2022年5月9日月曜日

忘れるのも自然の摂理?

 寝る前にマスクがないのに気付いて、懸命に探したがみあたらない。無呼吸症候群の治療ということで、毎晩寝る前に着用しているものなのに、どこへやってしまったのか。床はもちろんベランダをみても見当たらない。やむを得ず今回は装着しないで寝ることにした。

 翌朝になって明るく見えるのを幸い、もう一度見まわしてみた昨夜とおなじところを探したら、ベランダ出入り口脇に置いてある、竿たての束の上にちょこんと鎮座しているのを見つけた。シーパップのパイプとマスク部は毎日洗浄して、風通しがいい出入り口のカーテンに、洗濯バザミで止めて乾かしていた。布団を運び出すときにカーテンにぶつかって、飛んでしまったようだ。

 ぶつかってなにか飛んだなという気がしたのに、布団を手すりに掛けたあとは、そのまま忘れていた記憶が今頃蘇った。記憶がよみがえるだけまだいいか。でも、翌日に整形外科へ行って、「マスクしていない」と指摘された。「ああいけねエ」とハンカチで顔を覆って、マイクロ波の治療にかかっていたら、看護師さんがマスクをもってきてくれた。こんなに、注意力が散漫になるのは脳の働きなんでしょうね。どうしたって起きてしまうのだから、自然の摂理だよなどと言い訳をして、あまり突き詰めてないことに。笑うのが効果的かもしれない。

これをパイプをつけてし器具から空気を取り入れる



2022年5月2日月曜日

能登の間垣は重要文化的景観だったっけ

 今年の写真展も、ついに3回目の中止になってしまった。月一の例会をオンラインでやってきて、撮影した写真の披露交流と、現像技法を中心にした勉強することが、ある程度できた。ただ、自分の写真の取捨選択をすることが、十分にできないことで物足りなさが残っている。

 それはやっぱり顔を合わせた例会でないと、解決できないようだ。自分の撮った写真の思いやりとこだわりがあって、次に撮っていく動機にもなるのだから、なんらかの批評のコメントに出くわして、整理がついていくものであるのに、肝心なところが解決できない状況だ。

 3年になろうとする新型コロナ蔓延社会で、苦労を被る人をさしおいて言うこともできないが、先を考えたときに、この環境を変えて動かすことができるだろうか。ともかく愛好家としての範疇、「趣味プラスアルファ」=楽しみから逸脱したままで、みっともなく鎮座をするだけのことになるかもしれない。

 写真展作品をと、以前に撮ったの写真を見直して、能登の写真を引っ張り出してみながら、通ったころを思い出した。また行くことは難しいかな。








2022年4月21日木曜日

毎日ウクライナの惨状を見て戦前と重ねる

 ウクライナの惨状を毎日テレビで知らされて、日常の「平和」(?)との乖離をこれでもかと感じさせらている。平和とはと、上段に構えて説法などできないが、生まれる前の年には15年戦争が「敗戦」という歴史を踏んだ。これおも「終戦」という言葉に置き換えて、かつての侵略行為への反省をろくにせず、戦争を軽んじようとする意図が、いつまでも続いている。

 再び侵略をしてはならぬという憲法のしばりをもって、日本は今の位置が保たれているはず。それを顧みることなしに「侵略」に抗するための武力や軍事同盟を強化するということで活路を開くという、1920世紀の時代スタイルを持ち込んだままでいこうとする愚行。

 ロシアに対抗する「民主主義国」の装いをこらしても、アメリカが縦横無尽に「他国侵略」してきたことを帳消しにすることはできない。他国を侵略することをさておくことはできないと思うのは、テレビに映し出される例えようもない状況。大量殺戮、破壊を止める意思が全く見えない。

 あれこれフェイクニュースをまき散らして、これも日本が武力侵略をしていた頃と同じ轍を踏んでいる。国内の反戦世論を押さえつける屁理屈とウソ以外はない。もう「攻撃の目的」もなにも、理屈も説明も不存在なのだ。戦争はそういうもの、地上にあるもの生きているもの全部をないものにしていく。その結果は考えたくもないが、生き残った人々の膨大なエネルギーと、財力と時間が費やされる。「合理性、効率性、安全性」がまた一から始まる。

 しかし、それは織り込み済みで戦争継続している節もある。始めてしまったら終えようのない麻薬のようなものかもしれない。その意味でも「敵地攻撃能力」などという代物は願い下げの「ゴミ箱削除」行きがよい。名称を変えてよいとするのは、プーチン流「軍事行動」と同じだ。

