2013年7月4日木曜日

静かなドイツ、オーストリア

 12時に目が覚めて、寝られず4時まで起きていた。ドイツとの時間差は7時間(サマータイム)。時計とカメラと携帯電話の時間差は、設定を操作してシャンと修正するが、体内時計はボタンもなにもないから修正ができない。とにかくぼーっとした二日目になって、午後ようやく頭が動き始めた。

 昨日午後に、撮り貯めた画像をHDDにコピーた。合計1400の数になった。ツアーの帰りのレストランで、写したものを旅行案内のようにして造るという方の話を聞いた。メモをキチンと手帳に記録して、パソコンで書き上げるという。その方は700枚程度写したとのことだった。城や聖堂、景色は、素晴らしいものというのは当たり前だが、せっかくの機会に他に「見えるもの」があるはずだから、それも記録に残せるようにと、張り切ってシャッターを押した分だけ多くなったのだろう。「下手な鉄砲も」という気概(?)を落とさずに、後で見るカットを楽しみに溜め込んできた。
 
 ドイツ旅行に乗ったのは、原発とゴミ箱と自転車道を見てみたいという思いがあったからだった。原発は、日本の原発事故がきっかけで、脱原発への舵を大きく切った。これはしかし、ツアーにはなじまないだろうから期待はできなかった。ゴミはリサイクルの先進国だから、シッカリした対策が見えるだろうと思っていたが、これはスペインツアーの時と同様に、街中にも集積場(ポスト)を設置してあり、日本ならこの程度のものでは到底賄いきれないだろうと感じられた。自転車道は都市部では明確に、歩道や車道の他に道を造ってあった。観光地のせいもあるだろうが、リュックを背負った旅人がたくさん行き交っていた。

  移動はバスで長距離を走ったが、アウトバーンの整備は地方への繋ぎがよくできたものだった。ヒトラーが最初に軍用と失業対策として始めた歴史をもっているそうで、大型トラックと乗用車が相当量行き来していた。

 目的は果たせたと言えないが、ツアーのお土産屋にはなるべく留まらずに、その時間も外に出て撮ったものも加えて、これからまとめてみたい。
 日本は参議院選挙が公示されたが、同じ「敗戦国」でありながら、戦争を否定して、歩んできたドイツとの差について突っ込んで見てみるのも、わが身を見るのに役立ちそうだ。










2013年7月3日水曜日

総括的まとめ。6月25日~28日、能登の旅の「若者」のキーワード。

 五箇山の相倉で泊まった民宿に、若者が何人か同宿した。さる旅行会社(だったと思う)の社長が新採の若者たちに、五箇山の暮らしを体験させようという企画だった。相当人数がいたらしいが、あちこちの民宿に別れて、和紙造りなどの生活体験を学んで、仕事に活かそうというものだったらしい。それはそこまでの話だが、遊びの範疇を超えた何かを若者が感じたとき、何か起きないかと淡い期待をもった。

 民宿の奥さんに、あの若者のうち何人か、ここで暮らすみたいなことにならないかなと話した。奥さんはまともに受け止めなかったが、いったいこの先どうなるかという不安は随分口に出して話した。馬鹿なことに、ここでの若者の写真を一枚も撮っていなかった。大失敗。カメラを構えて何を撮ろうというのか。いつもせっつかれて考えていることなのに。だから、シロウトの域をでないんだろう。

 狼煙(のろし)の漁港では魚の水揚げの時に、必死に網から魚を外している女の子がいた。取れない、外れないと大騒ぎしていた。漁業を営んでいる家に泊まった若者が、水揚げの体験をするということだったようだ。埼玉県の高校生だということだったが、こういった体験も、なかなかできるものではない。漁師のおばあさんが、魚を網から外す方法を、優しく教えるところなど、「いいね」感たっぷりだった。もっとその学生を撮るべきところ、やや疲れ気味の時間に至り、たくさん撮ることができなかった。これももったいないことだった。

