在宅で働くところ
家族感染するところ
自宅療養するところ
自宅放置死させられるところ
医療崩壊というけど、家族崩壊、いや政治崩壊と違う?
虚鯊は「ウロハゼ」。関西で好んで食べられている。すしネタでもいけるとか。「あーそーべー」は山形の方言で、一緒に遊ぼうとの意味。ウロハゼは関東の海でも増えてきているもよう。温暖化の影響かもしれない。夏のハゼ釣りのとき、マハゼに混じってつれるが、「つりの競技会」となると、邪魔者にされることがある。
~BBCニュースからの引用~
個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない…ことを事実上無視して、NHKは活躍の証拠だとして発表することを公言しているし、メディアの扱いも大方同様になっている。「メダル争い」が国家間の競争とされ、集約されては平和に貢献することになるのだろうか。日本でも「国威の高揚」に使われていることが当然視されるべく扱われ、開会式での「自衛隊の活躍」を見れば軍事の色彩まで感じてしまう。政権の浮揚まで利用されては、上前を撥ねるという点でも冒涜ともいえることだろう。日本では「人のフンドシで…」「虎に威を借る…」という格言がまだまだ生きている。
~この点でBBCのニュースの記事が面白かった
東京オリンピックのメダル獲得レースは今回も、アメリカや中国といった大国が上位を占め、1位はアメリカだった。しかし、各国の人口や経済力を変数として考慮した場合、順位はどうなるのだろうかーというもの
~つまり国ごとのメダル数を単に比較しただけでは「実力」ではないこと
「大事なのは人口と収入レベルと政治体制だというのは、今でも明々白々だ」と、五輪予想を研究する英リヴァプール大学のエコノミスト、デイヴィッド・フォレスト教授は言う。
~人口が大切なのは当然
国の人口が大事なのは、競技人口が多いほど優れた選手が出る率が高くなるからだと、フォレスト教授が言う。「世界的なアスリートになる資質を持って生まれる人はとても少ない。たとえば、人口63万3622人のルクセンブルクを見てみる。7種目に選手12人を送り込み、メダルは取れなかった。
一方で世界3位の人口規模(約3億2800万人)のアメリカは、35種目に選手613人を送り込み、メダル獲得数はトップだった。
~人口100万人あたり獲得数では
国の人口100万人あたりのメダル獲得数を比べた、従来とは違うメダル・ランキングを作ってみた。この数え方でいくと、人口わずか3万3000人超の欧州の小国サンマリノが、獲得したメダルわずか3個でも、ランキング1位になる。一方のアメリカは、この尺度では20位以内にも入らず、60位になる。
「とても貧しい国の場合、人口という潜在能力を、国際舞台での実際の競争力に転換することができない」と、フォレスト教授。「そもそも国民がスポーツに参加できなければならない。たとえば、競泳の素晴らしい才能を生まれつき持つ人がいて、あとはその能力を引き出すだけだったとしても、国が貧しければプールがない」
貧しい国が勝つのは、たとえばレスリングなど低コストの競技になりがちだと、教授は言う。(~日本は貧しい国だ)一方で、裕福な国は人口規模にかかわらず、馬術やセーリングなどで活躍する。
~国民の平均所得では
国民の平均所得を検討要素に加えると、(メダルレースで2位と3位だった)中国とロシアは、実はアメリカの成績を上回ったことになる。この別バージョンの順位では、1位は中国、2位はロシア、3位はケニアだ。そして、いつもならメダル順位1位のアメリカは、この指標を使うと15位になる。
~政治的文化的要因
フォレスト教授によると、旧ソ連圏の諸国は、かつての共産党政権が構築した強固なスポーツインフラが残っているため、有利な傾向にある。英連邦の国々も、国の規模や経済力に対して比較的、好成績を残しがちだ。これはおそらく、イギリスが現代スポーツ発展の先駆者だったからだろう。イギリスは現代のスポーツ競技を開発すると共に、スポーツ競技への熱意を世界中にもたらした。ほとんど常にメダル数でトップテンに入るオーストラリアが、その典型例だ。
~国がどの競技に選手を送り込むかも関係
インドではクリケットが国民的スポーツだが、クリケットはオリンピック競技ではない。インドではオリンピック競技でもあるホッケーもさかんだが、それだけでは男子チームに1つ、女子チームに1つと、最大2個のメダルしかとれない。一方、体操や競泳や陸上など個人種目が多い競技なら、選手1人につき複数のメダル獲得が可能だ。「一般論として、チーム競技に熱心でもメダル数という意味ではあまり役に立たない」
~メダル獲得数予想は様々な要因がある
