2018年8月9日木曜日

東京中心主義というのも格差の助長かも

 13号台風が東京直撃の報道は実に丁寧にどこのチャンネルでも取り上げていた。ともかくにも異常な気象は甚大な災害を起こすのだから、注意を喚起するに越したことはないと、その限りではうなずける。もう自覚的に状況を把握して避難しろとまでいう。動くのも緩慢になっている高齢者への親心かと思わなくはない。ただ、それでは台風の影響がないところはどうなのということは起こる。

 沖縄の県知事翁長さんが亡くなって、これも昨夜の大きなニュースだったはずだ。NHKの夜の7時、9時のニュースでは枝葉のごとき報道のやり方だったとか。辺野古基地の建設問題に毅然と反対を唱える姿勢は、だれからも一目置かれることだ。

 先日の全国知事会で日米地位協定の改定をという意見が全会一致で決まった。基地問題が政治の課題として浮上してきているのに、知らぬ顔はないだろう。意図的にやらないということが想像できる。

 良くも悪くもアマチュアボクシングの話題は、すべてのチャンネルを制覇している。同一の話題でそれぞれが掘り下げた報道合戦にする。この話題に限らないが、違和感をもたざるを得ない。

 豊洲市場は「安全宣言」をした。シアンの汚染等があるにもかかわらず、ないかの如くのあつかいで、その上豊洲市場の使いかっても酷いものと言う声が上がっているのもかかわらず、この報道がほとんどないのがこれまた不思議なことだ。結果として「問題ない」という扱いにしている。ことがどんなに「真っ黒」であっても、なんであっても指摘の対象としないのは、現政権の有り様と酷似 している。

2018年8月2日木曜日

ゴミを溜める人になるか


断捨離とはヨーガの行法が元になっているとのことで
断:入ってくるいらない物を断つ。
捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。 
離:物への執着から離れる。
 と、ごく普通の整理のやりかたが律されているように見える。当然と思いつつ実際のところ、家のモノが増えていっているのは間違いのないことなので、少なくともタグ付けして減らしていく作業は必要なことだといえる。

 この有り様の原因について、
「日本では伝統的に“もったいない“という観念・考え方があるが(これはこれでひとつの考え方・価値観ではあるが)、この考え方が行き過ぎると物を捨てることができなくなり、やがてすでに使わなくなったモノ・将来も使うはずがないモノなどが家・部屋の中に次第に増えてゆき、やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて心身の健康を害するほどになってしまう。」
というテーゼとして語られている。

 しかし、「もったいない」と考えることが「心身の健康を害するほど」にまで断じてしまうというのはゆき過ぎのような気もする。動くことのおっくうさを感じる年になると、日常のゴミであるもののほかに不要なものの除外化をするのは、作業として負担になってくる。だからこそ必要なことと言えるのも確かだが、子供たちの様子を見ると、長時間の仕事でろくに部屋にいる時間がなくて…ということもある。年齢の事情だけではない。

 いらないものを買うことはある。消費すること自体は、人間の本性と言ってもいいのではないかと思う。仕事して得た成果で、なにがしかの満足を得ることをなしにはできない。よしんば無駄だったとしても、モノが自分の所有になったことの満足感ということもある。見分けて買わぬことには異議はないが、それはかなり難しい。

 「もったいない」は、時とところ、例えば後進国から見たら、やっぱりもったいないを不文律にしなくてはならない。先日水道の蛇口が壊れて、部品をようやく購入して修繕した。日曜大工程度でなおせるものは今はまずない。トイレの流しも同様で、業者を頼むのが当たり前のような作りになっている。だから家にあるいらないものを捨てるというのは、ある意味当たってもいる。ノコギリも金槌もいらなくなるわけだ。でも本当のもったいなさがどこかへ、なくなったかのようだ。

不動産屋の宣伝がある~
ー5.2畳のワンルームはスッキリしたレイアウト。カーテン代わりにしつらえた布がゆるやかで明るい空気感を醸し出すー
「ものの少なさ」が5.1畳のくらしでも可という、「明るい暮らし」に使われようとは…


