2015年1月3日土曜日

ホームページをどうするかが、年越しの問題

大問題とするのは我が身を振り返ってのこと。ホームページの移転(HPアドレス〈URL〉)の変更)は、‘’通常想定すべからざること”だ。〈あそこにいけばそれがある〉は、喧伝する側にとっては必要な要素だろう。一定期間広報につとめたHPアドレスは変えたくはない。このHPアドレスを無料で提供されていたものに、突如として「家賃を払わないものは出ていけ!」とされたのだからたまらない。2月一杯で使えなくなってしまうとの宣告で、やむなく心覚えの提供業者にアクセスしてみた。

有料と無料とがあるのはわかっていた。新しい接続業者はHPスペースそのものを提供していないから、もう金で解決するしか無料のモノを使うかの選択しなければならない。無料で提供するものは、広告スペースがホームページ上にセットされて煩わしいし、有料のモノよりもあれこれのセキュリティなどで「欠陥」もあるだろう。ただ安いわけはない。「簡単な」ホームページしかできないので、見栄えに各段の差が出る。

たかが釣りの会という貧乏世帯なのだから、割り切り方もあるかと無料のスペース使用申し込みをしたら、こちらの連絡の受信メールアドレスがWEBメールでは届かない。たしかに断り書きには、連絡が届かないし電話連絡はできないと書いてある。どうしてそうなっているのかは不明。まったく馬鹿げたことになってしまった。ここでメールソフトをわざわざ買うという選択を採る気はない。

かくして、有料のホームページを使う羽目になってしまった。
そもそも、ホームページの効用が釣りの会に、どれほどあるのかということは、この際は考えないでおく。「交流の用に供する」「人並みの社会での歩き方」程度のことで、ますますの必要性は将来に託する。ないよりはあった方がいいと言い聞かせるのも少々情けない気がするが、取り合えずそこは棚上げにしておく。将来の期間はとりあえず3年として、有料のホームページへ移転することにした。

 ホームページの更新について何かのリアクションがあればそのときは、間違い指摘であってもうれしいものだ。そんなことに追い込まれた年末だったが、日本労釣協HPの移転作業をしながらもうちょっと更新する記事が欲しいよなと、また思った。




2015年1月2日金曜日

たかがメールされどメール

齢をとったら、指一本でも外界と交流ができるのはパソコンが便利ではないかと思ったのが、これに突っ込んだ動機だった。たしかにさまざまな情報を捉えることができるし、キーボードを押すだけで外界とのやりとりが可能だとなると、生きていくには欠かせないグッズかもしれない。(グッズなんて言うか?これも横文字に毒された所以)。しかし、自分の身勝手さもあって、さしたる見通しも持たずに、生半可な使い方でいやはや往生の極み。

メールは、釣りの会の通信を主とするものだから、そこに属さないものは、別のWEBメール(Gメール,Yahooメール、Outlook.com)を使って振り分けている。釣の会の例会に行くときのレンタカーの予約はYahooを連絡先にしておき、HPの連絡先にも使う。Gメールは、農水省のメーリングリスの配信先、配信を依頼したブログの更新通知、パソコンソフト関係の受信先、Outlook.comは水産技術センター、カメラ関係の受信などと振り分けていた。これで何年かやってきていた。

今回は、プロバイダの変更に伴って起きてくるメールアドレスをどうするかの選択が焦点だった。今回だけでなくプロバイダを変えることによって、いままで使っていたメールアドレスの変更を迫られる。どうだろう、メールアドレスは、パソコン通信の主要な「名前」なので、変えたくないと思うのが自然だろう。前回変更の憂き目にあったときはそう思って、使い続けるという選択をした。むろんそれは有料だった。だいたい、通信技術の発展と言うか向上によって、各種のサービス料金が低減するのが当たり前なのに、つまり今までのままでも料金が安くなるという方向が出てくるはずなのに、新たな付加価値を「創造」することで、儲け口を担保するという手法だから、その尻拭いはこちらがすることになる。

それならばと、長年使ってきたメールアドレスを手放して、ほかものに統合することにした。前回のブログで書いた、釣りの会のホームページが有料でないと使えないという憂き目にも腹の虫がおさまらない。たとえわずかなアドレス使用料ももう払わないと、「大きな決断」をするに至った。

 ところがその先にヤマがあった。2000件弱ある引っ越し元のメールを引っ越し先に統合しなければならない。これはこれまでの経験でなんとかできた。しかし、「送信済みメール」が引き継げない。(これはコメントが必要かもしれないが、日常のメールのやり取りを記憶に頼ると、事実の違いがでてくることがある。自分としてはそのことも考慮にいれて残しておきたいという動機に基づく。このことは、企業経営だけにとどまらず、さまざまな組織や団体で有益なことだろう)旧メールの「連絡先」やら「送信、受信」メールを引き出すエクスポートで引き出して、別に保存しておいた。

 受信したメールは新しいアドレスになんとかインポートで引き継ぐことができた。別途エクスポートして保存して置いたファイルは、単純にこのファイル形式が圧縮ファイルということで、解凍ソフトを手に入れないと開かないらしい。それはそれとして、過去のメール内容を確認する必要が生じてから、その時に圧縮ファイル解凍のソフトを手に入ればいいかということにした。