データ分析会社ニールセン・グレースノートのスポーツ分析責任者、サイモン・グリーヴ氏は、オリンピックのメダル個数予測が厄介なのは、こうした様々な要因がからみあうからだと話す。人口や人口当たりの国内総生産(GDP)などといった変数だけを使うと、その国のトップアスリートの活躍を過小評価してしまいがちだ。
オリンピック実況放送で「前畑頑張れ!」という、アナウンサーの言葉が語り継がれている。1929年オリンピック女子200メートル平泳ぎ種目の決勝戦の放送ー
「前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ! ゲネルゲンも出てきました。ゲネルゲンも出ております。がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! 前畑、前畑リード!~~前畑リードしております。前畑がんばれ! 前畑がんばれ! リード、リード、あと5メーター、あと5メーター、あと4メーター、3メーター、2メーター。あッ、前畑リード、勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! ~~前畑の優勝です」
河西氏の実況アナウンスは、「あらゆる日本人の息をとめるかと思われるほどの殺人的放送」と激賞された一方、「あれでは“応援放送”で、客観的な実況放送とは言えない」「第三位以下の選手の順位が不明で、スポーツ中継としては“欠陥商品”だ」といった批判も少なくはなかった…と評されている。
今回のオリンピックでも、実況アナウンスや解説者の「のめりこみ」が気にかかる報道がいくつもあった。「金メダルが…」と煽りたてるばかりの声…。オリンピックの実況放映で「メダル獲得」を至上のこととして、強調されて見苦しく感じた。ニッポン中心に拘泥せずに、少し離れて競争相手の情報や人となりを紹介するなどして、内容を豊かにしてくれれば、もっと楽しめるのにと思う。政権がうしろでメダル獲得を煽り立てて、「何個以上」とかという言葉が飛び交うようでは、オリンピックにおける日本中心の狭さを海外に知らしめるだけだ。
ちなみにオリンピックには206カ国が参加しているが、メダルを一つでも獲得した国は85か国(7日現在)41%となっており、6割がメダルに関わらずに参加している。
「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍などさまざまな違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって、平和でよりよい世界の実現に貢献すること」のオリンピック精神が、少数の国の「メダル獲得国威高揚」騒動になってしまっては、いかがなものかと思う。
招致わいろ、建設やりなおし設計、エンブレム騒動、費用問題、開会式騒動など盛りだくさんの汚点、コロナ感染拡大下での強行開催など、本来なら再起不能倒産状態というほうが当たっているかも。
初めて3000人を超えた28日、小池知事は記者会見で相変わらずの「不要不急の外出を控えて。皆さんの力を得ておさえこんでいきたい」「質問は1問だけ」と30秒で切り上げた。27日2800人越えの時は取材には応じなかった。27日夜には福祉保険局長が「いたずらに不安をあおらないようにしてほしい」と発言。これにはさすがにNHKの報道でも批判的な都庁記者コメントをしていた。「ダイジョウブ」と言える根拠はどこにあるのか。一方官邸は28日「本日はお答えする内容がない」と言わず語らずで、コロナ対応に説得力のあるコメントはなし。
伊藤美誠選手の中国遠征での体験をNHKスペシャルで見た。コロナ厳戒態勢の中、上海空港では防護服の男たちに囲まれ通訳は近づくことはできない。2週間の隔離期間を経て二つの国際大会に出場する。上海のホテルでは親子とも別々の部屋に隔離、常に監視員が見張る。上海から威海にむかうバスには5人のみ乗車、親子の会話もトランシーバーを使う。1000キロ先の試合会場まで救急車とパトカーが伴走。連日のPCR検査。という具合に感染対策が非常に厳重だったらしい。東京の五輪「バブル状態」は言わずもがなで、こんなふうに厳重にしたら「やれない」ということに尽きるのだろう。
朝シャン。さっぱりしてアイスコーヒーを飲む。昨夜は酒を飲みながら、明日はオリンピック開催日。さてどこへ踏み出すか。国立競技場をさまようかなどチラリと思った。足の具合と暑さで耐えられるかと、覚めてからの言い訳も考えていた。
