2013年1月22日火曜日

命がけは誰のためか

 日揮はエンジニアリング界では、トップに立つ企業だ。東洋エンジニアリング、千代田化工建設の御三家の中で、純利益・受注高がダントツだとされている。(ウィキペディア)医療、薬品、食品、原子力などの分野で活動している。

 アルジェリアは、1991年にイスラム主義政党が選挙で圧勝したことがあり、この直後のクーデターで、非常事態宣言が発令されたまま19年も解除されなかった。イスラム原理主義との内戦では10万人以上の犠牲者が出ている。

 日本のエネルギー確保のために、こうした状況下のところへ「エネルギー確保」に日揮が乗り出していたわけだ。いつ起きてもおかしくないことが起きた。人質の救出作戦は、日本におけるそれとは考え方が相当違う。可とするわけではないが、「人質を安全に開放する」という生易しい救出方法とは、背景の違いがある。

 事件が起こっても、情報すらわからぬところへ行くことに、違和感が湧く。「お国のために命がけ」なのか、余程の利益が存在するのか。「企業人」なら会社のために危険なところへ行くのは当たり前なのだろうか。

 日本の軍備を強化する動きが次々と出てくるが、紛争の解決が軍事行動によるものでないということも、ことの本質として見ておきたい。「武力行使でなく、人質の安全ない解放優先」を要請したこととのかい離が存在すると思う。


2013年1月20日日曜日

デジタル怖い

 居間のテレビは、録画ができるようになっている。管理運営権を持っている妻が、録画のHDDがもう一杯になるというので、息子が外付けのHDDを購入してきた。しかし、レコーダーが別にないと動かいないということがわかって、せっかく買ったものを返却することになった。

 ところが従兄弟にその話をしたらしく、義父の見舞いに来た折に、同じものを購入してきてくれた。せっかくだからこの機会に、レコーダーを購入することにしたら、そのレコーダーも調べてくれて連絡をくれた。VHSのダビングもしたいということで、その機器もネットで探して買い込んだ。

 この手のデジタル機器はなんといっても、できれば触りたくないので、面倒くさいだろうなと思いつつ流れにのっていた。VHSレコーダーは業者がセットをしてくれたからよかったが、片方は自力でアンテナコードから映像、音声コードを繋がなくてはならない。 
 二つの機器がどこかでバッティングするのではないかと心配だったが、マニュアルを読んで、いやがる頭を使いながらなんとかやってみた。

 結局アンテナコードが一本足りないことが分かった。息子が持っているとのことで、翌日もらってセットしてみた。外付けのHDDも認識したので大丈夫だったようだ。繋いでみればそんなに難しいことではないんだとわかったものの、集中してあれこれ考えたら少々疲れた。

 最初購入するときに、今の状況が想定できれば、無理をしても買っただろうと思うが、デジタルと聞いただけで、アレルギーが起きそうで考えが及ばなかった。でも、そんなに録画をとって何回もみる見るものなんだろうか。使わないものでもため込むのは、録画に限らないが、ちょっと余計な心配。

2013年1月19日土曜日

教育委員会の役割を論じるべき

 橋下市長が人件費を止めるとか、入試を止めろとか発言して、「体罰、暴力を許さない態度を」表明している。教育委員会が本来果たすべき事柄を十分な対応がされているように見えないから、その市長の対応の是非が論じられている。教育委員会は第三者機関として、首長の政治的、恣意的な影響を遮断する機関として位置づけられている。

 文部科学省の「教育委員会制度について」では、教育委員会制度の特性のひとつに「首長からの独立」をうたっている。「行政委員会の一つとして、独立した機関を置き、教育行政を担当させることにより、首長への権限の集中を防止し、中立的・専門的な行政運営を担保」することを言い、「教育行政の執行に当たっても、個人的な価値判断や特定の党派的影響力から中立性を確保することが必要」としている。