2014年12月30日火曜日

パソコンよりは釣り竿

 28日付でこの題でブログを書こうかとメモっておいたのに、ここにきてプロバイダの変更作業を迫られて、大忙しの年末になってしまった。それは、一本の電話から始まった。「光回線がどうのこうの」という話になると、連れ合いは日常の鼻っ柱のわりには「ダメよダメダメ」とはいかない。「電話よ」と受話器を渡されて、相手の話を聞くパースにはまってしまった。この手の勧誘が、「割引するよ」という手口で、プロバイダを変えさせる常套手段であるのだが、何回かあたってみて、基本料金自体はいくらか下がるようでも新しい付加価値(サービス)をつけられ、それにのると高くつくような実態にある。

実は、つりの会のホームページは、プロバイダが提供する無料のものを利用していたのだが、来年2月に使えなくなってしまうという通知がきていた。後は有料のものを使えと言うわけだ。そのためには、案内もいたしますとの「アフターサービス」もある。しかし料金はありますということだ。
ほかにも無料のものもいくつもあるが、ホームページに広告が割り込んできて、見栄えが悪くなる。無料で使うのだから割り切ってというのも考え方だが、「見栄え」も大事なことではある。(これは、釣りをするならいい竿でということに似る)いままで無料だったものが有料になるということは、関連企業のIT企業の業務を広げてやるということなのだろうか。こんなことがあってのときだったので、つい電話の話が伸びてはいりこんでしまった。「いいことばかりでなく、デメリットも話せ」と要求したら、キチンと説明したのに好感をもてた。

もうひとつ、プロバイダを変えることで問題が出てくるのは、メールアドレスだ。これがプロバイダに帰属しているから、乗り換えの時はメールアドレスだけ使えるサービスが、元のプロバイダにある。当然これも有料で、金額はさしたることはないが、考えてみると「安い料金」として乗り換えを動機づけられたものに、プラスされたものだから、マイナス部分ということになる。これは経験済みだった。月額料金が下がることに加えて、セキュリティソフトが無料であることと、回線の情報スピードが2ギガバイトになるというのが売りだった。それならまあいいかと、のっかることにした。

回線工事とは配線が終わって、パソコンに接続してみると、回線のスピードは「1Gbps」だ。2ギガはないねと電話したら、回線の端末まではきているのだが、その先のパソコンには至っていないという回答。屋外の回線工事もしていたことなので、まあそうかな、自分が持っているパソコンや周辺機器の「バージョンアップ」があったときの話かと、腹立たしくもあったものの、これまでの速度で十分よいと思っていたので、「振り込め詐欺」まがいのことかと相手の女子には寛容に対応した。

メールアドレスは、今回残さずに廃止にすることにした。ほかにアドレスはWEBメールで使っているので、これに乗り換えるようにして作業に入った。これが大変だった。




2014年12月16日火曜日

発光ダイオードの毒性

東北大学が、青色LEDに毒性があると発表した。近所のクリスマス飾りでも使われている。日常浴び続けるということは少ないにしても、安いし電力を使わないということで、万々歳というわけにはいかない。一説によれば、電磁波の影響が、携帯電話と同様に20年くらいなど、長期にわたった場合の危険ということらしい。

「様々な波長のLED光をショウジョウバエのさなぎに当てて、殺虫効果を調査した。その結果、青色光を当てたさなぎは羽化できずに死亡したという。特に440nmと467nmの波長が高い効果を示し、467nmの光は卵、幼虫、成虫に対しても殺虫効果を発揮したという。

また、蚊のさなぎに対しては417nmの青色光に効果が認められたほか、小麦粉の害虫であるヒラタコクヌストモドキのさなぎに対しては非常に高い殺虫効果が確認された。

同研究グループは光が昆虫の内部組織に吸収され、活性酸素が生じ、細胞や組織が傷害を受けるため死亡すると推測しており、種によって異なる波長が効果を発揮することから、さまざまな害虫に適用できるクリーンな殺虫技術の開発につながる可能性」

青色LEDの光に殺虫効果 - 東北大が発表



 「殺虫剤技術の開発」までのこととなれば、その先化学兵器にも転用しようという「輩」も出てこないだろうか。ちょっと危険。これも公害の種にならなければいいと思うが、こういうことが分かっているならキチンと対応をしておくべきこと。


 クリスマスがやってくる時期に、発光ダイオードを使ったデコレーションが目立つ。技術開発の成果ばかりを見て、マイナーなところを無視するわけにはいかないだろう。加えてLEDだからエネルギーの削減効果が高いとしても、信号機のように既存のものには経済効果があるが、新しい需要をつぎつぎと増やしたのではつじつまが合わない。





2014年12月12日金曜日

JTBが、公~党の支援要請をした。企業経営にも批判が…。

JTBは今回の選挙にあたって、社員に特定政党の協力依頼をした。
〈国内研修会をはじめとした各種需要を頂戴している創価学会様より、支援政党である公明党への支援要請がJTBグループにあり、営業政策上の観点から各事業会社においても可能な範囲での協力を求められております〉〈公明党の政治活動を支援します〉とした用紙への署名集めを、太田昭宏国交相と前職の上田勇氏がそれぞれ出馬した東京12区と神奈川6区の居住者には各候補の支援者名簿を作るための署名集めを社員に要請したとのことだ。
 創価学会が大口顧客だからということもあるらしいが、JTBと言えば誰も知っている公共性の高い企業。企業組織を通じて投票行為を誘導するのは許されない。当然内部からも批判が起きている。

