界農業遺産に登録されているが、一体それが何をもたらしたのだろうかと、観光事業にばかり力点を置く現世に、また疑念を感じた。だが、否定していいのだということも、言い切れることではない。

 やや苦労しながら見通しの良い上の方にも行って、記録として残した。これも感動が薄れてきているせいか、力を込めた写真にはなりそうもない感じだった。





 輪島のホテルにチェックインしてから、輪島の港のほうへ一回り回った。夕方なので、港の活気はない。代わりに子供が遊んでいるのが被写体になってくれた。チェックインした時に、仲居さんに今日の夕陽の時分の天気はどう?と問いかけたらまあダメでしょうと即答だった。でも万一晴れたらお客に申し訳のないことになると、天気予報を確認して、「外れても怒らないで下さいよ」と念押ししていた。