どれだけの人々の血が…



2022年4月17日日曜日

ここだけの話、内緒の場所でフキ採り

 例の場所でフキを摘んだ。ちょうど食べごろのフキの葉が、立派で辺り一面に生えて、元気な姿を見せている。生え伸びるのもとても速くて、元気さを分けてもらいたいものと思った。

 いまどき山に入れば、山菜がどんどん伸びているだろうな。特にフキノトウ、コゴミは雪解けの地面から飛び出しているだろう。渓流釣りを盛んにしていた頃は、解禁になった川沿いには必ずなにかを見つけたものだった。魚が釣れなくとも山菜で…という自然の恵みの時期だ。

 その時は、ワクワクしながら太陽の光を感じて、春先の実感を味わうことができた。いまは夢で山菜取りに行く以外は、新潟の業者から送ってもらうのみになった。

 茹でてアク出しして、調理して口に運ぶ作業はあっても、春先の自然に入って自分の手で触れて採るという、肝心でぜいたくな時間はまずなくてつまらなくなった。元気さを分けもらうことができるのは、自然が一番なのだろう。

 新潟の破間川支流に早朝つりにでかけ、山中で突然人に出くわしたことがあった。クマかとびっくりしたが、山菜取りに入ってきたのだった。山菜は朝早く採るのが常道なのだと、そのとき学ばされた。自分だけの秘密の場所があったりする。ある意味「競争」意識があるのかも。内緒の場所でフキを摘んでそんなことを思い出した。

アクがついた




2022年4月14日木曜日

昨夜寝しなに眺めた都庁は「ウクライナ」

 都庁のライトアップは、その都度ごとの「政策テーマ」をとりあげて実施しているのだとか。それは何?と聞かれてそうかと納得できるようなことなのかと疑問が湧く。

 今は「ウクライナ」キャンペーンらしい。ウクライナ支援という意味だとは理解できないわけではない。電気代は12000円で予算化しているらしい。新しく予算をとったわけでないとの断りが都民ファースト議員から表明されている。たしかに新型コロナでもそれはあった。時たま都庁を眺めて「ああウクライナの平和だよね」という気になる人もいないとは言わないにしても、プーチンの残虐な殺戮を毎日テレビ映像で見ていて、何とかならないかと誰でもが思うことで、都の政治としてライトアップでございますと言われても、何か浅薄さを免れない気がする。

 だって、「何色のスイッチ、これだよね」と指一本で平和を願うなどとは、あんまりではないか。世界の首都の長に呼び掛けて、ウクライナで起こされている、言葉にも表現しにくいほどの非道行為を、断罪するくらいなことをできないものだろうか。



 

2022年4月9日土曜日

新型コロナウィルスは変異して生き延びているのに

 中野区のホームページに「新型コロナウィルス感染症相談の流れ」があった。あくまでも「相談」という辺りが全般の中心になっているが、医者にかかるまでのハードルが高い。

熱がある場合は、かかりつけ医か東京都、医療機関案内、中野区の相談窓口に電話をして支持を受けるとあり、症状によって医療機関に受診するのか自宅で様子を見るという扱いになる。相談して医療機関で感染が疑われる場合は検査を受けることになるが、この場合、検査料は無料になる。検査の結果で感染者になれば施設を紹介されるのが基本とされているが、軽症であれば「自宅でどうぞ」ということになる。

症状がない場合は厚生労働省、東京都、区の相談窓口へ電話をしろとのこと。しかしこれは。本人が接触したと自覚されるか、自主的な検査によって感染者となっている場合もある。いずれにしても「かかりつけ医、医療機関」への連絡、その指示に従って受診可能になる。これは症状がないわけだから、自宅で様子見にならざるを得ない。

保健所職員や医療従事者の負担がこれで軽減とも意図はわかるけれども、だったら対応するための充実策が問われる。多少の策をとった例は報道しているが、足りていないということだろう。これまでの反省も教訓も放っておかれている。検査を充実させることは考えられていないし、「経済のために」という殺し文句で、コロナとの共生を迫られているようで、納得できない。

 