JTBがグループ社員に送った「創価学会様に選挙協力」メール



JTBは旅の時によく利用しているので、抗議の意味で書いたが、「Facebookのページ」は企業宣伝のためにつくってあり、その評判にかかわるコメントを書き込めることになっている。星印がいくつかで評価したうえで書き込みができる。星を一つつけて書き込み「権利」を得たうえで、「今回の選挙で、特定の政党に『協力』の指示をされたとか。一企業が選挙で特定の政党に誘導をすることは、あってはならにことだと思います。たびたび利用させてもらっていますが、今後は再考させてもらいます。」と。

ところが、そこに書かれている他のコメントを読んでみるとちょっと驚きの書き込みがあった。

JTBさん、営業マン最悪です。
ノルマが利益ベースだからか知りませんが、利益追いすぎ。
二度と一緒に仕事したくありません。
責任感無さすぎです。
星つけないと、投稿できないみたいなので、1つにしましたけど、ハッキリ言って、マイナスです。

□11月16日、午前10時頃、私は、太魯閣渓谷・燕子口で信じられない光景に出くわした。
太魯閣渓谷の燕子口はヘルメット着用が義務付けられている。写真の右側の団体客は日本のJTBのお客様。皆さんご高齢の方だ。見て頂いても判るように、誰一人としてヘルメットを着用していない。
 
 手前の休憩所であるお客様が添乗員に、「ヘルメット着けなくてもいいのですか?」と聞くと、日本人女性添乗員は、「着けたい人だけ着ければいいんです」と答えているのを私ははっきりと聞いたぞ。燕子口は頻繁に小さい落石が発生している。昨年は死亡事故も発生している。驚くのはこれだけではない。このお客様をバスから降ろした場所が、昨年の死亡事故発生の現場。そこでバスから下車させ、(バスの写真がそれです)その場でのんきに写真撮影をさせている。信じられない光景だ。日本人添乗員も、台湾側ガイドも、お客様の命を何と考えているのか。

 日本人添乗員の意識の低さと、台湾ガイドの無責任さだ。
彼らの行程は午前中に太魯閣渓谷を巡り、昼前には、大理石工場へ行き、同じ場所で、昼ごはん、阿美族のダンス鑑賞、そして、同じ場所でのお土産屋というコース。故に、時間節約のために、ヘルメットを借りる事をしなかったのだろう。日本を代表する大手旅行会社がこのような事をしていいのか!!!
この日、ヘルメットを着用していなかったのは、この団体だけだった。
すぐに、JTB台湾へ本件を報告したところ、以下のメールが返ってきた。

「……様
お世話になっております。JTB台湾でございます。
ご意見を真摯に受け止めまして、改善に努めて参ります。
ご指摘を頂きまして、誠にありがとうございました。
JTB
台湾」

うーん、これが精いっぱいなんですかねえ。日本の企業ってどうしてこうなんでしょうね。正直、私はこの返事を見て、ガッカリでした。マニュエル対応もここまでくると誠意も反省もみえませんね。




2014年12月10日水曜日

写真編集ソフトでの出来栄え

 たまった写真ファイルの整理と、編集が進んできた。デジタル写真ファイルを編集ソフトで調整して仕立て上げる。つまり見栄え良く整える。自分で撮ったときの明るさなりコントラストなりを表現するのに、ソフトをつかってより「現実」と「感動」に磨きをかけるということになる。しかし、テレビドラマのように原作を大きく脚色してしまって、内容を「激変」させてしまうというようなことまでしてしまうと、最初の「持ち味」がなくなってしまうことにもつながりかねない。
 
 そこは、撮った写真のトリミングはしないというのが一つのあり方として教えられたこともあるし、邪魔な電信柱が入っているのを、編集ソフトで消してしまうとなれば、それは撮ったものの事実とはちがったものになる。そんなことはしないのが流儀となっている。そういう使い方をする分野もあるわけだが、写真のあり方として自分としては、なるべく変えない最小限の脚色をするという、教えられたやり方を好む。せっかくこれはと思って感動して撮ったものなのだから、その範囲を逸脱してしまっては腕前をあげることにもつながらないだろうと思う。

 
 だから、元写真に少々の明るさやちょっぴりのコントラストと明瞭度をくわえることで、現実に近いものに調整する。習い進むに連れてその編集の出来栄えがだんだん良くなってくる。苦労した甲斐ありと自己満足を感じながら、出来上がったものの「完成度」をどんなものか考える。だけれども自分の評価だけでは決まらない。そこが悩ましいところ。










2014年12月9日火曜日

あの世からの悪戯

一週間前に山形へ墓参りに行ってきた。ほぼ毎年行ってはいるのだが、12月に入ってから行くので、雪に祟られる。この墓に入っている人はいたずらが好きで、ときどき悪さをする。暮に行ったときにはだいたい雪を降らせる。

しばらく前だったが、家族で年末を温泉で過ごそうと出かけ、途中に寄ってお参りした。その時も雪がもう積もっていて、お寺の墓の場所までいくのに、雪掻きをしなければならなかった。そこまではどういうことはなかった。参ったあと車でお寺の駐車場から出るときに、縁石にタイヤを擦ってパンクさせてしまった。年末のことで、店も閉まっているところが多くて、カーナビから修理店を探してもなかなか開いているところがなくて往生した。

やっと修理をしてもらってから、旅館に向かったがもう暗くなって、食事の時間に遅れそうになった。電話を入れて「7時までに着きそうもない」と言ったのだが、そのときの応対が「到着してもらわないと食事がなくなる」というものだった。携帯の電話口から思わずどなってしまった。幸い7時前に食事処に入れたので、事なきを得た。あとから、あれはお婆ちゃんの「いたずら」だったんだろうということになった。
 
