2018年12月16日日曜日

勘違いと思えるだけからの飛躍かな。


「来週望年会の会費を集める」ということだった。だのに望年会をやるとすっかり頭に刷り込んでしまった。例会は欠席してハゼつりに行くつもりだったが、ハゼつりは絶不調で、船を出さないことになった。急いで、いまからでも望年会に乗れるかとメールを入れ、都庁近くの例会場所にいくと、例会はやっていない。場所も違っていた。

 頭の中は、都庁近くの中華料理屋で望年会との記憶になっているから、突拍子もないことになってしまった。急いで本来の例会場所の築地に向かった。終えてからの小宴会で笑いの種になったことは、言うまでもない。しかし、ブレーキとアクセルの踏み間違いは、絶対あるよねと妙な確信を共有した。

 帰りに見た「やっぱり築地」のポスターを見て、心が少しほっとした。




2018年12月14日金曜日

奈良の柿みて、一句ひねるというのかモノマネ俳句

 ときどき俳句の「ようなもの」をやってみる。まともにはできないし、季語だの法則だのはわからないのだから、これも己の性癖のひとつで、モノマネに過ぎない。勉強となるとかったるいので、未踏の地としてある。

 冬の銀山温泉に行ったとき、だれもいない朝風呂が災いして「ひねる」気になった。その場では完成品にならなかったが、あとからまた続きの「ひねり」努力をして作り上げた。まえにもブログに書いた気がするが、結構いいんじゃないかなと自画自賛しているがどんなものだろう。

※湯の花を 乱して雪の 一番湯

 それから近所の神田川に散る桜を見て作ったもの。これはもっと推敲の余地がありそう

※花筏 名残とどめて 神田川
※散り際も こころ持たせる 神田川
※花筏 旅路の仲間 そろい踏み


 そして今回の奈良で、とても気になった柿の木を写真に撮ったものだが、写真と題材としてはいいと思ったが、どうも「華」がないようで、俳句めいたものを添えたらなんとかなるかと作ってみた。これは結構あれこれ「ひねり」回した。(句の間は、本当は空けないんだってね)

※奈良小路や 鐘の声待つか 柿ひとつ

2018年12月9日日曜日

奈良で気になって撮っただけの写真5室生寺

 とはいえ、この写真はいいだろ!という「素直な思い」で撮るものだって、それはある。邪な考えもシャッターを押すに十分な動機だから、おかまいなしに撮る。つまり早い話が「へたくそ」だからたくさん撮るというほうが、当たっているのかもしれない。いいさ、写真の合評会でこっぴどく叩かれて挫折感をもつことを覚悟さえすれば、怖いことはない。

 旅の終盤ともなれば、ちょっと疲れ気味の足と頭を励まして、鵜の目鷹の目で対象を探す。今回も結果900枚は撮ったが、パソコンによる処理なので、昔のように写真屋さんにもっていくわけではない。取捨選択も自分がすればよいのだから、そういう意味で自由度は高い。

 やっぱり「数打ちゃ当たる」になるのかな。ちょっと冗漫になってしまったこの項も最後は、室生寺で締めることにした。











2018年12月8日土曜日

奈良で気になって撮っただけの写真4


 奈良の三日目は早朝に出かけで、洞川(どろかわ)温泉の景勝を撮るつもりだった。4人はバラバラに部屋を出て拡散した。皆より遅れて旅館を出て、その方向を眺めるが、どうもその雰囲気を感じないし、川の流れを見た限りでは、そんなによさそうな感じがない。

 仕方なしにとりあえず近くの橋を渡った。するとなんとも大きなお寺の敷地に誘い込まれた。お寺とはそのありがたさがわかることを抜きにしても、長期にわたって保存されている、下世話の変化に動じない態様がある。時間を重ねてほとんど変わらないその古さが、安心感も醸し出す。寺に託された人々の歴史が見えてくるかと、そんな気でシャッターを押した。











2018年12月7日金曜日

奈良で気になって撮っただけの写真3


 自然は取り繕いをしない。鷹揚に自分の定めを歩き、人間にとって厄介な事柄であっても、知ったことではないというかのようだ。そのクールさが我々に警鐘を鳴らしている。

 自然と仲良くしなければならない。「仲良く」でないと作物は実らない。売れ筋の魚を無原則に獲って、再生産が追い付かないままでは先がない。折り合いを付けなければならないのに、「利用」に徹する人間側の身勝手さが、ここまできてしまった。

 人の手がかかって、環境が変容されてしまってもそこから先の時間に,自然がまた自分らしく態度を変えていく。そのとき人の側はなにを得ることになるのか。









2018年12月6日木曜日

奈良で気になって撮っただけの写真2

 生き物の様々な仕草は、その時の一面だけではない。だから、ただの一時を取り上げて語っただけではおこがましい。人が造ったものでも、創造の心は存在するものだろう。それを瞬間で切り取ることができるのか。「駆け出し」にはちょっとむずかしい相談だ。

 気を引くものがあれば、眺めるのも写真に切りとって収めるのも、一瞬のわずかなふれあいの場にはなる。「気」がうまい具合に発動して、最初の一撃になったとき、非常に失礼ながらそれをもって、理解したふうに装うことになる。

 かくして生き物のしぐさも人の造ったものも、その意図のほんの一部を、分け与えてもらえたことになる。不思議さは気を引く、魅力的なものと同等でいえるだろう。これはなんだ、なぜこれが、と想像豊かに脳細胞を動かすとき、心臓がときめく思いに浸れる。









2018年12月5日水曜日

奈良で気になって撮っただけの写真1


 自分が気に入ったからと言って、プロ筋は許してくれない。許してくれなくとも、気になったものは気になったものとして、「自己責任」で人目に晒す場にさらしても怒られはしないだろう。

 すぐれたものだと言われなくとも、目に留まったものだからデジタルの情報写真へ保管しておく。使い道は、たいがいはない可能性の方が高いから、今時の効率本位でいけば、次の撮影対象にあたる方が、よっぽどいいのかもしれない。

 それでもお気に入りを捕獲したのだから、これも楽しみと満足の一つとして置いておきたい。











2018年12月4日火曜日

赤目四八滝で失敗の憂き目

 奈良四日目、最終日の朝、前日の下見をしたときの期待を胸に、三脚をもって出かけた。お土産屋などは無論開いていない。まだうす暗い6時少し過ぎに遊歩道を歩き始め、一番目の滝に着く。

 一番目といえども、上り坂を結構歩いてたどり着いた。担いでいった三脚を下ろして、滝に向かってポジションを決めて、シャッターを押した…。念を入れて何枚も撮影した。だが、しかし、あとで見るとほとんどがブレていた。全く初歩的なミスだった。スマホで撮った滝の写真がかろうじて、滝がまともに撮れた写真になっただけ。

 時間の制約もあり、そこから上には登らずに終えた。名張から奈良へ向かう途中の柿の木が、たわわに実を着けて見事な姿だった。「柿の木はないか、柿の木」と、奈良の風物詩の一つを追いかけていただけに、幸運な出会いだった。