 間垣の里の垣根作りは、金沢大学の学生がその存続維持のための研究をした。去年の12月には、伝統的に使用しているニガタケの間伐、栽培に向けた取り組みをしていると、旅から帰ってきてから知った。
 この撮影旅で、地元にはいなくなってきている若者が、顔を出しているうれしい場面に遭遇できた。若者の中に、気の遠くなるような長い間、苦労して築き上げた生活や文化が、少しでも心に止まって、残っていけばいいだろうなとつくづく思った。その夢を持たせてもらった。これは収穫だった。



五箇山


狼煙漁港


間垣の里





2013年7月2日火曜日

世界遺産、間垣の里も助っ人が必要だ(5月28日)

 輪島を離れて、能登半島の旅の終焉は、間垣の里に寄るのが通例だ。旅の終わりを惜しみながら、通りかかるのにはふさわしいところかもしれない。ともかく人がいない、そしてともかく海からの風に圧倒される集落。店一軒あるでもない。

 間垣の里の景観を引き継いでいこう、という取り組みが金沢大学の学生たちによって進められていることは、東京に戻ってからわかったことだった。
 要するに、高齢化によって海からの強風から守るための間垣が、高齢化のために維持するのが大変になった。板張りに換えてしまうことや、放置してしまう状況を、どうしていけばいいのかという命題に取り組んで、方策を検討したというもの。垣根の材料であるニガタケの移植や、地域外人材の活用などの可能性を、実体験しながら探ったという。
 
 間垣の様子が依然来た時と変化していると、写真を撮りながら感じていた。それがなんだかは解るべくもなかったが、家並みに入り込んで撮った廃屋も、その象徴となったのかもしれない。
 こんなことが解かってくると、観光写真風というのからは、その背景が出てこないな、ということを思い知らされる。学生が調べた間垣の「伝統継承タイプ」の14のうち、現在残っているのは、たった4つという結果だった。このままでいけば、希少な文化がここでも廃れていくことになる。

 金沢大学の他にも研究が進められているということだが、こころ強いことだと思う。写真家(シャシンカ、シャシンヤ)は、金沢大学の学生が、ニガタケの植え替えと、垣根の取り換えをするところを撮らなければならないことになる。さて、そのエネルギーと時間があるのだろうか。














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「輪島西保地区の間垣」保全継承のための実証的研究
金沢大学地域創造学類地域プランニングコース

 能登・輪島の特徴的な里山里海景観を構成要素である「間垣(まがき)」は,大沢地区においては,過疎高齢化等の進行により,地域に自生するニガタケにより作られた伝統的なタイプのものがほとんど消失する状況にあり,その保全を図る必要性が急務であることが確認された。このため,間垣保全活動であるニガタケ伐採,間垣補修等の一連の活動を地域住民と学生が連携して行うプログラムの可能性を実践的に検証し,今後の支援のあり方について検討した。

強風から家々を守る
地域のニガタケを毎年差し替え
高齢化のため維持管理が難しい 板張りへの変更または放置
間垣の風景を残すためのの仕組みづくり
学生の活動と地域外人材の活用の可能性
東京農業大学荒井研究室

 ニガタケの休耕田等への移植事業の可能性について現地検討
所有者による補修が困難となっている複数の間垣
を対象に,学生と地域との連携による間垣補修作業を実施し,実施可能性を検証するとともに,作業内容等に関するデータを整理

 昔ながらのニガタケのみによって間垣を構成する「伝統継承タイプ」,維持管理のしやすい板材のみによって構成する「簡易タイプ」,簡易タイプの板材の隙間にニガタケを差した「混合タイプ」の存在が再確認されたとともに,板材の前面全てにニガタケを薄く差した「擬似伝統継承タイプ」やトタン板等のみで構成される「改変タイプ」の存在が確認された。
 また,2009 年時点で伝統継承タイプと確認されたもののうち(14 個),現在残っているものはわずか4個であることが確認された。