2018年7月31日火曜日

ブログのネタ思いつくどころでない暑さ


 ウォーキングのために外に出ていくのが、最近おろそかになっている。おろそかというよりは、気概がなくなっている感じだ。第一暑いのだからよほどの用事を理由にしないと出かけにくい。このところ所定外のことが様々あって、ぐうたらしていたい気分が先行している。かとは言え、ひところのようにテレビのスイッチをいれても、つまらなくて見続ける気もなく、またスマホの交流サイトを眺めるようになってしまう。

 ちょうどパック入りのアイスコーヒーを切らしたので、思い切って夏空へ飛び出すことにした。パック入りコーヒーは無糖と微糖という二種を混合して飲むことにしている。微糖をなお薄めるのだから糖分摂りすぎにはならないだろうという理由付けだ。これに牛乳を入れて、カフェラテにする。

 昨日も「思い切って」でかけ、いつものコーヒー店に行って買おうとしたら微糖しかなかった。せっかく20分歩いて店に着いたのだから、その微糖パックを購入して、店でカフェラテを飲んだ。そして今日は残りの「無糖」を買う大義をもってまたコーヒー店に向かった。

 コーヒー店はこの暑さ故かほぼ満席の盛況だ。携帯電話を使って、なにか仕事の話をしている客がいる。2度も外に出て行ってはなにか指図まがいなことを話している。それが入り口付近でやっているので自動ドアが反応して、開いたり閉まったり。そのたびに暑い風が店に飛び込んでくる。電話一本で喫茶店事務所代わりにしているようにも見える。ウォーキングをしながらブログのネタを考えるのがいつものパターンだが、暑くてそれどころではない。腹立ちまぎれにブログのネタにしてやることにした。

2018年7月27日金曜日

滝沢で動きまわった二日、クワガタが現れる


 浮世の付き合いが終わると、さまざまな手続きが残される。人が生きているという大きさと広さが実感される。残されたものが責任をもって片付けるのは世の習いだが、結構な仕事があるものだ。負の遺産がないだけ幸いに思わなくてはならないだろう。

 面倒を見てくれた従妹と話をしながら、庭に植えてお気に入りだったミズキ、桜の木がやせていっていることに、なにかの因縁を感じさせる。ミズキは年を追うごとにやせてしまって、木の上の方は申し訳程度の葉しか生えてこない。ひところは勢いがあった桜は、根元のあたりに虫が入ったのか、かなりの痛手を負っているようだ。16年前になるかブナの苗木を1000円で購入して植えたが、これだけはすくすくと育った。

 岩手山麓のこの土地は、ザレ場に土を盛ったところなので、平地に育つ樹々では環境になじまないのだろう。一時白樺もあったが、あまり成長が早くてほかの植木と競合して、処分されてしまった。

役所と金融機関の手続きで一日を使い、翌日の朝にブナの幹に立派なクワガタがとまっているのが見えた。これまで一度も見たことはなかった。もしかしたら「化身」かと、一瞬思わないでもなかった。


2018年7月23日月曜日

暑いときは「暑い」と言って避けた方がいい

 ラジオで、「暑い、暑い」と言わないようにしようと言っていた。ひところと言ってもだいぶ昔だが、我慢が大事と言う観点で「暑い」と言わないことが、美徳みたいにされてきた。落語もこの点は笑いの対象になっていた。心頭滅却すればなどということは、目下は通用しないだろう。

 集中的な豪雨も熱波も、これまでの常識を覆す気候はすさまじいばかりだ。小学校にクーラーがないのが当たり前だったころよりは、いくらかはクーラーが設置されるようになったものの、予算がないからとおろそかにされているところもけっこうあるようだ。

 新一年生の小学生が、暑い中行列を作って公園にいくなどの行事が、気温が高くなっても「中止できない」という状況は、なんだかわかるようであっても、人命を尊重する点からは改善が必要だろう。今までとは違ってきているのに、今までと同じ常識で対応していては、問題解決にならない。31度にもなったら我慢も何もない。ひたすら避難することに越したことはない。