聖火が新宿に届くというニュースをスマホで見て、急に出かけてみること決めた。新宿なら近いし。カメラの充電池を入れ換えて、ペットボトルにハンケチを二枚持ち、濡らしたタオルを準備。想像では第一庁舎の前かと思っていたので、行ってみたものの都庁前は近づけずまあそんなものかと反対側へ回り込んでみる。
駅地下道から続いている都庁の入り口には、「オリンピック中止」の看板を持った人たちが、訴えをして警察官とせめぎあいになっている。「警察に守られたオリンピック」だ。「中止」の世論が圧倒的なのに悪者扱いのようだ。
中央公園広場にも人がいるし、歩道橋には鈴山の人だかり。最初は走ってくるのを待つのかと急ごしらえの頭で思っていたが、中央公園にも集まっている。望遠レンズを三脚に構えている人もその中に複数いて、特定の方角に備えている。隣の人のおしゃべりで、「五輪の輪」だとやっと気づく。
カメラをズーム150のものに変えた。誰かが「来た」と気が付いてくれるので、集団の小魚が餌に向かうように、空を見上げる。都庁の空に緊張感のない奇跡が揺らめいて直ぐに消えた。3回空を見上げたところで、集まったストレス解消集団はすっと引いていった。「…に送ろう」という女の子の言葉が聞こえた。ここいらで頃合いかと一緒に駅に向かう。汗びしょになって14時前に家に戻る。今日の昼食はソーメンだ。
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ヨーロッパでも集中豪雨で大きな被害が出ている。日本も亜熱帯よりは熱帯地方のような状況で、この冬の山火事もその表れだったのだろうか。赤倉温泉小国川ダムの後に向かった肘折温泉の様子は、豪雨の爪痕が痛々しい状況だった。昨年7月の豪雨で破壊された橋や川の壁面の復旧をしているところだった。
肘折温泉には何回も訪れているが、温泉のたたずまいが、ずっと変わらないところが一番の趣で好きなところだ。いつも変わらない様子が安心感を持たせてくれるので、ほっとしながら温泉につかるのが何よりだった。今回は、その変わりように少々ショックを受けた。銅山川の氾濫が、また起きてはならないことへの対応なので、否定はできないことだと思うが、ふるさと山形の変わらぬ風景が変容したのが、とても残念だった。それにつけても温暖化への取り組みを急がなくていけないのにと、改めて考えさせられた。
4回目の緊急事態宣言を前に、たまった不定愁訴を取り払いに出かけることにした。7月梅雨時の「集中豪雨」で、災害のニュースを見聞きしながら思いだした。
ふるさと山形の最上川にそそぐ小国川の最上流部、赤倉温泉に作られたダムは、釣りの会の関係で知った「穴あきダム」だ。建設が強行されたとのニュースは聞いていたが、今はどうなったのか前から気になっていた。どうせ行くなら、このおりに寄ってみようかと出かけることにした。もちろん温泉も目的の一つだった。
2012年に地元の漁協の反対運動があり、渓流釣りの愛好家からも造るなと声が上がった。小国川はアユ釣りでは有名な「ダムなし河川」だったから、釣り関係の人たちの注目を受けた。山形県が強引に建設に走ったことで、漁協の内部対立を生んでしまい、軋轢の中で漁協長が自死してしまういたましいことが起きてしまった。
赤倉温泉は小国川の流れの際にあるところもあり、普段はなんのことはない流れなのに、増水すると温泉に逆流するということが何回か起きているらしい。今回泊まった温泉も源泉が川の下から湧き出すという位置関係にあった。ダムの「効果」について、立ち話で聞くと、出水は少なくなったと話していた。
昨年4月から運用された「穴あきダム(流水型ダム)」が、流域に住んでいる人たちの生活に、どれだけ被害を食い止められるのかという検証が必要なことだ。流水型ダムは他の地域でいくつか建設されており、なかには40年も安全だという記述もある。建設前のシンポジウムでは、河床の掘削と護岸整備工事で対応可能という学者の意見もあった。ダム建設で経験され明らかにされている認識を、深める作業がどうしても軽視されるのが行政のやり方だ。昨年7月の熊本県の球磨川の氾濫で、止まっていたダム建設が復活ということが起きている。これも「穴あきダム」が狙われている。
本当に必要か?の疑問が払しょくできないままではよくない。小国川の流水型ダムが完成し、観光地としての「運用」に動いていることが目に映った。NETでみると、「今年4月から本運用を開始した最上小国川流水型ダムにおいて、このたび新たに作成したダムカードの配布を開始しますのでお知らせします。ダムカードは『ダムのことをより知っていただこう』と、国土交通省などが平成19年度から作成しダムの訪問者に配布しているもので、本県の県土整備部管理ダムにおいては、これまで5ダムにおいて配布しており、本ダムが6ダム目となります」とのこと。