中野区の場合



倉持先生は「最悪の状況」とツイッターで




2022年4月6日水曜日

5月の写真展、またしても中止の憂き目に

 第6波の感染者数の波が引かないうちに、また上げ潮に転じているかのようで、世界中で増加している感染者が日本でも例以外ではない感じがする。

 写真ゼミのメンバーに感染者が2人出て、幸い立ち直りはしたものの、一人はクラスターで大変なことになったとその経験談を聞いた。写真ゼミ例会をオンラインでやっているなかでの「近況」で知らされたことだった。二十数人が参加しているゼミで、毎度近況を報告するうち身近な人の感染は時たま話されて、だんだん広がってきているという実感はしていた。だけれども、今回は本人が感染したとの経験が紹介された。

 経験者から話されたことは、かかわっていたグループから感染者がでて、検査したところ50名が「濃厚感染者」となった。ご本人は、自主的に自宅待機しているうちに熱が39度でてきたけれども、医者との相談で相談の結果自宅で様子を見ることになったという。一週間ほどの寝込んでしまい、食事も「吐き気」を催すほどの症状があったとのこと。

 ショッキングな状況を聞いて、このまま展示会開催でいいのかという気分になった。ワクチン接種を3回しても感染は免れるわけではないし、感染を疑っても検査は自己責任でせざるを得ない。熱が出ても医者に診てもらうことなしに家で様子見ということは、保健所の業務と医療体制の崩壊の状態が、続いたままの「自宅放置」なっていると思わざるを得ない。若年層の感染が増えて、高齢者の場合は基礎疾患者が危険な状態になる可能性が高い。このような状況下で写真展をやるのはどうかということで、意見を出しあった結果「実施する熱意」はもありながら、やむを得ず中止としようという結論になった。(4月7日一部訂正)

フキが育って元気







2022年3月29日火曜日

街をテーマにしようと思ってはいるが

 これはどうか、あれはどうだと写真展の作品を洗い出してみていても、なかなかこれはということにはならない。早い話が「いいもの」がないということかな。「いいもの」の基準が自分の中には備わっていないのがなによりの原因なのだろう。どんなに稚拙であっても、その稚拙さが自分でわからなければしょうがない。「いい写真」を下手な鉄砲で当てる確率は、腕達者な人よりはずっと低い。選択の基準はまだまだ自分には持てないし、シャッターを押す技量も足りないのだから、勉強あるのみで辛抱強く学んでいく以外はない。そんなことをブーたれている間に、己の店じまいが先に来たりして。







2022年3月24日木曜日

「ざわつく街」としゃれた言葉でも、写真展作品にはちょっと

 撮った写真を見直して、写真展の展示作品をだすということで、選んでみた組のうち「ざわつく街」というタイトルをつけて、中野の姿を表現しようと思った。でも組んでみた写真は、十分にテーマに迫れていないということで、再起ということになった。変容していく街をガッチリとらえるという「写真集」には物足りないし、もう少し丹念に追及すべきだった。

 東中野前の一角にある「昭和の街ムーンロード」は、再開発で地上げの猛攻にあったが、「営業権」を認めさせる最高裁の判決を勝ち取った。ほんの数百メートルの「飲み屋街」の場所だった。その地域のコミュニティの長年の運動だったが、それを取り上げて表したいと思った。
 
 もう一つは“森林の伐採”だった。平和の森公園は、
 「2015年3月、田中大輔区長(当時)が公園内に体育館と陸上トラック(競技場)を新設する改修計画を発表。2018115日、多目的広場で立木の伐採を開始したことから、同年216日、中野区の住民5人が中野区長を相手取り、公園価値が低下することなどを理由に住民訴訟を起こした。同年6月に行われた中野区長選挙では、公園の改修計画も争点の一つとなり“平和の森公園を守る”ことを公約の一つにした酒井直人が当選。新区長は、住民説明会等を通じて陸上トラックを取り下げる変更案を策定し、20193月の区議会へ変更案を上程したが議会は僅差で変更案を否決。区長は、計画を当初の案に戻して公園の改修工事を進めることを表明した」とウィキペディアで紹介されている。

 ここに「バーベキュー広場、競技場」のために、貴重な森林を伐採するという愚挙がごり押しされた。これも大きな問題で、こんな中野の街の「ざわつき」を表すにはちょっと数枚の写真で表すことは無理だった。

昭和の街ムーンロード(3枚)



平和の森公園森林伐採(2枚)