 御嶽海が夏場所優勝したが、面白いと思ったのは練習を軽減しようとしているらしいこと。6場所をこなす力士たちは「労働強化」にあっているようなものだ。だから「休み」をとることが、体力維持のために必要なことということだとしたら、何かうなずける。横綱、大関が多く休場ということは、「お休み」を真剣に考えた方がいいかもしれない。

 大鵬は場所中にホテルの「冷房」のなかで眠って体力温存したという話を聞いたことがある。

2018年7月17日火曜日

釣りの夢だったのか

珍しく夢を見た。いつも夢はみたことがないのに珍しいことだった。夢とは脈絡がないものだと思っているが、人によっては具体的にみることもあるのか、義父の場合は事細かに話すことがあった。今朝は夜中に暑くて目が覚めて、冷房の温度を一度下げた。そのせいで7時過ぎまで寝こけていたので夢を見たのかもしれない。

 渓流で行水をするつもりで水につかっていたのが夢の最後の部分。自分を入れて3人がなにか大きなチラシの構成を考えていた。場所は山中のようだった。真ん中編に入れる文章を直すため、あれこれと言う一人がいるのだが、言っていることが難しくてわからない。経過はぬきにして最後は旨く行ったという筋立てだった。それで水浴び…だったのかもしれない。

 その場所は伊豆半島だったのが飛んでいる場面だ。それも狩野川でなくて南に流れる川だった。うっすら目が覚めてきていや南に流れる川はなかったよなと一瞬思いかけたが、ぼんやりとしていながら目が覚めるにつれて、いやあると思い出した。ハゼをよく釣りに行った青野川だった。

 なぜこんな夢を見たのだろうと、すっかり目が覚めてから思った。親父の散骨をしようと依頼し準備をしているが、海のほか粉骨した一部を岩手県の、「釣りをした川」に流してあげようかと話していたので、それが展開したものだろうか。「わからなかった文章」は読書会の本の内容が影響したのかもしれない。渓流での行水はたぶん朝方汗をかいたからだろう。脈絡がないとは根拠がないわけではないので、こうして思い返せるうちはまだ大丈夫だろう。



2018年7月14日土曜日

ブログの拙文を見直す、恐ろしや

 文を書くのは怖い。人目に晒すのだから当たり前だが、いちいち伝わる内容にするのには、エネルギーを使う。「書かなければならない」という切迫感は、自分の中では「健康を保つ」ことの位置づけがあって、ともかくブログに書いてしまえば、安堵感が得られる。なにか「ナントカ依存症」の一種なのかと思うところもある。

 毎日が日曜日である身で、メリハリと自己目的を持つのが健康法になると、あえて身を置くことを選んでいる。しかし、面倒なことでもある。自分が撮った写真をホームページに搭載しているが、構成に改善を思いついたり不十分さを見つけたりして、新しいサイトへ引っ越ししたことが何回かある。昨日、古いサイトが残っていないだろうなと、念のため検索していたら、そのサイトの引っ越しについて、自分のブログに書き込んでいるのが見つかった。

 読んでみると、なんだこれはと言うような内容だった。大筋間違いではないが、その表現たるやお粗末なものだった。ブログの下書きが出来上がったら複数回は読み直すようにしているのに、気が付かなかった。恥ずかしさを感じることなく、今日まできてしまった。今考えるとわからなかった期間は「恥」を感じなかったのだから、恐ろしいことだ。文章はもう一度手を加えて直しはしたが、今更手遅れだろう。恥はかいた方が「反省」ができていいと、反省よりは開き直りながら、次のブログのテーマを考え、健康維持に努めよう。

2018年7月12日木曜日

肉親がいなくなる寂しさとはこんなものか

 肉親がいなくなる環境などとは考えてもみなかった。正確に言うと、肉親がいなくなるだろうことは具体的でないにしろ予想した。予想はしても実際にその立場に入ってみるのと、その違いはずいぶんとある。自分の生きている位置を確かめるのに、時間がいるのだろうか。

 あれこれの思い出があって、良し悪しは別にしても自分の周りを形成していたのだから、いなくなって開いた穴を埋めることはできないことだろうが、これも身のうちとして、自分となじませなければならないのだろう。恨みつらみもないわけではないが、それを思い返しても今は意味をなさない。ひとこと言ってやりたかったことの思いは残っている。