 教育委員会の頭越しに首長の権限を振りまわすのは、この制度をなくそうという財界の意向の実践だろう。教育委員会がこの見地でしっかり対応してもらうことが求められると思うが、マスコミの取り上げ方は。この点を論じていないように思う。市長のやることをその露出部分だけで取り上げることは、「策」に乗る扱いとなるのではないか。

 彼の市長さん、ころころ態度を変えることは知られているが、一部のタレントを持ち上げるような扱いと同様と言うのはいかがなものかと思う。

文部科学省→ 教育委員会制度について




2013年1月18日金曜日

「安全だろう」は安全とは違う


 B787の安全点検のため、運航を停止しろとようやく国が言った。それもアメリカと軌を一にして。まったく金魚の糞とはこのことだ。日本のやることはアメリカを見ていればわかると、外国に揶揄されるのも仕方がない。御巣鷹山にボーイング747が墜落した時は、イギリスは同一機の運航を止めて点検をやらせたのに、日本は平気で運航を認めていた。

 事業者に甘いのはこれに限ったことではないが、国民の安全な交通に責任をもたないという、とんでもないことだと当時思った。テレビのコメンテーター(元航空関係者)の話を聞いて、少しばかり変な感じを受けた。「コンピューターを駆使して軽量化をはかり、燃費を向上させたすぐれたものだから、これから不具合を調整して使っていけばいい」と、おおざっぱだがこんな発言だ。

 車の場合も、安全性はいわば理論的なものが、判断のひとつの根拠になっている。一台ずつ走ってみて大丈夫ということではない。一台ずつ試験というのは現実的でないかもしれないが、携帯電話によらずスマホによらず、製品を送り出してから不具合を修正していくという思想があるのだろう。車の場合、先日のアメリカでのトヨタ車リコールのように、何台か不具合による事故で、人が傷ついた場合でも相当先になってから直しにかかる。

 大丈夫絶対安全ですよと、事前に言っても言わなくても起きていることだから、理論上でも相当の微細なツメがいることなのだろうと思う。比較することではないが、航空機は車の数十倍も乗客がいる。絶対安全のほんの一部でも欠けても許されないことだ。

 これだけ不具合が続けて起きて、事業者が当面運航中止とした後、国が動き出すという感覚は信じられない。航空機の部品35%を日本の企業が造っているとのことだが、その企業たるや非正規上業者を都合よく使って、どれだけの利益を生じさせるかと粉骨砕身努力しているわけだから、技術の良さすなわち製品の良さとはいかない危険性は大いにある。


2013年1月16日水曜日

刺激が強い東京


 古いプリンターのインクが余っているので、依然通っていた現代写真研究所に連絡したら、使っているとの返事だったので、ウォーキングがてら四谷三丁目まで行って届けた。研究所の様子も当時とは違って、デジタルにもスタンスがおかれて、パソコンが相当台数設置されていた。デジタル講習会が近々始まるのでどうかと誘われたが、以前は本科の受講者が対象だったものを、対象を広げて本科経験者ならよいとのことだ。

 前からこの講習会にでてみたいと思っていたので、やってみようかと気持ちが動いた。月2回ならなんとかなりそうだ。自分の撮ったデジタル写真を、手持ちのソフトを動かしてやってはいるが、もうひとつ使いこなせない。自分で研究する時間がなかなか持てないとなると、短期間の講習会がいいかもしれない。

 実際の光の具合に合わせて撮ったつもりでも、見た印象と違うことはある。それを「修正」するか、少し手を加えたらもっと強調されて、よくなることをねらう。デジタル時代の前から現物を直すことはあった。現在はいろいろ変化をつけて全く自由に修飾可能だから、「これが写真?」と思うこともある。どこが境目だかは専門家に任せるとして、対象に何かを感じて撮ったものを、少しだけ強調するのはいいのではないかと思っている。

