2025年2月9日日曜日

八潮の陥没は特殊ではない「都市災害」

下水施設の老朽化に対して検査が追い付かないという。修理のための工事が遅れていると指摘されている。事故が起こるまで事実上放っておくことになっている。素人ながら思うに、巨大な下水道管に流れ出ていた土砂が見過ごされていたのかと疑問がわいた。何かの前兆がなかったのか?あれだけの「空洞」があったことに気づかない?関心を持って調べていないということなのだろうか。

原発事故の時には放射線の検査をするために処理場に堆積した処理物を使ってやったことがあった。流れてでたものを処理して川へ流し込んでいるシステムが「完全自動」に近いものなのかなと。人の問題もあるのだろうが、前兆がとらえきれなくて、積極的な検査体制もなかったとなればなおさら対応のお粗末さを考えなくてはならない。

「安全性」にコストをかけないことが当たり前のようになっている状態で起きていることではないか。老朽化した橋梁を架け替えしなければならないのに、順番をつけて「あきらめる」自治体さえあるらしい。交通機関で起こる「点検により」止められる列車も日常茶飯事に起こっている。点検は事前に周期的にやるものでなかったかと思う。

高層ビルがこれでもかというほどあちこちに建設されているが、下水処理量も飛躍的に増えることを考えると、都市のリスクが増えていくことになるのだろうか。アルプスに穴をあけてリニア新幹線を作り上げることが本当に必要なのか?資金を必要とするところが多面的にあるのに、国の資金(税等)をそこに当てるようなことではやっぱりおかしいと思う。

昨今の集中豪雨によってマンホールの蓋が開いてしまうことは多発している。昨年8月には新宿西口のマンホールの蓋が10メートルも吹き飛んだことがあった。その四か月前の4月に新宿区は「雨水流出抑制対策へのご協力をお願いします 最終更新日:2024年4月25日」を区のホームページに出して雨水流出抑制計画書提出の要請をしている。

都市化により雨水が地面に浸透する面積が減少し、下水道施設や河川への負担が大きくなっています。また、近年の台風や集中豪雨の増加に伴い内水被害が発生しており、河川や下水道整備とともに、各施設に雨水流出を抑制する浸透・貯留施設を設置する流域対策が重要となっています。このことから、新宿区では総合治水対策の一環として、新宿区雨水流出抑制施設の設置に関する要綱に基づき、建物計画の際、雨水流出抑制計画書の提出をお願いしています。







2025年2月7日金曜日

カレンダーが4つになって余計に忙しい?

年末は毎年撮った写真でカレンダーを作っていた。なんとか作ろうと気にしながらとうとう12月中に時間が無くなって、購入するしかないかと考えていた。正月に家族で温泉に行った折に、フロントに置いてあったカレンダーが持ち帰りOKとのことだったので、ちょうどいいから確保しておいた。

ゼミ講師が毎年作っているカレンダーの注文をしたので、複数手に入ることになった。その後一月末に、以前に釣りの会で一緒だった方が、船宿のカレンダーを持ってきてくれて、十分すぎるほどになった。広くない家のあちこちにぶら下げることになったが、曜日も日にちも忘れがちになるので、役に立つだろうと思うことにした。

日常、スマホのカレンダー登録に、予定を書き込んで一日に数回みる(予定が頭に入らない(´;ω;`)ウゥゥ)という「作業」もするのだから、都合自己管理に大したエネルギーをさいていく勘定になる。これじゃあ余計に時間がたつのが早く感じるようになってしまうかな。なにせ月末には4枚のカレンダーをめくらなくてはならない)

昨年12月にパソコンの不調で、修正しようと作業をして、とりあえずは使える状態になったものの、やはりいくつかのことでひっかかってしまっている。当面はこれまでの動かしはできるが、ソフトのバージョンアップができない障害が起きている。「再インストール」するしかないかと、「まっさら」になったときのために、バックアップの作業を始めた。バックアップに相当時間がかかっている。もう2月だから、全部の修正が終わるのは一か月もかかるだろうか。そこにかかわっている分また時間が過ぎていくのが早くなるのか。 🤣



2025年2月4日火曜日

侵略的外来魚から生態系を守るシンポ

外来魚対策をもう一歩進めようという趣旨のシンポジウムが滋賀県の琵琶湖のほとりで開かれた。琵琶湖では外来魚を釣ったらリリースしないで駆除の箱に投入してと、59か所に入れ物が置いてある。国や自治体の対応に甘さがあって、遅々として外来魚の繁殖が抑えられない。蜜放流と呼ばれる「拡散」に有効な手立てがとられないでいる。そこでもう一歩進めていこうという趣旨だった。

滋賀県の取り組みも漁業者の生活を守るための施策が進んでいるが、これは全国の中では特別といっていいのかもしれない。当釣りの会のように、外来魚駆除つりを実行しているところは全国ではない「希少な」団体なので、発表してくれとの「重い荷物」を背負わされることになった。

当会のようにフナ、ハゼ、ヤマベ、ハヤ、海タナゴなどの小物を釣る会として、日本の文化と伝統を引き継いでと宣う会はほかに聞いたことはない。江戸時代からのつりの伝統が現在も残されているが、外来魚の繁殖によって廃ることになるというあたりが訴えどころとみて、パワーポイントを使って資料を作り上げた。発表は慣れないことゆえ、2人力でやらせていただいた。












2025年1月30日木曜日

風邪ひく間もなくお忙し

あんまり寒さも感じなくなっているのか、鈍いのか体調がもひとつ芳しくない。家にいると暖房付け放題みたいなことで寒さは遠ざけているけど、今度は本格的な寒波がきているのだそうで、慣れない温度調節も温度計をしょっちゅう見ながら、体調保持につとめている。昨秋は喘息の状態が続いて元に戻るのに時間がかかった。体調を考えてインフルエンザもコロナの予防接種も受けて、備えはしたつもりでも、やっぱり体調は落ちてきているのはいかんともしがたい。