 子供の頃の少ない思い出がある。金が欲しくてたしか千円だと思うが、財布から盗んで雑誌を買った。残った金を七輪の下に隠した。もちろん見つかって、がっちりお説教だったか、殴られたかは覚えていないが、金を隠した時の心臓のドキドキを覚えている。それからタケノコを盗んだ時。近所の竹林にでたタケノコを盗んだとき、なぜかこのとき罪悪感はあまりなかったが、怒られて家出をした。といっても近所で隠れていたのをすぐに見つけられて、首を抑えられて家に戻ったことが記憶にある。「窃盗」の思い出だが、それ以降人様のものに手を触れたことはない。念のため。

2018年7月6日金曜日

岩手山麓の仙人逝く

 移り住んで15年、彷徨の終焉がきた。温泉が出ぬかと採掘の手出し、山ブドウの養殖はと夢を追いつつ、岩手山麓に岩魚つりで遊んだ親父がついに身罷った。

 90歳を過ぎてからも、暖炉用の薪割りをものともせず、大雪にもひるむことなくシャベルをふるった元気さは、いつまで続くのかと周りの人たちは一様に驚いていた。今になって思えば、転んでも転ばなかったフリをする自尊心の高さも、これまでの糧になったのかもしれない。

 それでも着々と近づく終焉のときを想定して、自分の写真を撮れと言い出したことが思い起こされる。仙人とはいえ聖人にはなりきれなかったのは、今は過去の場面としてしまっておくことになるだろう。残された写真を整理しながら、親戚への思いがあったことがわかった。それは十分伝わらないこともあったやもしれない。

 その先どこへ行くのか、海への散骨を言いだし「‐家」の墓にという話にも答えずのまま、旅立ちをしてしまった。後は頼むということなのだろう。そう解釈するしかない。家族と言う単位の姿には恵まれなかったが、それだからこその山麓暮らしへの入れ込みだったように思う。

 好きだった釣りは一番の思い入れがあった。これを通じて甥姪とその子供たちへのかかわりが、温められていった。それは救いだった。80歳を過ぎてからもナンプレに挑戦し、数えきれないほどのジグゾーパズルを完成させ、家じゅう隙間のないくらい掲げた。ここに生きてきたと思うに十二分な足跡だった。

2018年6月28日木曜日

天候がおかしい。「雲行き」が変なのは日本の政治も。


モリカケ問題は終わりだとか、そういうムードが広げられている。積極的には「まだやっているのか」という言い方もあるが、まだ済んでいない。世論調査でもそう思っている人が圧倒的に多いのだから、そこのところ新聞もテレビ報道も「忖度」はないのかな。

「そのうち忘れる」のは旨い具合に使われて、ドンファンの事件、日大アメフト問題、ワールドカップ「盛り上げ」と、元自衛官殺人と絶え間なく続く。米朝の会談後は、とりあえずとしても、ミサイル騒動はおさまった。それは結構なことなのに、あとは旨く行かないだろうと、なんとなく「評価しない」ムードを醸し出す。

うまくゆかないのは「交渉」を疎んじる日本政府だろう。圧力一辺倒でやってきて、米大統領が止めると言った後、「対話」に切り替える。北朝鮮に軽く見られると思わないのだろうか。しかし「対話」が本意だとは思えない。拉致問題に「やりたくない」との観測もある。どこまでも敵対状態であることが優先されて、イージスアショア購入や「防衛費2%」へとつなげたいねらいもあるだろう。

 モリカケで追い込まれて、開く国会では姑息にも憲法改正のための法案も強引に通す策をとっている。「働き方改革」と称する残業野放し法案、アメリカ企業のためのカジノ法案も同様に、どんなに問題があってもすり抜けて成立させようという腹だ。今月は国民健康保険の通知がきたが、目をむくような額になっている。区役所には電話が殺到していることだろう。こういった話題は表に出てこないのはおかしい。テレビを見ていると「洗脳」されてしまうみたいに思えてきた。