 その後も雪に祟られることはあったが、いたずらはともかくとして、山形では12月になれば必ずと言っていいほど雪が降る。その雪はたいがい一度は溶けて根雪になることはない。

 今回の墓参りはそれゆえ雪降る前に行くことにした。墓に行ったときは雪が全くなくて、無事に終えることができた。東京の天気予報では、翌日からはずっと雨模様ということだった。二日目はそのとおり朝から雨だった。翌日、東京に戻る日からは雪が降り出して、そのまま連日降り続くという地元の人の話。雪が降らないうちにという目論見がうまくいってよかった。紅葉もすでに終わっていて、どこにいくということもなく、温泉にはしっかり浸かることができた。その後予報通り、雪が続いているらしい。


前日は雨

翌朝の銀世界




2014年12月6日土曜日

時は金にはならないが、意味はある。

 今日はビンカン集積の日。持って出たついでに、久しぶりの山手通りコースウォーキング。帰りに喫茶店に寄って、ノートパソコンでWifiをつないで試す。設定は先日やったが、家の無線LANで使用した後問題なく使えるのかどうかを試したのだが、支障なく繋がった。Facebookに写真を投稿して9時に家に帰る。食事は終わっていたが息子と一緒に食べることになった。

 食べて一段落してから、義父のところへ行くことにした。20分ほど歩いて病院に着くと、ちょうど昼食を食べさせてもらっているところだった。一生懸命食べていた。食べさせてもらえれば、少しはおかずも食べているようだった。入院の時には青い顔色をしていたが、頬に少し赤みが出てきたようだ。まだ、頭がぼうっとしているらしく、記憶があまりないようだ。

 
 連れ合いの手術後の回復には時間まだがかかりそうだが、少しは元気が出てきたように見える。それはいいのだが、義父がまた入院することになったのは3日。特養ホームの「仮住まい」から、老健施設に移ることができたのが1119日だった。家に戻ってくるための「体力をつけるのが目標」で、リハビリをしてもらえる施設に移れたことで、ひと山越えたかに思えた。

 しかし、ご飯や食パンのみの食事で食べられるものが極度な偏食になっているために、「電解質が不足だ」という検査結果で、入院が必要ということになった。塩分摂取が少ないために、意識レベルが相当低下してしまって、アブナイ状況までに陥ったという医師の説明だ。病院は隣接しているので、すぐに入院して、点滴を受けることになった。

 年末には家で過ごしたいという本人の願いでも、ちょっと危うくなってきた。入院の期間によっては、せっかく移った老健施設の再入所もできなくなるというので、なんとか短い間に回復基調になってほしいものだ。天気もいいし、カメラを持って出たのだが、特に撮りたいところもなくて終わってしまった。



2014年12月2日火曜日

九条の会集会とパレードに「渓流9条の会」が釣竿にヤマメをつけてアピール

 11月24日に「憲法9条の会」の集会とパレードがあった。渓流つりを志向している釣り好きの人たちがこれに参加した。曰く、「平和でなければつりはできない」。9条を守れと言う声はいまや天の声。集団的自衛権の名で海外に戦闘行動を展開するというアブナイ政府に批判が集まっている。集会後元気に銀座を通ってのパレードに、沿道から賛意の声も聞かれた。日比谷野音の紅葉も最高潮の時だったが、それに負けず劣らず「憲法9条を守れ!」の示威行動は輝きを増していた。











2014年11月23日日曜日

太平洋のクロマグロとハゼ

 太平洋のクロマグロが絶滅危惧種に指定された。過去22年間に1933%も減ったと推定されたことで、日本の捕獲量も2000トンほど制限をするとのことだ。その分を大西洋の方から獲るとのこと。日本人がマグロが好きだから…ということかどうかはわからないが、飲み屋では刺身を必ず頼むことが多い。日本が海産物を味わいやすい環境にあるから、ツマミやには必ずと言っていいつきものとなるのだろう。しかし、だから海のはるか遠くへ出かけて行って、獲りまくるということではマグロが枯渇するのは当たり前だ。需要に応えるのが「事業」だが、そういう意味での調整は賢明で必要なことと言うべきことではある。

 刺身を食う贅沢も、子供のころの体験として味わった。食べることが戦争に「勝つまでは」だったことが、敗戦後は生活に関わる物事が「復興」するまでは窮乏生活だった。「贅沢しないこと」が美徳として存在価値があった。いまはスーパーで、いつでも手に入る。そういう自由は手に入れたが、そこまでは漁獲技術の近代化のおかげということになる。しかし、世界で漁獲・養殖・畜養された天然魚(太平洋クロマグロ、大西洋クロマグロ、ミナミマグロ)、養殖クロマグロ(日本産)、蓄養マグロ(太平洋クロマグロ、大西洋クロマグロ、ミナミ マグロ)の70%以上を日本が漁獲・養殖または輸入しているというものすごさだ。そんなにマグロを食べなくては収まらない日本人の胃袋になってしまったのだろうか。