 誰が見てもいい写真はとても難しい。自分で撮ったものを、多少物知り顔にこれはいいと思ったりしても、他者の反応や感想が返ってこないのでは、良いも悪いもない。文句なくいいものは、自分の見る目を鍛えないとわかるようにならない。思い入ればかりにとどまっていないで、次のステップへ踏み出すのは、新しい刺激がないとダメなのだろう。

 しかし、岩手山麓では、マイナス十数度の世界以外はとりたてて、刺激はないが、東京は刺激が多すぎる。帰ってきている間に次々と用事が現れる。用事と言っても、自分がかかわってきていることだから文句も言えない。そのうえ、今日はデジタルカメラ基礎講座の話まで聞いてしまって、やることになりそうだ。知らなければそれはそれで済んだものを。

今日の一枚 閉塞感



2013年1月15日火曜日

雪騒乱

 昨日のあのくらいの大雪なると、東京という都市は機能がマヒする。ニュースを見ていると、まるで震災がおきたのかと思うほど。便利に見えるものがこんなにも、使用不能になるのかと思うと都市生活のリスクを考えさせられる。なるべく表に出ないようにしたり、必要なことも急がないように気を使ったりする。

 義母が明日医者へ行くのにタクシー予約をしようとしたが、電話は一向に通じない。天気予報は晴れだし、予約診療だから変えるわけにもいかない。お隣さんがスコップを借りに来て、家の前の共有私道を掻き始めた。後から出て行って一緒に雪かきをしたが、普段使わなくなった筋肉を使って懸命にやったら、すぐに息が切れた。

 ニュースを見ていたら、新成人の子が振袖で、長靴をはいて歩いていたのを写していた。シャッターチャンスだななどと、不謹慎なことを思った。たしかにご本人はえらい思いで歩いているのだろうとは思うが、そんな「人が傷つかないで、楽しい光景」はめったにない。その子は、一生の間に何回も「あのときは、長靴履いてさー」と話せることになっただろう。面白い話題をもっていられるのは得のひとつでは?などと。家の年寄りと話す機会が増えると、そんなことが頭に浮かんでくる。

 しかし目の前にそんな光景があっても、実際に撮るのははばかられるだろう。知り合いや身内ならいいが。
 「人を傷つけない、楽しい光景」は他にもある。

おーい、そっちじゃねーぞー



2013年1月14日月曜日

暴力、体罰は否定されるべきもの


 体罰が問題になっている。連日の報道で、体罰を使った教師が非難されている。暴力を使うことはいけないことだというのは、当たり前のことだ。でも、これには、反論があるのも事実だ。暴力を用いて指導することが教育上許されることだという肯定論がある。特にスポーツ界で有力な指導方法として通用してきた。企業や事業所内でもこういうことがあると、よく聞く。

 日常の社会で大手を奮っている部分を黙認するか否定できない状況に置いてきたという原因がある。戦争と言う最大の暴力を否定してきたはずなのに、軍隊で通用するような「教育方法」をいまだに肯定している現代の闇の部分かもしれない。

 人をいたぶって優越感や喜びを感じるなどは、下の下だと思いつつ、さてこの部分を完全に抑え込むことができるのか。国防軍などというものができて、日常生活の中に入り込んで来たら、国同士の紛争にならなかったとしても、暴力の評価は格上げとなる。争いの解決に暴力を使うという馬鹿げた昔の世の中に逆戻りだ。

 暴力をつかった「説得」は高じていく以外にない。納得できないことをむりやりやらせるわけだから、「納得」するまで力を使うことになる。やられた方は重大な傷を負う。やった方の人格も損傷していく。しかし、成果が上がるうちは外に出てこない。自殺がなかったとしたら…。桑田真澄さんのように、シッカリと否定できるという社会を、作っていくことは大変だろうが、人がもっている(だろう)狂気を封じ込めるための努力は大切だと思う。