2018年6月27日水曜日

写真展会場のJCIIの助け舟で無事終了

 写真の展示作業は、会場の担当者がやってくれるのでとても助かる。展示の作業はかなり手数がかかる。自分たちでやる場合は集中してやらないと、きちんと展示することができない。写真と写真の間隔や高さの統一にこまごまと気を使うと、大仕事になる。この仕事を実に丁寧にこなしてくれるので、高齢者軍団にはとても心強い。
 今回は少々疲れた感じだった。毎年年を取るのだからしょうがないのだが、やっぱり気持ちの方がこれまでと同じようにと、動いてしまうからとわかってはいるのだが。





2018年6月25日月曜日

パソコンにたまるファイルを断捨離 その2

 身の周りに徐々に積みあがる「ゴミ」は不思議と増殖していくみたいでもある。よくテレビで報道する「ゴミ屋敷」とは、なんだか身近なものになってくる気がする。そのゴミは同様にパソコンの中にも増殖がひどい。

 頭の中に入れることとどめておくことが、だんだん困難になっていく現在、とっておいた方がいいと「思う」ことはついつい、保存してしまう。NET検索時のブックマークにはじまって、NETの記事の保存=Keepと丸ごと保存できる=Evernoteには保存する情報が増え続ける。

 増えていくのは交流サイトで紹介される「情報・知識」なのだが、これは毎日のように増えていく。何かに使えるかもしれないという「貧乏思想」を、美徳みたいにして生きてきた成果がここに出てきている。このゴミの行き先がどうなるのかを思うと、まったく非生産的なことでしかない。

 迷惑をかけるようなことはないが、NET上に「浮遊」を続けるゴミとして、その重さがNETを利用している人々の負担となるのだろうか。できるだけ無駄なゴミは処分するのがいいはずなので、断捨離にかけることにしなくてはと思ってはいる。そうすれば、たぶん使っていないソフトの使用法を研究することにもなるだろう。

2018年6月22日金曜日

パソコンにたまるファイルを断捨離 その1

 先日とうとうOffice365を使い始めた。ようやくそのソフトの使いようがわかってきた。しかしさすがに便利な使いようになっている。一番すごいのがワードを開いて編集すると、「自動保存」ができることで、これはGoogleドキュメントの方式とおなじになった。こうなれば途中でパソコンの前から離れても大丈夫と言うことだ。

 編集したファイルは1TBのクラウドに保存できるし、パソコン側のホルダーに同期されるので、スマホからも参照可能と言うことになる。パソコンの使い始めの頃(10年以上前)は文字を書いて「保存」作業を忘れてしまい、文書紛失することがままあった。文字を書きこむことに一所懸命だったから、それはショックだった。

 そういう経験をしていることから、解放されたということになる。今は書き込んでから保存しないことはあり得ないし、そのままソフトを閉じようとすれば「いいかい?」と表示してくれるから心配はないようになっている。でも手間が省けるのは違いない。

 ファイルもクラウドの「1TB」に保管できるし、ワード、エクセルなどのソフトもクラウド上のものになるから、バージョンアップの費用が不要になるという計算になる。本当に低廉かどうかは、「使用料金引き上げ」ということもあるから不明だ。それによって、月々の使用量が1000円ほどかかってしまう。でも、2台のパソコン、2台のタブレット、スマホに導入可能だから、それまで含めるとお得感はある。ワード、エクセルのファイルをクラウド上に保存しておけば、タブレットやスマホでどこからでも参照できるし、編集も可能だ。

2018年6月20日水曜日

日米いつでもどこでも相合傘の不幸


 地上の楽園バリ島がプラスチックのゴミでひどいことになっていると報道がある。
昨今、バリ島のビーチは観光客などが捨てるごみにより、かつての面影が感じられないほど無残な姿をさらしているという。 

 そんな現状に危機感を抱いたバリ島は、ついに「ごみ緊急事態」を宣言。美しかったかつての姿を取り戻すため、民間による島からごみを取り除くプロジェクトを始めた。
一方、イベントの計画に携わったRima Agustinaさんは、「このイベントは単にごみを回収するためのものだけではなく、バリ島で何が起きているか知らしめ、理解を求めるためのチャンス」という。

12時間もの間ごみを回収すると、多くの人が考え方を変えます。彼らは、たった一度きりの使用で捨てられてしまうプラスチックごみは、利益よりも害悪をもたらすのではないか、と考え始めるようになるんです」と。