 クロマグロ漁獲量(主要港における水揚量の総計)は年々減少し、築地市場に上場されるクロマグロ(国産と輸入)の取扱量はほぼ一定とのことなので、輸入物に比重がかかている。今すぐというわけではないが、新しい耐乏生活になっていくのかもしれない。
スーパーではタイがよく並べられている。タイは高級魚(かつてはかな?)で、めったに食べられないはずのものだと思っていたが、これも今は比較的安価に手に入る。タイは種苗放流のさいたるもので、成長が12年の期間で商品化される。だから、比較的よく流通しやすくなっているのではないか。わが家の年寄りが、生もの苦手の人だが、タイなら、焼いたものを食べる。いわゆるイカ、タコほかの魚は嫌う。よって、結構高い頻度で食卓にのる。ほかのものも食べるものが少ないから、その意味でも贅沢というわけにもいかない。いつでも食べることができるのは悪いことではない。

 真鯛は近海ものだけれども、天然のものはほとんどいないだろう。稚魚放流で育ったものが、獲られる環境しかない。魚の種苗放流は、食を確保する重要な事業には違いない。貝塚からヒラメやタイの骨がでてくるように、大昔はいやというほど生息していたに違いない。現在の漁業技術なり、事業化によって獲りつくしてしまうことになったり、魚の生息環境を破壊しつくすほどの改変をしてしまった。そのことをしかたがなかったこととして無反省であってはならない。賢明な人間社会としてはお粗末だ。


 それはそうと、我が家の年寄りはから揚げなら魚もいける。よく揚げたものなら大丈夫で、気持ちの良いほどしっかりと何回にも分けて食す。シロギスも丸上げで良いし、ハゼも喜んで食べる。食物の好き嫌いは多少の我儘と味の勘違いによるものでないかと常々思うが、人間の舌は結構いい加減なところがある。どちらにしても幸せに思いながら食べるのがよい。今年はそのハゼつりも、一回やっただけだった。喜ばれる食べ物の獲得を大義に、もう一回ぐらいはハゼ釣りに行きたいものと、画策している。









2014年11月20日木曜日

たまたまテレビで見た、ラフマニノフ:ヴォカリーズ がすばらしい

 ラフマニノフが作曲した、歌詞のない歌「ヴォカリーズ」。ラフマニノフが曲を作り、親しい友人の意見を取り入れた。そしてその歌い手に送ったという。テレビ番組でははっきりと言っていないが、これは恋の告白じゃないのかな。そんな気がした。
 
 先日釣りの会の人が属している合唱団の「歌声喫茶」に行ってみた。昭和時代の知っている曲を多くうたって、気分が明るくなった。最近テレビの音声が少しだけ聞き取りにくくなった。朝になるとよく聞こえるので、体調によっても違うのかもしれない。 いい曲を聴くことで、聴覚にもよい影響を与えるのではないだろうか。


オーケストラで





歌で













2014年11月14日金曜日

一週間たってブログを書く

 前回ブログ投稿から一週間もたつと、また書かなくてはという気になってくる。もしかしたらだけれども、脱法ハープのような作用があるのかなと思えてきた。アルコールもそうだしタバコや、パソコンやスマートフォンと同じようにそのけがあるとしたら、ビョーキに近いことになるのだろうか。いやいや、家にいてウツウツとして身の回りに近いことばかりしていると、人間の活動としては「足りない」ということなのだと、自己弁護ノセリフが頭に湧いてくる。


 書きたいネタがないわけではないが、まとめて書くにはそれなりの時間もかかるし、下手なりの推敲だってある。けっこうなエネルギーがいるのも実感する。肩ひじ張らないでやるのがいいと思うのだが、それだって多少の時間をかけないとうまくは運べない。

  2日の日に臨海部の有明北に行って写真を撮ったが、そのとき動画も撮った。ちょうど、有明北埋立地と「豊洲新市場」の間の運河に釣り船が一艘、手漕ぎで操られていた。見ていた橋からは遠かったが、どうも和竿のハゼつりらしいと睨んで、近づくのを待ってからカメラを向けた。有明埋立地の脇をゆっくいり流しながら、二本竿で釣っているのが見えたが、あんまり竿があがった様子でもなかった。

 有明北はそうとう荒れ野原風のままだが、埋め立て反対、自然を守れという声に押されて、「カニ護岸」をこしらえることにつながった。有明北のその場所でハゼつりをやらせろと、冗談でなく東京都に打診したことがあったが、「液状化の危険」を理由に断りの返事があった。しかし、その脇のすぐ北側にある豊洲新市場の建設が進められている。有害物資があるとその対策にも相当の資金を投入されているらしいが、「液状化の危険」はなしなのだろうか。











2014年11月7日金曜日

埋めては掘って、「経済の発展」に資するとか

 しばらくぶりに有明北に行ってみた。東京都が2000年に埋め立てを強行したところだ。当時は埋め立てに反対する声の高まりで、都議会でもハゼ論議がされ、石原元知事が「ハゼはどこかへいくでしょう」と答弁したのが語り草になっている。再開発の起爆剤としての莫大な事業資金投入で、臨海部開発のための埋め立ては事実上の失敗に終わっている。企業からはそっぽを向かれて再三にわたっことて、「安売り」を試みたものの大方売れずに、14年たった今でも有明北は原野が残っている状況だった。

 2016年のオリンピック開催招致に向けては、「選手宿舎」として利用する計画があった。経済の活性化めざすとする大義だけが生き残っているようだが、今も大方はススキが原になってるだけだった。運河を挟んだ北側では豊洲新市場の建設が大仰にすすめられているが、有明北ススキが原とのコントラストが奇妙で可笑しい。