中野新橋神田川の工事





2022年3月18日金曜日

痛い膝から脱皮できるか

 ここのところは痛み止めを飲んで、湿布をつけて寝ている。状況を話して夜に効く痛み止めを追加で飲むことになる。ヒアルロン酸注射を左右ともやってもらった。足の状態が総体として悪化しているので、手術をした方がいいかと相談する。方法が複数あるとの説明は聞いていたので、そのうちの人工骨をつける手術かと覚悟していた。

 とはいえ少々の不安はあるし、先生の勧めもあって「再生医療」でやることになった。自分の血液の血小板血漿を培養して、注入するという方法。軟骨が少し残っているからやってみる価値があるとの説明だった。7割方うまく行っているということだったが、自由診療だから先生はやりたそうに思えた。

 人工骨を入れる手術の方が確実に痛みはなくなるらしいが、治療の簡便さからはその前の選択肢としてどうだという。

 家に戻ると医師から、採血の日は土曜だったが、変更できないかとの連絡があった。特に用はないから了解して六本木まで行く。現地でスマホの案内を見るが案内がおかしくて、逆の方角に歩いてしまい、所在ビルの配置がまた分からなくて、回り込んでようやく見つけた。かくして都合8600歩になり疲労困憊。高層ビルなどの構築物で電波がおかしいのかな。予定の土曜日でなかったのは幸い。これだけの歩きは久しぶりで、この歩数だとあとに痛みが出て祟っている。

となりの庭のフキノトウに花が咲いた。11月に芽を出して1月の冷え込みで枯れた後、また芽吹いて再生したよう。自然の「治癒能力」にあやかりたい。公園の河津桜とボケは満開。







2022年3月13日日曜日

写真のまとめで選んでみた「散歩道」

 陽射しが強くなってきた。春先の陽気によるものもあるのか、ロシアの残虐なウクライナ侵略の映像を連日みて、気持ちが落ち込んでくるような気がする。とはいえ撮った写真を見返してなんとか展示の作品を選び出さなくてはいけない。昔のものも加えて眺めてはいるものの、撮った写真の思い入れから、なかなか抜け出せないのが欠点。最も身近な近所で何度も押したシャッターから、切り取ったものが思い入れのなかで右往左往しているだけのようで、我ながら困ったものだと思う。「散歩道」として引っ張り出してみた写真は、「町への愛着、おもしろさが足りない」ということだった。悪くないと思うんだがなあと率直に思うのだけれども、やっぱり「思い入れ」から抜け出せないのだ。この写真群も選外の憂き目に。







2022年3月3日木曜日

写真展の作品、撮った写真の見直し「発眼卵 埋設放流」

 写真ゼミ例会で展示会に出す作品の選び出しをしている。そのためいくつかの候補群を出した。立派な写真がたくさんあってという具合ではなくて、撮り散らかっているものの中から「立派であるべき」ものを引っ張り出すという作業なので、断捨離みたいなもの。

 いらないものの取捨選択を自分ができないものだから、組み写真で無理やり何種類か候補を出してみたということ。情けないが、そんなここともある写真の面白さは深いものだと思う。それは写真には限らない。例えば「華道」であっても時代に相応したものに変化があるだろうし、その美の表現は発展して変容していくのだろう。

 「そうだよ、これだ」という評価をしてもらえれば最高の喜びにもなろうが、それは「高み」の話で、そんなことにも望まないにしても「まあ、そんなもんか」、という言葉でもいただければ望外ということにするのが身の程ということだろう。

写真展候補で引っ張り出した一つは「発眼卵 埋設放流」

 所属しているつりの会(東京勤労者つり団体連合会)で、毎年「発眼卵 埋設放流、かご回収」活動をしている。自然保護をとの観点を釣り活動の大切な活動の一つとして40年近く続けている。こうした記録的な活動は、ここに限らないが釣りの会として日本全体ではそう多くはない。

東京都島しょ水産センター(旧奥多摩分場ニュース)の記述

「ヤマメ発眼卵埋設放流は、平成10年から多摩川上流部の奥多摩漁協、小河内漁協、氷川漁協の放流事業の一環として実施され、それ以前からヤマメ発眼卵の自主放流を行っていたJFF(ジャパン・フライ・フィッシャーズ)東京都勤労者つり団体連合会、東京渓流釣人倶楽部の三団体が放流作業をボランティアとして行い、水産試験場奥多摩分場が技術指導を行うという二機関と3つの釣り団体合同での実施となった」