泊まった温泉は浴槽が良かった以外、かつては「らしさ」を誇ったところという感じだった。
「線状降水帯」として被害を受けることになった「梅雨」。ことは年中行事のようになってきた。気候変動の影響を受けての事だとは、「わかっていること」とされているのかどうか知らないが、公式公的にはその状況が正面から議論されているとは見えない。
熱海の土砂崩れは、直接の原因は豪雨にある。極端な気候の変動は世界的に広がって、その対応に国によっては議論がすすんで、積極的な温室ガス対策を公表している。日本はどれほどのものなのだろうか。東日本震災の復興を中身より「五輪」で表する?などという心もとない災害対策で、起きてしまったことにさえ腰の据わった公的な支援がなされない。
熱海の災害は、「不動産開発」をめぐって自治体と「争い」があったとのことも報道されている。総じて甘い規制のうえに抜け道があって、結果として責任が宙に浮かぶようになっている。山を削って開発に備え削った土をどこかへ運ぶ、都市開発のときでも発生した残土は、下請け業者の手を経てどこか行方不明。都市部や住宅地開発では背景にこの積み重ねがある。政治が手を出さなければならないことを抜きにして、「線状降水帯」の責任に押し付けるということにはならないと思う。
土湯温泉
岩手の親父のところへ行ったときに使う、専用の電気カミソリを購入していた。立派なものではないが、何回も使うこともないうちに親父が亡くなってしまった。持ち帰りして使わないまま置きっぱなしになっている。
現在使っているできカミソリは、義父が寝たままでも使えるようにと購入したものだった。5年前に他界してしまったので「形見分け」のつもりで使っている。6年ほどしか使っていないのに、充電池がへたばってきた。もうじき取り換えかになるかと思っている。充電池交換をしてみようかと調べてみたら、交換できない機種らしい。替え刃ももう販売していない。
最近はなんでも使い捨てで、値を張るものでもこの状態で実にもったいない。そろそろ次の「立派でないもの」に交換する時期が近付いてきた。岩手山麓から持ち帰りの電気カミソリの出番がやってきそう。これもNETで検索して「替え刃」があるかをみると、在庫はまだあるようだ。こちらは新機種がいくつかでているが、替え刃が共用できる仕様になっていて、手にいれることができた。
へたばってきている現役カミソリは、ちょっと高級(注 私にしては)もので、たまった髭を掃除するのに液体に浸して清浄できる仕掛けがついている。まだその「液」が残っている。液を使い切ってから世代交代ということにしようかと思う。
無呼吸症候群の一泊調査で判定が下り、寝ている間は空気(酸素ではなかった)をマウスから流し込むという装置を使うことになった。酸素の摂り入れが少ないと、血流が悪くなって障害が起きる可能性があるという。血圧も少し高いし、たしかに「もの忘れ」も増えてきたし、だけど年相応のような気もするし、終焉に向かうのはそれぞれ長短の個性があるだろうし…と考えればぐるぐるとおわりがない。
ただ、これが治療という範疇にはなっているのに。無呼吸症候群の肉体的改善になるわけではない。太りすぎの結果とされているので、体重を落とすことをいよいよ目標としなくてはならない。「若い人で、トレーニングによって改善させ、器具を使わないようになった」という事例があると言われたが、聞いたとたん若くはないからな、とすぐに気持ちが反応した。
運動量でという対策も膝痛の状態と折り合いをつけなくてはならない。膝の方は改善しているという気がしているけれども、どれくらいの運動量がいいのかは自分ではなかなか判別がつかない。かといってアスリートのように、トレーナーを頼むわけにもいかないし。日常自宅待機を迫られて、運動量が減っているのがいけない。気分がだんだん滅入ってくる。
こうなったら〈しかたがないから〉旅に出ようか。写真ゼミのオンライン合評会にだすものがなくなってきた。五輪開催突っ走りと、感染拡大のニュースから遠ざかることも健康にいいかも。😁
アスリートの気持ちを第一に考慮するとは、今はさすがに言わなくなった。安心安全の五輪をどうやるかがテーマなんだと、五輪開催をどうしてもと異様にしがみつくことばかりが先行する。ここまでくる横暴さを論じても、足しにもならないが、モリカケ問題を筆頭に、引く継ぐ政権の「行動」からは十分に想像できるし、童話を見ているようにわかりやすい。
アスリートの「みんなに喜ばれる状況で」という正論も、五輪の後のコロナ禍の様子を想像するにつけ、不穏な心持ちでの参加を迫られて「心技一体」が傷を負うことになる。なければないで、スポーツ番組に飛びつくことはない指向だから、そういわれればスポーツからは距離があるのかと顧みて思う。