2018年6月16日土曜日

いろいろある刺激が後ろから押してくれる

 義父の3回忌の法事を終えた。月並みだが早いものだと思う。裏を返せばその間、ほんとうは「忘れがち」という事実もないわけではない。だから法事が大事にされるということかもしれない。恩とか義理とかといったかつてのつながりの残りが、ホンワリと家のあちこちにある感じがする。家のなかでお互い空気の一部みたいに影響しあってきたのだから、形はなくなってもそこここに何かが残っているだろうか。

 昨年は岩手に行っていたので、できなかったグループの写真展に今年は参加することにした。準備に時間を割くことになって、外に出ていくことが多くなった。今回は作品のプリントを自力でやったので、その限りの満足感だけは持てた。額装を終え展示会場へ作品を送り込んで、展示会の案内ハガキを渡したり送ったりする「宣伝」も終えた。

 その合間をぬって、つりの会のホームページの更新をやったが、ホームページはスマホでも見られるようになっているので、その見栄えも改めて試しながらのことで、ちょっと手間がかかった。

四谷界隈で



2018年6月13日水曜日

先週「サクランボの会」の宴会で新宿の飲み屋に集まる

 時間通りに約束の場所に集まって、一人来ないけど予約の店に行こうかと、エレベーターに乗るところで、その予約の店が違っていたかと不安になった。そのビルの2カ所の飲み屋をよく使うので、どちらだったかの「度忘れ」だった。メールのやり取りでは、店名をしっかり書いていたものの、メールを打った時の勘違いと言うのもありうる。店は7階と8階なので遠くはないから、確かめて予約は間違いはなかった。一人だけ集合場所にいなかった人も、もう座っていた。予約した店の食べ物は、しっかり空いたものが多いので選択したんだったなと、後から何気なく思い出した。違っていたもう一軒の方は、1月に別の宴会で利用したところだった。最近はこの手のうっかりミスが増えて、飲み屋の予約程度のことでも、こんなことになる。もっとも、アルコール摂取で、能細胞の死滅が起こるそうだから、その回数のたまものということでもある。ところでその「サクランボ会」で11月に旅行にと言う話がまとまった。またそこで脳細胞を失うということは、全く自覚していなかった。

2018年6月4日月曜日

鳥なら高い木の上、蟻なら地下でもいいけど

 70人ほどのこじんまりした会場で、素敵な歌を楽しませていただいた。余韻を感性に残しながら、当然の成り行きで一杯やろうということになった。時間が早いから「専門店」が開いていない。日中からやっているレストランで、過ごした後もう一軒行こうかと雨のそぼ降る中を歩き始めるが、渋谷駅周辺は変容すさまじくなおかつ工事中のところがあって、かつての心おぼえの場所に行きつくことができない。

 工事にあたっている人に聞いても、通常の道を聞くのと違って、難解なことになる。やむを得ず引き返して、看板を目当てに集合ビルの店にようやく入り込んだ。渋谷駅周辺の地上地下の改築はすさまじいもので、大概の人は迷路の中を歩く感じになるらしい。渋谷区に住んでいる人でさえそう話しているし、かつての職場に行っていたときの様子とはまるで違っていて、恐れをなすというほどだ。こんな「街づくり」が望まれているのだろうか。



 













2018年5月30日水曜日

股関節、温泉療法効き目は如何

 暑くなったら高尾山に行くのは大変なので、今月あたりで休止にしてまた秋の再開かと話していたが、股関節が少々痛むのでそれなら温泉にするかということになった。NETで娘が調べて一日前に割引予約。場所は山梨県富士川町の十谷(じっこく・じゅっこく)の「秘湯の会」宿。富士川の支流大柳川のかなり奥まったところだった。

 翌日早朝に渓流沿いの遊歩道を下ってみようと、早起きして6時ころ歩き始めた。早起きと言っても、前日はアルコールを「適量」摂って早い就寝だったから当然の成り行きだ。歩き始めはこころもとなかったが、しっかりと整備された道だった。結構深い渓谷をつり橋が連続して、右岸左岸に渡りながら流れをみられるようになっている。