2013年1月13日日曜日

トイレ考

 昨日も牛乳を飲んだせいか、ワインをたっぷり飲んだ成果か、腹の中が空になったかと思うような具合になった。排便とはいろいろなことが影響しているみたいだ。基本はきちんと食べることなのだろうが、ストレスや睡眠状況などの影響を受けているように思う。

 面白いと思うのは、生活のサイクルやパターンで一様でないこと。キチンと食べ睡眠をよくとれていても、トイレの寒さが嫌だななどと思うと、すっきりいかないこともある。若いころ、田舎の親戚の家で山菜づくしの料理が美味しくて、酒を飲みながらよく食べた。ところが翌朝は便秘がおきたのだった。繊維ばっかりなのになぜ便秘が起きたのか不思議だったが、多すぎたのは「及ばざるがごとし」だったのだろうと、その後ずっと思っている。

 定期的に用便をするようにするのも大事なことらしい。しかし、加齢してくるとなおさら腸の働きがゆっくりしてしまうのだろうか、食事の量も減ってくるから、なかなかスムーズにということが少なってくる。道で犬に用便をさせるために、人がよく散歩している。それを見ると、犬のためだけではないだろうなと、いつも思う。

 人の場合も、用がなかったとしても散歩には出て、脳と腸が刺激を受けるようにしてやった方が効果的なのだと思う。酒を飲んでよくでる場合あり、ヨーグルトで効く場合もあり、牛乳でもスッキリ行くときがある。しかし、同じものばかりでもダメなようだ。ここが人間の身体機能の微妙なところなのだろう。今は、出ないことを、ことさら心配するより、そのうち出てくると、たかをくくるようにしている。しかしこの場合は所構わず催しがはじまる。これが厄介だ。

2013年1月12日土曜日

普通の一日

 @ビリングとWebビリングの申し込みをした。一週間後にハガキをおくるとのこと。NTT東日本の引き落とし額が7105円と相当高いので照会しようとおもったら、この申込みに行き着いた。結構な時間がかかって、もう3時になってしまった。こちらの責任で全部やって、ようやく情報が手に入るとは面倒なものだ。しかし、パソコンにだんだん慣れてくるとペーパーより、便利には思える。それでいいのかどうかはわからないが。

 ひと区切りついたところで、ウォーキングに出かける。午前中に銀行まであるいていたので合算して7300歩。このごろ膝の関節が痛むので、軽めにしたつもりだった。最近のウォーキングはコンスタントにやらないので、膝に負担が出てくるのかもしれない。

 今日は中5日おいた晩酌。去年のスペインのワインを開けようと思ったら、栓が固着して開かない。いよいよ力が出なくなってきたかと、何回も挑戦したが駄目だった。お湯につけてからあけたらどうかというので、やってみたらうまくいった。その間、別の方を開けてしまったので、二本を一度に「消化」することになったが、家ではそれはさすがに無理。一本だけに留めて、あす以降の楽しみにした。

2013年1月11日金曜日

高齢化社会まっただ中

 昨日は中野労釣の常会。常会とは古い言葉だが、言葉のイメージは「寄り合い」みたいな、会議というものより柔らかさを感じていい。96歳の会長が、いつも出てくれて、相談にのってくれる。とはいっても、耳がだいぶ遠くなったから補聴器を利用していても、意思の疎通はなかなか苦労がいる。主要な結論はメモを書き込んで、了解を求める。長い間の会長職であり、こうした活動の熟達者なので、言葉が直接つうじなくても大概のことは意志が通じる。

 家の義母の場合も耳が遠くなっているが、少し大きい声なら聞こえるからよい。それを忘れてしまうことがよくあるから、そのときは言い直すハメになる。聞こえなくとも聞こえるふりをするときもあるから、話す方が気を遣わなくてはならない。でも話が通じている時は、生き生きとして見える。