 補修支援活動対象間垣について,学生中心による補修作業を以下の内容で実施した。補修作業も,想定した作業時間の範囲内で作業が完了でき,学生中心によるニガタケ補修作業の実施可能性を検証
2012.11.05(月)(大学休日)
ニガタケの生息環境調査等にもとづき,ニガタケ伐採作業時および間垣補修作業時に,ニガタケの生息環境整備のための実証実験として,学生が中心となってニガタケの間伐,ニガタケの株掘り起し・移植作業を実施した(詳細省略)。今後の生育状況についてモニタリングを行う予定

地域からの評価も高く,間垣保全支援活動の今後の持続的,多面的な展開が期待されている。
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参考






2013年7月1日月曜日

輪島の朝市で(5月28日)

 ここも3回目だ。T先輩が朝市のお母さんたちに、前回きたときに撮った写真を届けると、被写体になってもらった相手を探し回る。あちこちでどこの場所にいるかを聞いていくが、顔を見てもピントはこない。様子が変わっていることもある。そして、中には老人ホームに入ったという人の情報もわかる。そのときは写真を預かってもらうが、気持ちよくやってくれるのでうれしい。

 そんな動きをきっかけにしても、何枚かを撮らせてもらう。ここまで来ると拒否というのはない。さすが先輩だと感心する。そこまでする写真家はあまりいないようだ。一人だけポツンと市場から離れて、草履を広げている人がいた。ちょうど、家で使っている布草履がダメになってきていたので、一足買うことにした。もちろん一枚撮らせてもらうように頼んだ。しゃんとしていい風貌だった。














2013年6月30日日曜日

白米千枚田の夕陽は残念ながら…。(5月27日)

 ここは3回目になった白米千枚田。ここで夕陽を取るのが、今回のメインのひとつ。輪島まで距離も遠くないから、一時寄って昼食を食べて撮ろうかと車を止めた。観光地なるゆえに賑やかに、さあどうぞという割には、腹にたまるような食べ物がなくて、食事がわりの簡単な食べ物を買って間に合わした。観光客もひっきりなしにやってきているが、田を回ってみる人は多くはない。

 すでに稲が水から立ち上がっている。田植えのアトラクションか何かで使ったらしい、飾りの残骸がぶら下がっている木が、一本だけ異様に残っている。それを入れたら絵になりそうもない。2年前に世界農業遺産に登録されているが、一体それが何をもたらしたのだろうかと、観光事業にばかり力点を置く現世に、また疑念を感じた。だが、否定していいのだということも、言い切れることではない。

 やや苦労しながら見通しの良い上の方にも行って、記録として残した。これも感動が薄れてきているせいか、力を込めた写真にはなりそうもない感じだった。





 輪島のホテルにチェックインしてから、輪島の港のほうへ一回り回った。夕方なので、港の活気はない。代わりに子供が遊んでいるのが被写体になってくれた。チェックインした時に、仲居さんに今日の夕陽の時分の天気はどう?と問いかけたらまあダメでしょうと即答だった。でも万一晴れたらお客に申し訳のないことになると、天気予報を確認して、「外れても怒らないで下さいよ」と念押ししていた。







 



2013年6月29日土曜日

狼煙から輪島に抜ける途中(5月27日)

 ここも場所が特定できないが、海岸線を走っているとでワカメを干す作業している漁師さんが見えたので、急きょ車を停車させて、また頼んで撮らせてもらった。午前中に干して午後から芯の部分を取るのだと説明していた。そのほかいろいろ話をしてくれたのに、言葉がよくわからずに生返事したりして失礼してしまった。 お母さんたちもしゃべりながら、手際よく作業をしていた。昨夜停まった狼煙のことを話したら、学生さんが来ているんだよねえーと言っていた。地元のことは、よく伝えられていくものだ。






