2022年11月13日日曜日

廃校になった小学校に行ってみる 4-3

~下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、最後は岡村島へ走る~

 三日目の後半は西方の下蒲刈島から5島を渡り歩き、瀬戸内の広さと島の多さを実感した。おおよそ島は、「山」なので道路は海岸縁を通っている。ポツポツと集落が点在して、日本のあちこちにある風景と同様の佇まいを見せている。この様子を見て、騒々しく大きなビルを建て続けている「大都会」との対比を考えさせられる。富の集積を重ねる都市部の雑踏とは雲泥の差がある。

 しかし都会で極上の生活をしているのは一部であることも事実。地方との格差は広がり続ける。もうちょっとゆっくりとした時間の流れを要求するのは理不尽なことだろうか。下蒲刈島に友人が通っていた小学校がある。子供が少なくなって今は廃校になった。廃校になっても、見学で訪れる人を受け入れているのか、建物の敷地と周囲に入ることができた。廃校になる学校は多いという。むろんここに限られたことではない。

 少なくとも自然の環境に恵まれた場所にある施設が、使用されず放置されたままとは…。公共事業という名の経済対策で、これでもかというほど瀬戸内に橋を造設した結果が、このありさまとは。「総括はどうするの」という言葉が思い浮かぶ。いずれ校舎は壊されることになるかもしれない。記録として残したいと、二人で写真の撮りまくりをした。












2022年11月11日金曜日

呉市街から島へ渡って歴史を追いかける4-2

 自衛隊呉基地から、本土の呉市街と倉橋島を結ぶ音戸大橋へと移動。そこから10キロ弱ほどで音戸大橋直下に着く。本土側と倉橋島を結ぶ橋が建造されたことにより、音戸渡船が廃止されたと聞いていたので、そこをぜひとも見たいという希望に沿ってくれた。

 渡船場の様子が使っていた当時のまま残っていて、昔を想像してみることができた。船着き場の前は、海際の道路は車がひっきりなしに通り、広くない道路は歩くのに余程の注意がいる。渡船を利用していた頃はそんな危険も少なかったのかもしれない。橋げたの下あたりには、当時をしのべるような建物は少なくなっているようだった。

 倉橋島と隣の江田島までは早瀬大橋でつながっている。そちらには行かず、いったん「本土」に戻ってから、下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、最後は岡村島に向かう。この日の後半は5つの島を周遊するコースになった。(次回4-3へ)













2022年11月9日水曜日

呉市街から付近の島をめぐるドライブ4-1

 あとから思うと、友人の観光のおすすめにもう少し行くべきだったのかと、やや反省の気持ちがでてきた。写真は観光スポットを撮るよりも、昔が偲べるような建物や物を見られればよりいいな、との思いでいたところだった。これぞという対象は、さまざま巡り歩いて濃密な撮影になった気がする。

 ぜいたくを言えばきりがないけれども、下調べをもっとしておけばさらに有意義な内容になっただろう。東京に帰ってから、当地の情報をまた詳細にNETで調べたときに、その中間の情報が不足していることに気が付いた。

 それはさておき、三日目は車で回ってくれるとのことで、最初に旧海軍工廠、呉基地係船堀に行き、「自衛隊と米軍の街」を撮った。観光案内にも「基地関連の施設」がじつに盛りだくさんにあり、日本の戦後からの成り立ちを継いでいる。あまつさえそれが美化されている風景とされている。やっぱり戦後は終わっていない。そんな気がした。












 

2022年11月7日月曜日

円形校舎から瀬戸内のハゼ!残念釣れず!

 円形校舎の近隣を回って、昔の時代を求めて歩いて行った。人影は目立たぬほどの通りをウロウロと動き回る。その雰囲気は都市部のそれとは違う、ゆったりとした空気が漂っていたようだった。撮影を切り上げて、陽射しが熱くなったので公園で一休みすることにした。友人が買い物に行き、湿布薬とアイスクリームを買ってきてくれた。アイスクリームはさすがに暑さの中溶けかかってはいたが、起死回生の力になった。

 「ハゼ釣り」がこの旅の一つの目標だった。いったんホテルに戻ってカメラを置いて釣り竿に変えて、川へ向かう。少し距離のある先の大きな川(仁河川)だった。チヌを狙っていた人がいて帰るところだった。1尾つれたそうで嬉しそうにしていた。餌を購入して川と海の境にある護岸に位置を構えて、しばらく使わずに放置していた仕掛けを、自製の竿に結んだ。自製の竿とは、傷んで使わなくなった竿を修理したもので、様々な調子になるので、味わいがあって面白い。