でも見るだけにしても素晴らしいアスリートの技は見たいと思う。たったその程度の付き合いだけど、アスリートたちの力が全面的に発揮される状態に欠けているときはどんなものなのだろうか。いるべき競技の相手参加者が欠け、感染検査を毎日求められ、行動制限を掛けられる。選手参加者の交流やいくばくかの「楽しみ」もあったものではない。
この年の今回に向けて努力を重ねた練習が無になるのは確かだが、そうであればそれに代わるものを「どうしたらやれるか」という組み立てをする方向にいった方がいい。それが同等に代わるものではないだろう。でも、活かすという方向を目指すことはできる。アスリートには程遠い、圧倒的な見物のみの立場でも、このコロナ禍でどんな被害(「制限」や「犠牲」)を払わざるを得なくなっているかは言うに及ばない。
最近はどこも穏やかさ失われ気味だ。「音の攻撃」がすごいと思うのは年とったせいもある。廃棄物を運ぶ業者が隣接していて、そのトラックの出入りの音が、静かな朝の雰囲気を破る。「騒音」と認定されるほどの音でもないのかもしれないが、直前には鳥の鳴く声も聞こえていて、わずかばかりの自然に浸る幸せを味わっていたのだから、うるさく感じるのは自分だけではないだろう。
通りに出ていけば、車が行き交うのに徐行が必要な幅の道路なのに、ビルまがいのビルやマンションの建設工事、ひっきりなしの道路工事。はては電磁波ケーブルの敷設。賑やかさを通り越して煩わしい。コロナストレスに加えてか、そのせいがあるかもしれない。
ところで、我が家のガス湯沸し器の調子が悪くなって、修理にとどまらず交換することになった。部品を交換すればとりあえずは…という選択もあったが、忘れているうちに使用年数もたっていることが分かった。なにせ新製品が古いものを凌駕する時代設計がされているので、長期に使って持たせるということも、危うい選択にないそう。それで交換ということになり、そういえばガステーブルもねーと一緒に交換することになった。
ところが、神のいたずらかそこにとどまらず、キッチン全体の改修から居間の壁の取り換えまで、戦線が拡大していった。おまけに自室の照明もおかしくなってきて、自力でなんとかしようと、蛍光灯を買ってきて換えてみたものの、「三段切り替え」などといういらない機能が治らない。しかたなくこれもついでに…。で、工事が始まったら、取り壊しに、結構な騒音を近所に振りまくことになった。巣籠需要に我が家も見事に引きずり込まれた一席。
無呼吸症候群は高齢者の特権ということでもないらしいが、いろいろな障害を及ぼすという。子供に言われて医者に相談し、家での簡易検査をしてから一泊入院をして調べてもらった結果は、りっぱな無呼吸症候群らしい。高血圧や不整脈、動脈硬化、狭心症、心筋梗塞、脳卒中などの合併症を引き起こすと物の本に書いてある。
太りすぎが原因だということなのだが、そんな自覚がなかったわけではない。実のところ体重を落とすのはなかなか難しくて、カロリー摂りすぎが原因にもなろうからと、アルコールの量を減らそうと努力はした。ちょうど新型コロナ感染のせいもあり飲む機会は半分以下に減った。残念ながらそれでもなぜか体重減にはつながっていない。
運動量の方は目下膝痛を招くに及んで「挫折」中だし、いささか困ったことになった。膝痛の状態が改善しているのがなによりの希望だ。高齢者の「医者だのみ」は増えるばかりで、義父の終盤には、ご飯代わりのような薬の量を用意されていたのを思い出す。医療費は増えていくばかりなので、懐もじわじわと責められてくる。
医療費2割負担も決められてしまったが、公的負担がもっと可能だと思う。オリンピック施設関連費用は、最初8000億円程度だったものがどれだけ膨らませられたのか。ちょっと乱暴な議論だけど、社会保障に回す金(税金)がないなどとは言えないだろう。
一泊入院検査
ワクチン頼みの新型コロナ対策で、「一日100万回以上」とぶち上げた。9日の午前中は「100万回」は未達成と官房長官が語って、その後未集計が加わって100万を超えたという首相の発言になったという(朝日新聞)。一日100万回を超えた根拠を問われて「どこで100万回というのはわからないが、このところ大体その数字になっている」。こう使われれば100万越えが独り歩きすることを読んでのことだ。デジタル社会を標榜していても、集計をリアルタイムにやっていない。担当者の人数の問題やらシステムやらの状態がおいつかないのだろう。だからといって見込みも含めて先走ることを政治家がやっていいのだろうか?