有明北埋立地


豊洲新市場工事








2014年11月3日月曜日

神田川界隈の紅葉狩り

 神田川の中野新橋から、中野坂上の高層ビルを見ることができるので、撮影の軽いメッカになっている。今日もそこから下流のほうを眺めでみたら、流れの右岸方に小砂利がたまっていた。少し上でこの神田川の拡張工事をしているので、そこから流れてきたものだろうか。その反対側は、なにか雑草が何本か立ち上がっている。川は本来の機能として、上流から流れてきた土砂を堆積することもあるし、養分を含んだ土には植物をはやす働きをもっている。ところてん突き穴のような角ばったへりに押し込められて、大型側溝として道を定められる工事にさいなまれても、川の本性をなくさないのだから大したものだ。

 川に沿って下ると途中にミニ公園があるが、ここの桜はまだ紅葉していない。山手通りから長者橋をのぼって中野坂上の高層ビルのところまで行くと、ビルの脇に公園がある。高層ビルには緑地を付けることになっているらしいが、大きくないその公園にまだ若い木々が育っている。そこはうっすらと紅葉がかかっている。行程一時間ほどの紅葉狩りだった。















2014年10月29日水曜日

天気がいいとどこへでも出かけたくなる

 秋晴れの天気になると、なにかウキウキとして外に出たい気になる。家にいたまま近視眼的に煩わしいことばかりしていると、気持ちがだんだん落ち込んでくる。折角の時期なのに家にこもっているのではもったいないが、遠くに出かけてというわけにもいかない。よって買い物とウォーキング「がてら」というストーリーを描く。ウォーキングでは何回も同じところを歩いているのだから、楽しみと緊張感はとうに薄れてはいるが、他人の家の木や花を覗いて歩くことでも季節感を感じ取ることができる。写真を撮るという動機が効用になって、いまなら紅葉を見つけて歩くのがいいころだ。紅葉の狙いはもちろん公園だ。公園でなら草木が秋模様を演出してくれる。











2014年10月26日日曜日

お天気屋でないけど、秋だから。

 子供のころは、運動会の日の雨はうれしかった。走るのがうまくなかったから、スタートから遅れたりして、ビリから何番という結果に終わっていた。ずっと時がたった近年では、子供たちを連れたドライブ旅行はだいたいは晴れた。天候が良い安定した時に行くということが多かったせいもあるだろう。土砂降りで苦労したという記憶はない。

 「人生卒業期」にはちょっと様相が変わってきた。雨に降られることが多くなった感じがする。人生雨あり晴れありだからかどうかわからないが、雨模様の天気も「身のうち」みたいにお付き合いをすることになっている。カメラを持っているときは、雨模様の写真を撮るようにする。写真は銀塩写真のころは暗いところを写すのは大変なことだったが、デジタルカメラになってからは少々の明かりでも撮れるようなった。それに、水にも強いカメラもでてきている。撮影領域が広がったのは利点となっていく。「こんなところなら撮っていないだろうな」とは撮影するときの動機づけのひとつだ。

 つりも天候には関わり合いが大きい。雨だったら風が強かったらと、その時に応じたワザが発揮される。増水した川から魚が消え去ることはないのだから、悪条件化の釣りも恐れない。技量が工夫されているのは、釣りの領域を広げる。そこまでの技量は身に着けていなのが残念だが、渓流であれば雨の降りようによっては、魚たちの絶好の捕食時間となる。明らかに魚の反応が違う。

 そんなことを思うと、「お出かけは晴れるべきとき」から一歩脱して多少の天候の変異に許容範囲が広くなる。

 19号台風の直撃の日にあたった紅葉狩りは、予報を見ながら決行だった。浄土平のハイキングはできなかったが、台風一過の朝は、吹き返しの風が、重い空気を運んでいた。ホテルの窓から気楽にとった写真は、晴れてきたときにあたった。帰りのパーキングエリアで紅葉を探して間に合わせた秋だった。












2014年10月24日金曜日

本当は重い政治が軽くなる

 消費税増税、特定機密の関連法、原発再稼働など日常生活に重い政治課題が山積しているのに、団扇や政治資金の使い込み、委員会での馴れ合い運営、果てはSMショーへの出費まで、なんと「下世話」な問題が次々とでてくる。まったくあきれ果てたことだ。
 団扇問題は、国会の場でとてもわかりやすく追及されたから、スポーツ新聞む含めて乗りやすい報道になった。「国会の場で政策問題でやらず」にそういうことで取り上げるのはという批判も当然でてきた。当たっていると思ったが、国会のシリアスな場面で、テレビのワイドショウのネタに大うけするような内容で、その意味では政治が身近になっていい。出てくる「不幸」は回りまわって有権者であるものの責任にも当てはまるから、外野席から見ている政治ということでは、いつまでたっても変わらない。国会審議は政策上の熱い論戦は違いがあってのことで、たとえば増税の問題でも同様の結論をもっているなら、張り合うことのならないから、トーンは下がるし枝葉のはじきあいで終わってしまう。とすれば、やっぱりワイドショウ向けの話になってしまうのか。

 しかし、新閣僚の資質を調べる場合とそうでない場合が政権によって違うとの、コメンテーターの話には驚いた。驚いたよりはそうなのかという変な納得をした。資質の問題より、50人以上もいる「閣僚資格者」の扱いのほうが忙しいということなのだろう。この体質はいまに始まったことではない。これまで何回も繰り返していることなのだから本来なら、マスコミもせめて「いい加減にしろ」というトーンで扱ってもらいたいと思う。新閣僚がでてきたら、その活動や資質について調べて、問題がないのかどうかを発表したらいい。皮肉に言えば、問題を起こしてくれたほうが、ネタとして描きやすいということかもしれない。その場合だけマスコミに貢献しているとも言える。