 惜しむらくは川に色が少し濁り加減だ。小さな滝状のツボには泡が周っている。森閑とした山道を歩くのは気持ちがいいが、つり橋が揺れるのがちょっとイヤな気分。橋に乗ると景色が見通せるので、写真を撮るときに動くと余計気になる。もしかして自分は高所恐怖症の気があるのかと、今更思った。ずっと下って、前日寄った大柳川の公園に行きついて、そこから舗装道路の上り坂を宿まで歩き、8時の食事時間ギリギリに宿に戻った。高尾山に行った時と同様のウォーキングになったと笑った。







2018年5月26日土曜日

釣りは釣れなきゃつまらない。でも釣具屋がなくなって。

 外来魚を釣って駆除する催しがあり、我孫子まで出かけた。釣りは久しぶりで、道具を物置から引っ張りだして、仕掛けや針、長靴、帽子、偏光眼鏡など揃えた。そこまではよかったが、ブルーギルの釣り餌にする「サシ」を購入しようと、いつも行っている高円寺駅近くの上州屋に行ったら、なんと閉店の断り書きが…。1月で閉めたとのことだ。とうとう住まいの近くでは釣具屋は皆無になった。

 近所でも知っているだけで2件あった釣具屋はとうになくなっている。釣り人口が減っているのが原因だろうが、第一の原因は魚が釣れなくなっていることだ。若者が忙しいことがよく指摘されている。それどころでない労働環境があるだろう。

 それに在来魚の生態系かく乱する外来魚繁殖の影響も大きい。最近、ブラックバスやブルーギル駆除の活動が盛んにおこなわれている。「池干し」などが効果的だが、やるのは大掛かりになる。最近では井の頭公園の池干しが、行われよく報道されている。電気ショックで浮かせて獲るのは皇居の濠で実施されている。これを「釣り」対象として駆除しようという趣旨だ。

 もともと釣りは対象魚を特定してするという文化に到達しているから、そのつり技術はよく発達している。その技法を生かさない手はない。ビンドウだとか網などでの方法も有効ではあるが、釣りであれば狭い箇所でもすることが可能だ。我孫子の四つ池とはNECの敷地内にあるのだが、生態系の保護活動に理解をしてくれて駆除活動をしている。

午前中3人が釣ったブルーギル





2018年5月23日水曜日

物忘れを指摘するコンピューター

 自分流に解釈するとそうなんだろうと、曲がって受け止める。先日、合唱曲のCDを焼き付けることを頼まれた。相当前にやったことはあるが、今のコンピューターではDVDドライブなのでCDを受け付けない。しかたなく、ノートパソコン用の外付けCD,DVDドライブを引っ張り出して、やっとコピーできた。

 Windouws10のソフト対応もそうらしいのだが、CDはもう「絶滅危惧種」なみの扱いになった。音楽を聴くのは今やスマホだから、CD利用は「卒業」間近な状態だ。合唱曲CDは再生に音楽用CDプレイヤーを使うということだから、我々年代の生活には現パソコン環境は、一般的にはなじまなくなっている。つまりそんなにパソコンを使う生活になっていないのだから、Microsoftさん他が新しいシステムやソフトをどんどん出していただいても、そんなに効用がないということだ。

 ところで合唱曲CDコピー以降、パソコンを立ち上げるたびに、「ディスクへの書き込み準備ができたファイルがあります」とバルーン(知らせ)が現れるようになった。どうしたものかと思っていたのだが、これをNETの検索にかけてみようと思い、やってみたら見事にヒットした。一時ファイルで残っていて、それが「お忘れになっていませんか」のごとく現れるのだ。なんという便利さだろう。CD作成の終了時の扱いが足りなかったということらしい。

 昨夜はテレビの「おはようタイマー」を切って寝たので、強制的起床はなく自然に目が覚めた。いつもと頭のすっきり度が違っているようだ。それによってか、頭脳の回転もいい。なんだ、問題解決へは結局アナログ生活が大切ということかと…。NETの検索を使うと便利だよと、簡単に言葉に出すことが多いけれども、身についていないということを思い知った。