 先客はクロダイを釣ったと言うし、アサリ採りで入れ物を抱えた人は「楽しんでください」とエールの交換をしてくれた。おりしも上げ潮の時間になり、ザワザワと波が押し寄せてきた。間違いなく釣りの時間が到来した。で、仕掛けを海に投入した反応は、「フグ」。これが随分と間断なくウキを引っ張る。期待のハゼは30尾も釣れれば、「お店に頼んで一杯飲む」という策も考えてはいたものの、とらぬ狸の…となってしまった。




 

2022年11月6日日曜日

円形校舎(港町小学校)の古い歴史とハゼ釣り

 23日、呉線川原石駅にある呉市立港町小学校は駅に接着するように立っている。「円形校舎」は、紹介してもらいながら見たGoogleの地図でみていたから、イメージ通りだった。この学校もポイントを置いてしっかり撮っていこうと構えていた。しかし思い入れどおりとならず残念にも、中に入れることができずに周囲から眺め撮ることしかできなかった。

円形校舎にも敗戦後の歴史あり

 ~円形校舎とは敗戦後の時期に全国で100校くらい建設されたとか。敗戦後教育基本法、学校教育法制定下、制度的前身がない中学校は施設が不足急増された木造校舎は粗雑で、台風のたびごとに壊れていたらしい。文部省が建築学会に学校建築の標準化を依頼して、東京都建築局が建築モデル指定した新宿区西戸山小学校などの設計に採用された(1950年<昭和25年>)。大成建設の設計技師だった坂本鹿名夫氏がかかわり、のちに独立して、全国の円形校舎建設に貢献した。しかしベビーブームに対応する増改築に適合しないことで、60年代後半には建設されなくなった。2010年代前半には約30棟が残存という状態になった(ウィキペディア)~。

 現在は日本中でどれだけ残っているだろうか。周囲の状況を見ながら「その頃」からの時間経過を想像するのが精一杯のところだった。この地には、友人が通っていた呉市立片山中学校も円形校舎だったが、2017年に年度解体しまったという。彼はその写真をきちんと撮って残している。残存するものは東京にも関東第一高校があるので、これも見る機会があればと思う。ハゼ釣りの方は、友人が下見もしてくれていたが、相手をしてくれたのはクサフグだけだった。やはりもう少し早い時期がいいのだろうか。とはいえ瀬戸内海で釣りをしたのだから…。




校舎下の石垣に防空壕の後がある












 

2022年11月4日金曜日

屋台という「平和産業」が継がれる

 初日の夕刻に仕事から戻った友人と会い、挨拶もつかの間飲み屋に向勝って歩き始めた。刺身が美味かろうと期待して、それなりのつまみにしながら、スカイプでは味わえない交流をした。何を話したのかちっとも覚えてはいないが、そのあと二次会はラーメンを食べようと「屋台」を案内してもらった。公園の敷地に上下水道と電気が利用できる施設がある屋台として観光地になっているところらしい。屋台の存続をかけた歴史があるとあとからわかった。

呉の屋台の歴史

1886年(明治19年)に第二海軍区軍港に指定、1889年(明治22年)の呉鎮守府の開庁、本格的な海軍基地の建設が進められ工廠や海軍関連施設が次々に建設。全国各地から人々が集まり市街化が進み、1902年(明治35年)10月1日に市制を施行という背景のなか1924年(大正13年)には「うどん屋台」が26軒存在していた。そもそもの始まりは大正時代頃で、軍事態勢の時代に生まれた歴史という面を持っているわけだ。

~道路交通法改正により規制がかかり1966年(昭和41年)に屋台組合、呉警察署、呉市の3者協議により、市内の屋台を蔵本通り歩道に集約し、それ以外の地域での屋台営業は認めないということになった。1983年(昭和58年)には「都市景観モデル事業」の指定を受け、立ち退きの危機となったが、屋台組合や市民から屋台を存続させてほしいとの要望を受け、1986年(昭和61年)に市の負担で屋台のためのインフラ整備をおこなったそう。当初の20軒は2000年には8軒となり観光客、市内の企業関係者、関係団体から屋台の衰退を惜しみ、再生を求める声が。呉市は「蔵本通り屋台活性化懇談会」を設置しました。2002年(平成14年)に懇談会の検討結果を受け、警察は道路使用許可は新規に出さないが、屋台営業が継続しやすいように、既存の営業場所を道路交通法の規制対象外とするため屋台設置場所を道路区域から除外しました。さらに、呉市は新たな屋台営業者を公募すること、既存営業者については配偶者又は子の承継を認めることという方針を打ち出した~。

「地方の古き良き屋台」呉氏屋台の歴史と現在

 屋台といえば、めったなことでおめにかかれることはなくて、「都市化」とともにほとんど消去されてしまったように思う。これが市民の声で上下水度と電気が使用できるという場所(場所と言っても歩道上)を確保して継がれるとは、なんともうれしいこと。「軍国の香り」のなかに「平和産業」が生きづいているのだと思えるのもうれしい。