 小渕氏の発言で「政治家として一から出直す」という言葉があった。出直すのは自由だが、今は圧倒的に強い地盤をもって、悠々と議員になれるという立場だから、就職先として議員をやるという選択が有力なのだろうが、現行法制化で違法に立ち入ったという認識もさることながら、問題の全容解明ととるべき責任をさておいて、出直すとかいう決意を言う時ではないだろう。この類の人たちは「みそぎ」で再生可能な立ち合場にある。非正規従業者が突然首を切られるという身分などは到底考えられないだろう。会社都合というだけでいいのだから、そこから新たに職場を求めるの大変さとは比較できないほどの相違がある。
 

 小選挙区制が生み出す結果とみることもできる。制度が定着をして、優位な一人の選択に集中することになっていく。政策の選択が一本化に向かって、それしか自分の票が生かされなくなるから、無言の圧力となる。しかも投票する結果のむなしさで投票行動が少なくなっていく。こうなれば、立候補者の資質や行動に問題があっても、そこは問題として浮上しないし問われない。投票による民意がかき消される一方で、彼の再生産の道はできあがっているという図式だ。だから、きれいに一度引っ込むという筋書きが描かれるのだろう。ひところ「秘書が…秘書が…」という責任逃れのセンテンスがはやり言葉のように使われた。「全く私が知らないことで…びっくりした」などというのも同じこと、責任はやった人にあると言わんばかりの無責任さは感じる。そのことをもって責任と罪が軽くなるわけではない。「政治家」ですから。





2014年10月19日日曜日

自然の脅威は生き物の存在にかかわる

 渓流釣りが9月末でほぼ禁漁になる。魚の再生に配慮してのことだから、人間のかかわりあい方として、守らければならないことだ。Bさんはちゃんと9月末に村上の方へ釣りに行ったらしい。5尾のイワナを釣ってきて今年の釣り納めにしたとか。渓流好きの人の締めくくりができることは、出かけることがままならないものにとっては、うらやましい限りだ。
 
 渓流魚に限らずだが、釣れる数は年を追うごとに少なくなってきている。釣人が多くて、釣ってしまうために魚がいなくなるということがよく言われるが、それだけではない。イワナやマメを釣ろうと思うと関東周辺ではまず釣果を上げることは望めない。宮城県や新潟県まで行かないと釣れないというのが実感だ。最近はマメにいくことが無くなったから、確かさは欠けるが少し昔の記憶でもおおむね変わらない傾向だろう。体験では専用道(高速道路)の延長が、釣果に影響していると感じている。釣り場へ短時間で到着できることで、「場荒れ」が起きているということは現実にあるだろう。

 漁協が増殖事業として放流する魚を釣るというやりかたが、当たり前のようになってきたのは、漁業を営む人ばかりの責任ではない。ここまで川を痛めてきた国のあり方のほうがずっと重い責任を持っている。何より大きいには川の流れの改変だ。言葉でいうと優しいが、川の生成の歴史からみたら破壊というほうがふさわしいかもしれない。いわば積極的に破壊行為に及んでいるわけで、川底を掘り崩して砂利を採ってしまうということが、高度経済成長期から進められた。あとは野となれ山となれと言う言葉がピッタリはまる。ダムの建設も相当な打撃になっている。流れが寸断されたり、川底の石がなくなってしまうことで、魚が再生できる環境と生態系をどれだけ奪ってしまったことか。そのうえ最近気になっているのが、どこの川も流量が減って見えることだ。あちこちで見える川の水量はとっても貧相な状況が目立つ。針葉樹林による原因はよく言われるが、温暖化による植物への影響や田圃の減少などがあるのだろうか。雨が降っても、山も含む陸地が水を保全しておく条件が減っているのだろう。

 東京でもつりの会、グループや漁協で、ヤマメの発眼卵の埋設放流を秋川水系と奥多摩水系に実施している。自然保護活動として貴重な活動になっている。東京でやっているのだからなおさらのことだ。
 この4月に東京労釣連がヤマメの卵を沢の流れに埋めて、放流した際に使った籠の回収作業をした。2月の大雪でどこの沢でも放流籠の回収をするのが大変だった。落石よる林道の通行止めがあり、沢には倒木の流れ込みが随所にあって、渓流が荒れ果てていることが報告された。雪渓が残っている状態では、籠の回収ができないところもあった。したがって埋めたカゴから出られずに、籠の中で死んでしまった卵や、孵っても籠からでられなかった稚魚もあった。この数は多分これまでには聞いたことがないものだった。


 台風や集中豪雨による被害が際立って多くなってきているが、当然ながら自然界そのものへの影響も大きい。つりの会も高齢化で、足元もやや怪しくなってきているが、「自然保護」への努力が大波にのみこまれてしまうような有様だ。地球温暖化の影響も「作り上げた」なの環境だから、環境NGOだけでない見識と取り組みが求められているに違いないが、日本のかじ取り連中は一顧だにしないという態度だ。





2014年10月14日火曜日

魚が再生できない現状が肯定されてはいけない

 小国川漁協が、最上小国川穴あきダム建設を協定で容認した。漁協は漁業権水域を一部放棄し、補償は求めない。魚類生息環境の保全は放流による水産資源の維持と増大などとした。年度内に建設に向けて動き出すが、そもそも一時止まっていたものが、動き出すとはきわめて裏のある政治の動きなのだ。日本のダム建設が「再始動」している状況は、有権者側から見てまったくふざけたもので、「日本の政行政の継続」という「理念、論拠」も放り出している証拠だ。あとはどうなろうと将来に責任もたぬということ。無駄な公共事業の再開によって、見直しの反省もどこへやら本当の自然がまた一歩遠ざかる。