予防接種が7月に高齢者で完了しても未接種のなかで拡大すれば東京も医療はひっ迫することになると京都大の西浦教授が専門家会議で示した。21日に緊急事態宣言が解除された場合8月中に宣言相当の流行になる可能性があると。高齢者の接種率にかかわらず、7月下旬から8月前半までに宣言が必要なレベルに達するとの予測をした(朝日新聞)。しかもここにインド型の変異種や東京五輪開催の影響は考慮していない。「オリパラは若者の夢」どころの話ではとうていない。
五輪ボランティア7万人の予防接種は「実務的なことを今検討」、「特別な枠(IOCから2万人分)以外にも大規模接種会場を活用できるか検討」している段階とのこと(文部科学委員会畑野議員へ)。いま接種受けたとしても2回目三週間後、そのあと効果出るのが二、三週間かかるとされているのに、ボランティアの健康安全に心もとないよりはないに等しい。
ワクチン接種が切り札といいつつ、11月末までかかることはマユツバなこと。不渡り手形はもういらない。切り札とはほかの手が前段にあることを言うのであって、医療体制、休業への補償、人流対策等効果的な対策を打たずに「30兆円ある」と言われても、安心も安全もあったものではない。
五輪開催のパブリックビューで代々木公園の木が伐採された。ニュースでは36本枝を切ったという。パブリックビューの設置場所建設に移動するトラック通行に邪魔なのだとかが理由になっているらしい。道路拡張やらオリンピック会場の建設やら、途方もない資金と税金をつぎ込んだうえ、貴重な「自然資源」まで破壊するとは、どれだけの五輪なのだろう。
代々木会場はワクチン接種場所として使うと変更されたが、接種後は復活を狙うらしい。パブリックビュー会場は全国に227か所あるとのこと。どうしてもと突っ走っているだけの動機は、「経済効果」でありその追求に目が曇っているのだろう。無理に進めることでまたアスリートとの分断もすすんで、オリンピアの精神がほとんどだいなしになる。
「ぼったくり男爵」には驚いたが、同時に痛快さを感じた。それなら「突っ込め」と号令する日本は「手配師」ということ。別に言えば「興行師」かな。祭りを仕切るテキ屋のほうが近いか。来訪する国の選手も体調のコントロールが大変だろうし、コンマ一秒の競技に影響がでるだろう。来られない選手も出ている。五輪代表が定める相手がそろわないオリンピックになってしまうのか。メダル獲得主義を旨とする日本の場合、「強豪不在」でよしとする結果を容認させることになるのか。もう公正なスポーツ競技にはならない。
なによりコロナの感染拡大阻止は愁眉のこと。オリンピック開催の行程で感染が拡大するとの専門家の声も大きくなってきた。世論は大事にしないとどうなるか、都議会選挙も衆議院選挙もきっちりと結果をだしたいもの。
~ニュースで言われている「アスリート、チーム役員公式プレイブック」をのぞいてみた。選手と来訪者のワクチン接種は、お願いに留まっている。
「アスリート、チーム役員公式プレイブック」 ワクチン接種
ワクチン接種は感染対策に対して利用可能な1つの手段で、適切なタイミングと方法で行われます。IOCとIPCは、各国で定められたワクチンの優先接種を強く支持しています。より多くの人々へワクチンが供給可能な環境となれば、IOCはオリンピックチームとパラリンピックチーム、そして大会に参加するすべてのステークホルダーにワクチン接種を呼びかけます。したがってIOCは各国・地域のNOCと連携し、アスリート、役員、およびステークホルダーが日本入国前に自国・地域のワクチン接種ガイドラインに従って自国・地域でワクチン接種を受けることを推奨および支援します。これは大会の安全な環境に寄与するだけでなく、日本の人々への敬意の気持ちから行われるものと考えています。既に多くの国の政府が、各国のNOCとNPCと協議し、大会参加者へのワクチン接種に関して前向きに取り組んでいる。
注意:
IOCは各国・地域のワクチン接種ガイドラインに沿ってワクチン接種を受けることを推奨しますが、大会参加に際しワクチン接種は義務ではありません。ワクチンを接種したか否かに関わらず、本プレイブックに記載されているすべての規則が適用されます。
フローリングの家で重宝している雪駄は、裏がゴム状になっていて階段の上り下りで、スリッパより安全で重宝している。これが夏冬で「衣替え」になる。冬の間は畳状の表になっているものを使う。薄い先割れ靴下をはくと冷たくなくてよい。夏はビニール(ポリエステルかな)状の表になっているものを使う。
旅に出たとき、たまにお土産屋に置いてあることがあるので買っておくのに、旅が減ったせいもあって、なくなってしまったので、少し先にある寂れた商店街で頑張っている下駄屋さんに買いに行くことにした。