 そのあと、これも海岸より高いところを走っていたとき、車窓から小さい港が目に飛び込んできた。衆議一決ここに入り込んで、パチパチと撮りまわった。私の場合は奇をてらって撮るのが策略だから、小さな湾を回り込んで今は使っていない、壊れた港の様子を何枚も撮り込んだ。水の綺麗さと、豊かな海藻群、わりと新しい住宅の鎮とした風景が、面白かった。人影が全くないのが不思議な感じだった。









2013年6月28日金曜日

狼煙(のろし)漁港、夜の活性(5月26日)

 能登半島の北東の先端にある小さな港。二日目はここの目の前の旅館で滞在し、今回の目玉である漁船の水揚げの様子を撮らせてもらおうと、旅館にも事前に話し、状況を聞いて準備をしていた。
 夜8時半に旅館のすぐ前で、明かりに照らされて浮かび上がる水揚げ作業が始まった。撮らせてもらう時には、その人に断りの一言を言うのがエチケットだが、それで断られるのがイヤで、いつもすんなりと入れないものだ。しかし今回は、幸いにもちょっとお酒も入っているので、滑らかに話ができた。魚となれば多少の知識は素人方よりはあるから、魚の話をすると漁師さんの口も軽やかになって、写真を撮らせてもらうことができた。

 網にかかったオコゼを取り上げて、これは危ないんだよと何度も話して教えてくれた。先刻承知という言葉は呑み込んで、そうですかと相槌をうった。漁師さん、よっぽど痛い目にあったのだろうか。
 だから、この場は私のおかげで写真家の皆さんも撮りまくることができたのだと、少々鼻高な気分になった。









 
 お母さんは口に五寸釘を噛んでいる。魚を外すときに使うのだと話してくれた。まとめて買い入れてあるのだそうだ。魚は大きくい足水揚げは少ない。長期的には減っているらしい。でもだから、網中に大きいものが入った時はうれしい。ちょっと持ち上げてと声をかけた。よい型のクロダイだ。網の色は2種類あって、狙う魚によって替えるらしい。この漁師さんは、お隣とは違うものを狙っていたんだと言っていた。




2013年6月27日木曜日

五箇山、相倉の校倉づくりの里から狼煙漁港まで(5月26日)

 二回目の訪問になった五箇山・相倉は少し観光のトーンが強くなったみたいだ。でも、民宿の奥さんお話を聞くと、深刻な状況が浮かび上がる。どこにでもその悩みはつきものでもあるが、若者は職を求めて出て行ってしまうし、人手の減少と高齢化は稲作の維持が困難さいなって、観光農園として繋ぐ以外にないということに至っている。校倉づくりの屋根はいまは「結」もなく、農林組合が順に定例的業務として回しているという。好き勝手に訪れて「らしさ」を要求しながら、そんな話を聞くとこころ穏やかに写真を撮って伊r場合かと、駆け出しの写真ヤはなにか反省を迫られるように思う。そういうところが見える写真が、撮れるものかどうか、自信はない。








 五箇山を後にして、狼煙(のろし)漁港に向かう途中で、名もない港(本当はあるが思い出せない)に寄って、港の風景を一通り撮り、その町か部落の一帯を歩き回ることになった。通りかかったお母さんが「写真撮るなら、こっちの高台から見ると港が見えるよ」と親切に案内してくれた。内心、イヤーこの古い町並みから見えるものを撮りたいんだよ、と声を飲みこんで、案内に従って台地に上った。


 神社(神杉神社と後でわかった)と言われて登ったら、いつの間にか古い寺に入り込んだ。由緒は感じるが被写体以外のものを撮るだけで、どんな歴史を抱えるところなのか、調べるゆとりはない。だからこういう時に、後でどこだったかなと、困ることが出てくる。車までの帰り道は、イヤー港町じゃないよねーといいながら、どういう町なのか解らず、一様に想像がつきかねるという感想だった。