 岩手山麓の親父の場合は、不幸にして言葉のやり取りが少なくて、というより話が通じる話題が少なくて、口数が減ってしまう。聞こえないとなると、なにかすこし面倒なことを、やり取りするのが大変だから、ついさけたりしてしまう。見得もあるからこちらには本音を言わなかったりすることもあるようだ。電話にでるときは、キチンと補聴器を使っているらしく、やりとりはちゃんとしている。それなら…と思うこともある。いずれ自分もそうなっていくと思いつつ、「高齢化社会」の構成員として毎日を、仲良く暮らす生活を送ることになる。

2013年1月9日水曜日

無為に過ごすものが見透かされる


 写真は穏やかだったり、美しいものだったりするものが、世上は受ける。穏やかな海に月が…というと打ってつけの写真風情が頭に浮かぶ。これが、荒々しい波頭を捉えるものでも絵になる。でもここに感動を写りこませるとなると、風光明媚や綺麗さだけでは薄いのではないかと不遜ながら思う。というよりその美的な感動を表現するほどの腕前でないという方が正確かもしれない。

 何枚も撮っていればなかには「数撃ちゃあたる」場合もある。今はデジタルカメラなので、数撃つ場合が利点には違いないが、チャンスをものにするものが偶然だけでは、良い写真を撮るためには足りない。感動とは何か、見せるためにあるのか、皆が感動できるものはどんなところなのか、どうしたら感動を見つけられるのか。…悶々として繰り返す。

 いや自分が感動するかどうかが、一番大きなポイントなのだろうと、うっすら思い始めた。しかしだからと言って、簡単に撮れるようになったわけではない。第一、物事に感動するためには、受け止められる五感が研ぎすまされていなくてはならないから。研ぎ澄ますためには人が感動したにちがいない写真を見ることも、欠かせないことになる。

 この写真はFacebookに投稿されたもの。見ていると目を背けたくなるようなもの。しかし、この写真が福島の猫となると、福島の現状を体現する猫ということになる。日本人なら、決して砂漠で迷ったネコとはみないだろう。口先だけの「同情」や、「よりそい」を見透かされる思いもする。


2013年1月8日火曜日

言いたいことをいうのは大変


 打てば響くような会話と、言い表したいことを文にするのとではだいぶ違う。だいぶ違うというよりも全く違うものといったほうがいいのか。会話は会話でとても難しい。いもどきよく言う「ジコチュウ」も自分の話を聞いてもらいたいということで、合わせて相槌をうつと取り留めなく流れてくる話もある。

 ただのダベリングで延々とつづく打ち合う話をしているのも見るが、結論は「だから私はこうなんだ」というセンテンスが3回もでてきて、その話は終わる。なにかの会議ではないから、「…の報告です」と言って終了するのとは違うわけだから、ちっぽけな話題でもそのやり取りの過程が、当人同士にとっては大切な交流で、心を満たすことになっているのだろう。

 言いたいことを文で書く方も楽ではない。一番怖いと思うのは、自分で分かっていても、的確に表現できないこと。これはよくある。だから、何回も推敲するのが一番の対策だ。他人に読んで確かめてもらうのが一番いいのだろうが、そんな時間の余裕のある人は、まずいないだろう。書くことを仕事にしている人か、目的のグループとかくらいなもの。他人に指摘される機会がれば幸いだ。何回推敲しても、自分の限界もあることだから、よっぽどの幸運に合わないかぎり、いいものに到達することはできない。素人はそれでもいいじゃないかと自分で慰めることにして、また次の作業に取り掛かる。

2013年1月7日月曜日

東京に人と金がこれ以上集まってどうなる

 将来、東京は2倍で地方の6割は人口半数以下になると、国土交通省がみているのだとか。東京にそんなキャパシティがあるのかどうかわからないが、作り上げるとしたら、駅のホームにいくら防護壁を作っても押されて破壊するような状態になるのではないか。

 高層ビルと事業所がいやというほど増え、マンションが林立して、コンビニが幅を利かせ商店街は小売店が壊滅。住宅街は生活の場として魅力のないところとして切り捨てられる。自然をもとめてまでとはいわなくとも、都会生活を止めて田舎暮らしを選択する人も少しずつ増えている。