しばらく前は1000円でおつりがくるくらいの値段だったが、最近は1200円くらいになっている。お土産屋でも同じような値段だ。商店街の下駄屋さんは商売上手で、なるべく値段の張るものを勧める。今回も裏ゴムのものがなくて、どうしようかと思っていたら、柔らかなブラスチック状の底の雪駄を勧めた。仕方なく買うことにしたものの2000円もした。
家で履くと底が固い分だけバタバタと音が出る。膝痛で妙な歩き方をするから余計だ。まだ家族から非難の言葉はないからいいが、うるさいと言われたら下駄屋さんのせいにしなくてはならない。こっちだって2000円もかけた痛い買い物をしたんだ。でも下駄屋のおばあさん、帰り際に雨がぱらついてきたら、ビニール傘を差しだして「返さないでいいよ」という。この傘の分を差し引くといくらか安くなったのかと、つまらない計算をした。
天上天下唯我独尊
=この世で、自分ほど偉いものはいないとうぬぼれること。釈迦しゃかが生まれたときに七歩歩き、一方で天を指し、他方で地を指して唱えたという言葉と伝えられる。この世の中で自分より尊いものはいないという意味。▽「天上天下てんげ唯我独尊」の略。「唯我」はただ自分のみということ。「独尊」は自分ひとりが他の一切のものよりすぐれて尊いということ=
釈迦についてどう考えるかをさておいて、独尊の「尊」は近寄りがたい崇高さと理解すると、端的に「一人尊い」となる。これが「尊」でなく「裁」となると「独裁」。こちらの方は現代進行形の言葉として、民主主義を求める海外での運動では、かのマスコミでも好んで(?)使われている。今の日本でも受け入れられそうに思うけど、やっぱり遠慮や忖度があるのだろう。
しかし、そんな政府の態様は十分あると思うのに、受け入れられないと思っているのだろうか。五輪開催になにがなんでも突っ込むという現下、中止にしない「ぼったくり男爵」と痛快な批判を浴びせられても、「どうやってやるか」ということからブレない「日本の手配師」たちの行動は、戦前に似た国家総動員体制が敷かれているようにも見える。
学校教育でオリパラを使った教育を入れ込み、小学生をオリンピックに動員して???アメリカはついに「日本に行くな」と旅行制限をかけた。もう、終わりの終わりではないのか。独裁と言われようと言われまいと、今のうちに幕引きができるかどうか。前回の東京オリンピックの時も、財政赤字を積み上げたこと忘れているのか。経済利益優先を目標とするオリンピック、「スポーツの品格」をこれ以上貶めることはない。
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7日前発熱37.6℃
6日前解熱 元気
5日前仕事に行く
4日前友達とバーベキュー
3日前下痢
2日前のどかいがいが熱なし
1日前熱37度で受診➕PCR
本日コロナです。
よく聞くとそういえば味もあんまししません。翌日解熱し無症状でした、という経過がざらです。これがコロナの経過です。
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テレビに出演している栃木の倉持先生のツイッターを、説明抜きで子供に送った。気をつけろという意味合いでのことだった。よく読めばわかるところ「かかったのか?」と折り返してLINEが届いた。読み返すと他人だとわかるところは「よく聞くと」とのフレーズしかない。「丁寧な説明」の欠けたらしい。
今日は一回目のワクチン接種を受けに行くことになっている。ワクチンの安全性についての情報はほとんどないが、(政府の説明はほとんどない。安全性については周知するはいずじゃあないのか)報道されたものでは「死亡者39人」で、ほとんどが「情報不足等によりワクチンと症状名との因果関係が評価できないもの」、残りは「評価中」とのこと。
「第 58 回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会副反応 検討部会―」資料
(アクセスして「リダイレクト」をクリックすると表示)
ーこんな報道もあった。
厚生労働省の専門家部会の委員で、埼玉県立小児医療センターの岡明病院長は、接種後の死亡について「高齢者の死亡は一定の確率で起きるので、どのように評価して伝えていくかは非常にデリケートな問題だ」としたうえで「具合が悪いときに接種を受けると、状態が悪化するリスクなどがある。接種を焦らず、体調を優先して延期することなども検討してほしい」と述べました。
ーと、これも自己責任か。
心痛む知らせがあった。24日から開催する予定だったメンバーの方が亡くなった。写真展のときに配布するパンフレットを編集していたのが先週だった。入稿前の点検時の最後にメールがあって、撮影した写真との関わりをキャプションで表すところ、より推敲された言葉で変更すると連絡があった。
三日後のゼミのオンラインで、声が少し掠れていたので気がかりだったが、今日になって急な知らせを聞くことになった。作品のパンフレットを作る役割だったので、作った「初校」についてその「是非と修正」連絡を乞うメールを打ち連絡を待っていた。もうちょっと早くどうなのとは率直なところ思っていたことだった。(いろんな場合でそんなことがあり己もそうだけど)