 環境の悪化によって、再生が不可能になった自然魚の漁獲をあきらめを得ず、放流稚魚や卵で代わりを賄おうということが、川でも海でもやっている「資源管理」だ。日本は海に囲まれて、山脈が多く川も豊富にあるから自然の環境が豊かだった。今はそれも話題にはならないほどの環境になってしまった。毒のないトラフグの養殖に成功しているというが、喜ぶべきこととしておくには、なにかおさまらない。
 
 アユの稚魚は、流れ込みとみると川を遡ることを試みる。三浦半島から流れ込む、小さな川でもそれを見ることができる。佐渡ヶ島でももんの小さな川に、どう見ても飛び越えられそうのない落ち込みに稚魚が泳ぎ寄っているのを見たことがある。日本中の川のほとんどが、人口の構築物によって、アユによらず海から遡上することを生態とした、サケ系の魚は上流への遡上ができなくなっている。

 最上小国川にある小学校では、川に生息している生き物の調査をしている。身近にいる生き物とかかわることは大事な教育だと思う。生き物に対する配慮、共生などを学ぶべきだ。人がすべての生き物との関わり合いと食に依存している環境が、破壊されていいのかと、問われれなくてはならない。それははっきりしているが、その自然環境が少なくなること、破壊されることへの批判の声はまだまだ小さい。生態系への思いやりはいま最も大きなことだ。動植物の生息に対する人の配慮が体系的に確立されるべきだ。生態系への乱暴な干渉は、人の活動に降りかかってくるに違いない。人ばかりが埒外で生き物の頂点にいるがごときの振る舞いが通るはずがない。

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 協定は県と漁協、最上、舟形両町の4者で結んだ。「県は流水型(穴あき)ダムを建設する」「小国川漁協、最上町、舟形町はダム建設を容認する」とそれぞれの立場を明記。内水面漁業振興に関しては、放流による水産資源の維持と増大、魚類生息環境の保全などを図る―とした。生息環境の維持・向上のための清流未来振興機構も設置する。期間は10年間。
 覚書は県と漁協が交わした。ダム建設に伴い、漁業権が及ぶ水域が減少することに対する漁業補償を漁協が県に要求しないことを確認。漁協は県から依頼された場合は漁場環境に対する調査や監視を誠実に受諾し、県は穴あきダムの穴詰まり対策や濁水対策に努めることなどを盛り込んだ。
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2014年10月12日日曜日

健康でいるのは大変

 血圧の薬が切れたので、いつもの診療所へ行って一応診察を受けて、またいつもの薬を一か月分もらった。今年の健康診断では、尿酸値と肝臓の指数などが昨年よりはよくなっているから、健康体から少しだけ外れているだけだったことに満足していた。さしたる目に見えた努力などはしていないわけだから、どうしてよくなったのか要因は分かからない。飲酒を発泡酒に変えたから?などと思っていたら、飲んでる「氷結レモン」もご飯一杯に近いほどのカロリーがあるのだとか。痛風で10年間にこれまで数回は典型的な炎症がおきた。が、連続しているわけでなくて忘れたころにやってくる。このところはご無沙汰していて、その気もないのがおかしく思えるほどで、そのうえに、健診結果の尿酸値が心配には及ばないとい数値なら、まあいいかとアルコールも控えずに口に入れることになる。

 健康になるために必死になるというほどの執念はそう湧かないし、人生が長くなるほど楽しいことが広がっている日常というわけでもない。むろん自分だけではないことだろうけど。趣味の世界ももう入魂するまでのゆとりはもう少ない。そんなことだから、医者とは「変わったことはありませんか?」「はい同じ状況です」との一発会話でずっと続いている。言われるところの健康を保つにも自分と戦わなくてはならないだろうに、病気になってしまう危険もあっても、そこまで突き詰めていくことがなにか面倒な気もする。概ね健康の領域にいるのだからまあいいかと、毎日にストレスがかからないように突き詰めない。

 だいたいメタボの基準だって、どんなものだろうか。人によっては「骨太」だってあるだろうし、生まれた瞬間からメタボ気味のこどももいる。背丈の差は当然あるし体重にしてしかり。太目であってもと細めの体であっても、生きている間にそれでも健康状態にいるというのはあるだろう。全く同じという基準でごうりてきなのだろうか。いっしょくたにして、総平均でだすというのは乱暴すぎないか。統計的に説明できるならば聞いてみたい。


 ただ、総じてカロリー摂取過ぎの食だから、カロリー摂取が多い生活になっていることには違いない。食べることアルコールを摂取することは、やっぱり楽しみの中心にあるから、長くかつうまく付き合わなくてはいけない。さすがに今はやらないが、「大食い競争」なるもので、食を遊びに仕立てた文化の貧困も、食を大切にしているとは思えない。さまざまな番組に入ってくる食は、おいしいものを先に立ててやりまくる。「ふだんよっぽどまずいものを食べている視聴者にサービスしている」つもりだろうか。「美味しいものが食べたいね」ということも、世の中に起きているストレスが、輪をかけていることもあるだろう。いまは粗食を進めるときだ。「粗食をおいしくつくるには」だったら、うけるのではないか。