  御多分に漏れず高齢化の波で、事業継続が難しくなってきた実情がある。「発眼卵 埋設放流」事業につりの会として初動からボランティアとして携わったことは特筆されてもいいと思っている。自然保護の見地を先駆けとして40年近く前から取り組んできたのはその意味で大きな誇りともなる。

 この写真が記録として残せないかと、引き出してみたが、組み写真の表現や魅力にもうひとつ迫っておらず、候補選外となった。写真展に向けてという意図での撮影としては、ちょっと物足りなさがあった。残念。






4月のかご回収のとき、流れに浮いていた。成長したものなのかどうか不明。



2022年2月28日月曜日

フキノトウがまた芽を出した

 今日で2月も終わる。というと時の流れが早すぎる嘆きセリフが続く。己を水に例えれば「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に合わんとぞ思う」てな具合に、のちの夢か希望にこころすることならいい。でも、そうは問屋が卸さない。急く我が身の末は、治療の大小の岩に阻まれて、先がどこにあるのかさっぱり見えないのだから、夢と希望は棚の上。だからメタボリックは怖いよと言っただろと、どこからか聞こえてくるのは、もはや夢想の域かな。

隣の庭のフキノトウ、また芽を出した すごい!

昨年11月半ばに芽を出したフキ。暖かさに早く出てきたかと思っていたら、1月になっての雪で、枯れてしまった。2月に入ってからまた芽を出した。自然は偉大。

11月15日


1月8日


1月12日


2月15日


 

2022年2月27日日曜日

「侵略戦争はやめろ」がキーワード

 ロシアによるウクライナ侵略があって、プーチン大統領の能書きを聞くと驚くばかり。「(ウクライナ政権に対して)クーデターを起こせ」とまで言う。停戦にはウクライナの武装解除が条件と?それならロシアも武装解除するのが筋ではないか。独立国家に対するやり方がこれ?これじゃ野生の熊と同じだ。欲しい餌はとことん追いかける。こんな野蛮なやり方が、21世紀にあっていいのだろうか。

 どうしたら止めさせることができるのかが、問われるときにその点に突っ込んだ論調は、テレビからはあまり見て取れない。ここにきてようやく、ロシア国内でのデモがされているとか、日本でも在住の「ウクライナ、ロシア」の人たちのデモが行われていることが紹介されている。

 武力でない解決がもっとも重要なことは、日本の憲法からも当然なのに、この機に乗じて「敵基地攻撃能力」を持つことが大切だと、触れ回る連中もいる。武力行使はダメなことはもちろん、そのための戦力増強は、「いらない」とした日本の憲法が戦争を「起こさない」という意志と、平和を導き出すことに腐心していることに、憲法はすごいものと改めて思う。

 憲法を順守する態度でいけば、日本は最もふさわしい発信力を持っていると思う。日本が日本国内での「声」がまた少なく感じられる。今は皆で「侵略をするな、やめて」の声を発するときなのだろうと思う。世界のあらゆるところで声を上げることが、一番の「戦争抑止力」だという気になってきた。

 ようやく暖かさを少し感じるころになった。医者の帰りに公園に寄ってみた。平和は戦争否定の上に成り立っていると公園を眺めながら思った。 







2022年2月21日月曜日

5月30日からの写真展に向けて

 2年の間、コロナのおかげで写真展がやれなかった。直前で感染拡大の状況で中止になって、作品をサイトに載せて何とか記録として留めたものの、やっぱり発表の場がないことにはまとまりが付かない。今回はなんとかこぎ着ければいいと思う。

 絞り込んだ写真を眺めて、撮った当時の思い入れや出来事を思い出す。どちらかと言えば素人筋(自分のこと)であることからちっとも抜け出せないで、写真の良し悪しを目の前に突き付けられるのだから、ある意味つらい作業にもなる。それでも繰り返してやることで、いくらかはましな写真を撮ることにつながればよいと思う。この時世で、撮影に行くチャンスが少なくなり、そのうえ膝の痛みに邪魔されて歩くことが重荷になってきた。作品にするものを選び出さなければならないので、前に撮ったものから見直して、あれはどうかこれはいいかと、パソコンの前で眺めている。今回はモノクロでということになっているので、現像をし直して、タイトル候補中から決めて5~6枚の組を作ることにしている。

タイトル候補1 ヤマメ発眼卵 埋設


タイトル候補2 神田川

タイトル候補3 能登

タイトル候補4 山形県金山町

タイトル候補5 奇習 加勢鳥