でもそればかりと断ずることはできないことだと、今回は反省させられた。写真展は中止をすると相談の結果で決断はしたけれども、「心残り」の部分がより大きくなった。会場OKの開催可能な条件があったのに、という思いを全部否定することが難しい。比べたくもないが五輪の場合が「どうやったらできるか」の物差しなのだから容易いが、それは危ういという以外ない。そんな判断にゆだねるほどの生易しい状況ではないと思えるので、やむを得ないことかとまたグルグルめぐりになる。
今月5月24日からの写真展開催についてオンラインで意見を出し合った。会場は使えることになっていたものの、昨年の写真展中止の際よりも変異株の感染状況が悪化などがあり、東京へ出てくるのは控えるなどの声が伝えられていることなど、全員一様に開催希望を望みながらも、中止を決断するという結論になった。
2年続けて中止ということで、準備を進めてきたことが水の泡になるというのは残念でショックが大きい。それにつけても、新型コロナの感染検査を異常にしぶり、十分な補償もなかなか応じないでいながら、感染拡大をまねていていることは、政府の怠慢だと余計にむかっ腹が立つ。後手後手で言い訳ばかりして、それこそ感染拡大防止の「結果を出さず」に五輪だけはしっかりとやる意思を押し通すとは、政府の対応として許されない。来年は写真展ができるような「しっかりとした政府」ができているといいけど。
「連休後半は…」と書き始めて、連休も何もないことを思い出した。長い間の癖がいまだ抜けない習慣。毎日が休みで、日々の変化は「今日は何のゴミだったかな」と頭を回転させることで、生きている実感も味わう。なにかやることがあることはいいことだと実際思う。ただ、置き場にもっていくだけのことがこんなに貴重だったとは思わなかった。で、世間の連休だった後半は、パソコンに遊んでもらったあと、「充実の日々」が続いた。
写真展を今月24日からやることになっていたので、今の緊急事態宣言下で実施するかどうかの瀬戸際を迎えながら、展示会用のパンフレットの作製をする作業に取り組んだ。昨年やったことだし、己の危うさを自覚して手法を記録しておいたから、そう困難もなくその仕事を終えた。後、校正作業をオンラインとメールで連絡を取り合って完成までたどりついた。
だいたい集中してものごとを運ぶのは、正直厄介さも伴うので出来上がって正直ほっとした。パソコンも自己流でずっとやってき、結構分かったような気分もありながら、本格的な編集に当たったのはこの仕事が初めてだった。いちいちソフトの動かし方の有りように感心しながら、ずいぶんと勉強になった。
パンフレットはここまできて準備はできたものの、開催するかどうかの判断を迫られることになる。会場の芸術劇場は昨年と違って、貸し出すということなのだそうで、判断はこちらにゆだねられることになった。
写真は郵送までいくかどうかの案内ハガキ
連休と言ってもずっと連休の日々だけど、その上にオタク暮らしが強要されて、たっぷりある暇でノートパソコンの設定を変えようと思った。パソコンの電源を入れるとWindowsのサインインでパスワードを入れることになっている。そのパスワードが長めなので、方法を変えてPINコードで短い文字を入力して、立ちあげるようにしてあった。パソコンは自宅以外で使うことはまずないので、セキュリティーの問題はまず心配ないが、半ば仕方なくやっているつもりだった。
ただ、万々一熱が出て不幸にしてこの世との別れになる場合がないとは限らない。そのとき家族がパソコンを立ち上げて後始末をするなんてことがあるかな?と軽く思う。人に言えるような財産はないが、残したいことのいくつかはある。エンディングノートのファイルがパソコンに置いてある。(実はまだ書いてはいない。結構面倒なので時間がかかりそう。)エンディングノートはパソコンの中でなくともいいが、どこに置くのかがまた問題だ。断捨離候補が部屋のなかにちらばっているのに、みつけられるのだろうか心配だ。
してみると「パソコン見て」という伝言だけ残せばなんとかなるかな?前置きは長くなるけど、だからノートパソコンの立ち上げは、なにをしなくとも使える状態がいいのかなと思った次第。
で、設定を変えようと始めた結果が悪かった。失敗してどうやってもWindowsに入り込めなくなってしまった。そういうときはやりようがあるのだと、あとで教えてもらったのだけれど後の祭り。結局「再インストール」してみることになった。保存中のファイルはクラウド上にほとんどが置いてあるので、パソコンのなかにはたいしたものはなくて幸いだった。写真は再インストールして初期状態になったので、3年前からのWindowsがアップデートした更新ファイルを、ようやくし終えたところ。