 地方のコミュニティさえ、現状で消えそうなのに、まだひどくなるとすれば、地方は無くなるということ。人が生活の場をなくしてしまったら、次代への継続はない。こんな予測は日本が目指してきた結果ということになっている。

 それならどうするのかということをまともに考えるべきところ。「国土強靭化計画で200兆円」とかの投資が、選挙後の私たちの選択にさせられた。ダムや堤防、新幹線に高速道路などにお金を印刷して、ばらまく。拾うのは建設業界と銀行。

 人が少なくなる所への電気供給?水道供給?治水?役立たない堤防?物流以外は必要度が少ない高速道路?観光以外にさして役立たない新幹線増設?国土交通省の予測の内容に、どれだけの対策になるのかまったく見えない。


2013年1月6日日曜日

雪かきのあとは春がくる

 朝方の陽射しが、林の中の方をごく薄い黄色に染めているように見えた。朝やけの現象かとおもったが、東の方の空はそんな感じでもない。朝食のときには、昨夜またひとわたり積もった雪をかき出しに、除雪車がやってきた。きょうの人は先日の人とは違うようだ。車も赤の色がイカピカに光っている新しいものだ。見ただけでなにか頼りがいを感じる。除雪車登場より、わずかに早く出てしまったお隣さんの車は、雪かき前の道を揺れながら、慎重に走って行った。
 
 ここは、国道から200メートルほどの位置にあるが、林を切り開いて宅地造成したところだから、山間の雰囲気が強く残っている。車で「下界」に降りていくとき、随分と積もったと思いながら、徐行していくと、国道に突き当たる。不思議なことに国道からは、別世界が開ける。雪があれっと思うほどなくなる。秋田から青森方面に抜ける道になっているせいか、交通量が多いので炭酸ガスの熱のおかげなのだろうか。それより下は牧場が広がる地域で、風が渡りやすくて雪が飛ばされてしまうという事情もあるようだ。

 森や林が雪を受け止めて、夏の少し前まで太陽の熱をもらいながら、徐々に溶けだす。細く流れ出した水が、近くの田の脇のホソに入っていくころに、慌てたカエルが冬眠から覚めて飛び出す。時によっては4月ころに、最後の雪が降って、飛び出してしまったカエルの立場をなくしてしまう。

 無事に田植えが済むころになると、オタマジャクシが場所を問わず、ゴシャゴシャと蠢くのが見える。今日あたりの陽射しは、力強さを感じさせる。春はじきにやってくるだろう。

2013年1月5日土曜日

デジタル社会との面倒な付き合い


 オンラインストレージを使って、ファイルをNET上に保存させておくと、NET環境があればどこからでもファイルを見ることができる。これはファイルを普通の使い方の使い方=多くない容量、であれば無料で利用(5G程度)できるものがいくつかある。(25Gというのもある)。デジタル写真の画像を保存しておけば、ブログやホームページにも転載できるし、離れたところへ移動する身には便利だ。

 ファイルとしては大きいものなので、保存する場合の時間を要するのが難点ではある。岩手山麓で撮った画像をこのストレージに載せようとする(アップする)と、容量がテキストファイルなどとは違って大きいものだから、NET上に保存されるまでいやというほど時間がかかる。

 これでも以前とは格段に、転送能力もあがっている。メモリーが大きくなっているのだから、技術的にはまだまだ先があるということだろう。写真のファイルをパソコンの指定個所(フォルダー)に転送して一端保存する。その指定個所からNET上の保存場所へ転送(同期)させるが、始めると「シコシコ」と動き始めて、「今はこのファイル(写真ファイルのNo)を同期している」とコメントが出る。


