2017年8月31日木曜日

ミサイルを打つか打たぬかを測れない、だから…。

 「北朝鮮」に圧力(=武力攻撃)をかけることで、中距離ミサイル・大陸間弾道弾の発射ボタンを止められるのかは、まったくあてにはできない。そう信じようというだけのことではないか。「ボタンを押せ」という選択がどういう過程を経て判断されるのかは、ああだこうだと言っても想像するだけの話だ。始まってしまえば、ベトナム戦争や、イラク戦争のときのように泥沼につかって、何年もかかって継続する財力も乏しくなってようやく「止める」こと到達する。そんなことを繰り返すことは賢明な人間のすることではない。

 対話が必要ということは、アメリカも含めてほとんどの国々も求めている。問題なのは、あいつはやりそうだというムードがふりまかれることにある。やるかもしれないという危険性とまったく同様にやらないかもしれない可能性もあるわけで、どこをとっても確実性はないと言える。

 かつてがそうだったように敵国が「先に手を出した」ことによって、それが嘘でもでっち上げでも誘因になることはあるだろう。だからこそ、無用な挑発などはやらないに限る。日本は憲法により戦争は放棄している。これで戦争はしない国としてスッキリいけば問題はないが、日米安保条約によって基地提供をしているわけであり、自衛隊との共同訓練もする。こうなれば、間違いなく同盟者としての存在で敵国の位置づけをされる。(かつての侵略戦争で恨みも残している)

 そして自衛隊を「合法化」するための憲法改正までやろうというわけだから、かつての戦争が誤りであったという反省どころではない。対話をすることが必要という議論には「対話に行くまでの圧力がいる」と説得を試みる。日本は圧力一辺倒を強調しているとしか思えない。他国からは、武力攻撃に賛意しないとのコメントを受けるにつれて、「いまは圧力が必要」と弁解に回っている。裏を返せば日本(の政府)は「やる気」満々というバカな態度をとっているわけだ。これが一番危険なことではないのか。

 九頭竜川の灯籠流し。「子供たちの願い燈籠」で「世界が平和になりますように」の言葉が見える。




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