 延々と数時間もかかるから、パソコンを放っておいて別のことを始めるか、やらせておいてブログのネタをかきこんだり、Facebookを参照して「交流」をしたりする。一定時間たつと突然、「同期が一時的にできなくなった」とコメントが出て、以降ずっとこういうコメントが続く。このときはパソコンを一度おとして、立ち上げるとまた「シコシコ」と働き始める。何回かこうしたことが続く。「働き過ぎて疲れた」とパソコンが訴えているようで、なんだか可愛い。


2013年1月4日金曜日

「自然回帰」で魚が増える


 クロマグロの6割が養殖をしたものを利用していると、ニュースで報道していた。水産技術センターなどが懸命の努力をして、栽培漁業を研究して海の活性化を図るが、しかしそれも限りがある。昆布や貝類ももはや自生できる状況がない…近海で獲れる魚は減っていくばかりだと漁業者は嘆く。獲り過ぎていなくなったということよりは、自然の本来持っている生産能力が減退しているという事情の方が主要な原因だ。現在はその上、魚群探知機や性能のよい船が使われて、少なくなった「資源」を競い合って獲ることになる。これでいいはずはないのだが、政治の関与まで含めて、期待をもつ状況にない。

ところで、
コイ、フナは、弥生時代に人間との共生が始まったようだ。漁労は古墳時代にはすでにやっていたようだが、漁労の道具だった土錘が、弥生時代にはあまりでてこないらしい。弥生時代には、低湿地に水田を切り開いて水稲が発達した。その農耕生活で、雨が降り、田から濁った水が流れ出たとき、産卵行動に入るコイ、フナを見た。=弥生人は大喜びしただろうと想像する…

HP

 田を耕す道具も、さしたるものでなかったから、川で濁り水を待っていた魚が、容易に田まで遡上できる構造だったのだろう。排水路を遮断して魚を集めるワナをしかければ、農耕の合間に取り込めばいい。であれば、弥生時代に近江から土錘があまり出ないという事情もうなずけることだ。

 コイやフナが上等な蛋白源であった過去を、今に持ち込むのは無理だろうが、自然にダメージを与えるようなことは、その頃はやっていなかった。自然を畏れ敬って、結果的に「大事」に付き合っていた。共生などという口はばったいことは言わずに。
 この田んぼの自然回帰のために「水田魚道」を施設するという取り組みが、広められている。川から水田までの比較的簡易な魚道を造って、魚類を登らせようという狙いだ。

 宮城県の伊豆沼や愛知県などで熱心にすすめられている。まさに、「弥生時代に遡ろう」ということだ。これが普及していけば、
田園にドジョウ、タニシ、ナマズ、コイなどの生き物が復活し、鳥も食餌に訪れて養分を補てんして、土を肥やす。コメもおいしいものが収穫できるだろう。
 与田浦周辺(千葉、茨木県)のフナつりには、この環境が起死回生の一打になるような気がするけども…。

愛知県HP 










2013年1月3日木曜日

仙人の生活

 昨日は一日降り続いて、外の出ることも止めた。共同で頼んでいる除雪車が今季初の出陣。手慣れた様子で、さっさと道路の雪を脇に寄せていった。雪は軽い小さな粒から、いつも見るような積もる雪に変わって、積もり始めた。ドウダンツツジの雪囲い-というより「枝縛り」が功を奏することになってきた。

 縄で縛るときには、枝が折れるのではないかと、手加減を考えた。でもそんな心配はいらしい。なるほど今みていると、細かな枝の束に上にしっかりと雪が被って、だんだん重そうになっていく。
 
 積もった雪は時折豪快な音を立てて、屋根から滑り落ちる。慣れるまで、屋根の雪崩の音のに驚いた。山中の場合は相当大きい音なのだろう。今朝の朝日は、晴れていて見えるのだが、雪空をとおしているのか、おぼろ月よかと思わせるような光だ。

 でも、光を感じるだけでもいい。雪に反射して明るい光が家の中に届く。これが雪の時期でないときの雨だと暗過ぎて、窓際に行かないと本も読めない。天気の悪い日は外に出かけ、天気の良い日は家で読書がいいと、仙人居住者は言う。それなら電気を使うことのない電力節約の生活となる。なるほど。




2013年1月2日水曜日

うるさいコマーシャルだ


 箱根マラソンの報道が始まって、なかなか本番にならない、言ってはなんだがその間、コマーシャルを延々と見せられるから、これも詐欺的手法。ニュース報道だって、大事なことをろくに流さない癖にと、また軽くムッとする。広告料もらって報道するのだから、こちらは避けられることではないが、もらっているのは放送会社だ。見ているの方の責任ではないのだから、「コマーシャルを見ていただきます。申し訳ありません」という関係ではないのか。

 見ているほうは、スタートするのは今か今かと、いろいろやっている手を止めて待っているというのに。見るのは嫌いではないが、見るとほかに何もできなくなるので、どうしてもやることがないとき以外は見ない。駅伝の顛末は、ニュースでも主要なところをやってくれるので、それで済ませる。

 ニュースの担当者がコメントで「早い観客はが1時からきている」と、コメントしていた。そのアナウンサーは鼻声、その観客より早く来ていたわけだ。超過勤務手当はちゃんともらっているかな。

2013年1月1日火曜日

小さな足のご挨拶


 一年は、「めくるめく」というと格好が良すぎるけれども、頭の記憶装置が古くなっている自覚からすると、大概の事を「忘れてしまう」ことによってなのかなと思ったりする。時間数は微細には変わってもそう違いはないものだから、認めたくなくても誤りの実感以外のものでない。

 その忘却の間の記録をパソコンがいくつかカバーしてくれている。働いたというというよりは「遊んだ」記録が残っているので、決算してみようと、パソコンのファイルと記録をのぞいてみた。

ブログ投稿193600字、参照6560、日記82000字、facebookの投稿通知回数 709、発信メール数440、受信メール数不明、撮影した写真ライカ2000枚ニコン4500枚、パソコン買い替え1回、つり数回イワナ60尾ハゼ少々、3年ぶりの痛風炎症1回あるも投薬後尿酸値6.5に改善。

 こんなことをやってもどういうことの意味があるか、神棚の代わりに飾っておけば何かの足しになるかもしれない。昨年の続き、緩やかにスタート。


雪の上に4センチ(2センチ×)の足跡。



2012年12月31日月曜日

一年間、パソコンのファイル整理は進んだ

 今年一番進んだのがパソコンのファイル整理。体系別に分けて、外付けのHDDの写真以外はクラウドを使って、NET上に保管することにした。これで、自宅以外のどこへいってもネットの環境さえあれば、ファイルを参照できることになった。

 自己の生活や記録関係、釣りの会、写真、新聞の切り抜きなど、体系ごとにフォルダーを作って並べて整理した。それを、3種類の「ドライブ」に分けて保存した。ここまでくるのに、散らかっていたファイルが相当整理された。実はファイルをどれだけ利用しているかと言うと、そう多くは使っていない。更新しているものは限られたものなので、それは集中して管理するようにした。

 これで懸案の課題は完成したかとほっとした。ところが、このクラウド上のファイルは、業者の保存体制によっては無くなってしまうこともあると、2.3日前のテレビで報道していた。せっかく苦労して整理したつもりが何たることか。

 でも、NET上に置いてあるファイルはパソコンのファイルと同期しているので、大丈夫なはずなんだが…。NETを切断して実験してみると、Skydrive、Nドライブも参照するのは大丈夫のようだ。Googleドライブは、オフラインで更新を保存をしている。

 撮影した写真のファイルは外付けのHDDで、保存するうえでは一応心配はないが容量が多いので、NET上に全部を保存するわけにはいかない。HPなどで使用する直近のファイルだけをコピーして載せることにした。整理の結果は外付けファイルを除いて、55.317Gとなった。