先週あった大荷物をおろしてまた、日曜日にはもう一つ山を超えなくてはならない。外来魚駆除のシンポジウムがあって、つりの会では珍しく侵略的外来魚駆除に取り組んでいるので参加してとの要請があって、現役連中から頼まれてやむなく参加することになっている。

週初めからパワーポイントで資料作りを始めて、ようやくなんとか出来上がった。出来上がったものは46ページあって、20分ほどの時間に運用できるのかと少々心配だ。1ページ当たり26秒とは無理なんじゃなかろうかと。過去に1回だけしかやっていないし、その時は相当時間がかかったことを思い出して、少し減らすかなどと相談をしている。あと二日間で調整してみよう。

日曜は関東に雪が降るとかいっているが、こんなときに試練が続くことになりそうな。くしゃみが出てきたけど、忙しきゃ風はひかないかな。京都の先の琵琶湖近くまで行くのに、日帰りになるとか。ちょっと寄り道などと頭が巡るが、一緒の仲間の人と別行動というわけにもいかない。それに相当寒いだろうし。



 

2025年1月26日日曜日

25日合唱団の演奏会が済んで

合唱団の演奏会が25日にあった。睡眠時間が少なくて集中力も落ちていながら、数日練習レコードを聴きて譜面を眺めていた。当日になってしまって、もうしょうがねーと開きなおって会場へ向かった。午前中にステージで練習をして午後からの本番が始まって、だいたいは練習に近いことができた。(と思うけど)ところどころでつまずいて、お隣さんの音声に助けられた。演奏会までの練習も(高齢ゆえ?)の難しさもあったし、復習も思うに任せなかった。

それゆえ歌の良さを感じ始めてから本番までの期間は短いものだった。演奏会が終わって振り返ると、歌った曲の歌詞の味わいと解釈がこころに残った。曲は評価できるほどの力はないけれども、その構成は多様で生き物のようだ。歌詞のほうは実に素晴らしい。もの見る表現が感動をもってくるような言葉が随所に使われて、全曲の歌詞が日本語のみということからも、日本の言葉の凄さを感じさせられる。

「歌」で世の中が変えられるのかなどとうっすらした疑問が頭な中にずっとあったが、演奏会の感想などでの反響を思うと、言葉は伝えられるという確信がちょっと出てきた。ここまで引き上げていただいた先生とスタッフ一同に感謝です。





 

2025年1月22日水曜日

元気が出るのは新しい環境がいいのかな

高齢者に限るわけではなく誰でも、元気をだすのは「新しいこと」への挑戦が刺激になっていいのかと思う。断捨離を日々心配しているだけでは、「先」の楽しみと夢がなくなってしまう。そんなこというまでもなく、当たり前に考えていることなのかもしれないが、なにせ「つれづれごと」があふれている毎日ではおぼれているようで、息まで苦しくなってくる。

一路後退の道にいくのはあんまりだから、ジタバタとして延命策を考えるのは、希望までにはいかないが当座のやりようとしていいのかもしれない。そんなことを思った写真グループの例会だった。どこの会でも活動が縮小気味で、新しいメンバーをとの思いはあっても、会員が増えることにならない。それで、他会と合同で例会をやろうということになった。

少し緊張気味になるのが幸いして、持ち寄った写真の数も多かった。4月に写真展をやることで会場も抑えられたので、展示作品を選び出す作業が、いつもより集中してできた。やはり「観察眼数」が多いので、様々な見方が出されて充実したものになった。

立川の地で開催する写真展で、実のところ作品を運んでいくのもどっこらしょ状態で、大変だという気持ちが先行していたけれども、賑やかな合評会で力をもらった感じがする。合評会が終わってからの交流会でも、この勢いでやっていかれればいいなと思えた。他会主催の例会にも参加しようかなという気にもなった。かくして、またしても断捨離をものともしない勢いだった。新しい環境とは刺激的で罪なものだ。 




2025年1月19日日曜日

くしゃみが災いの元でなく?

最近、寒さを強く感じて暖房をよく使う。以前はなるべく省エネでとしていたのに、今は耐えられない感じになってなった。朝トイレに行くにもしっかり身支度を整えてから行くようにしている。それにしても、場所が場所だから露にする部分があるのだから長居はできない。

でもそこで新聞を読むのが長年の「たしなみ」で、一日の始まりとしては大事な行事でやり方を今さら変えることは考えられない。くしゃみはそれだから遠慮会釈なくでてくる。朝方だからどこまで聞こえていることやら。

目が覚めた時に鼻づまりを起こしていて、シーパップの影響ではないかと思うけど、鼻詰まりの解消のために反応しているのかと思う。一昨日の診療のときその旨を話したが話題がそれてしまって、相談にはならなかった。

暖房で温かくなるとまた鼻が詰まってくるやっかいなことで、空気が冷たいと通りが良くなる。そのために外に出わけにもいかないし。もう花粉が飛んでいるとのテレビ報道があって、そうかその問題もあるなと気が付いて、昨年残っていた花粉症の薬を飲み始めた。これで少しでも収まってくれるといい。


 

2025年1月16日木曜日

面倒を避けたいけど押しかける「広告」

スマホの交流サイトでも、大量の広告を見せられる。この人にこういう広告はどうだろうと、AIを使って入ってくるらしい。フェイスブックで友人になっている人が、ある広告に「いいね」をチェックすると、友人が見ているよと知らせてくる。正直興味があるものがないわけでもない。クリックして覗いてみるとたいがいは、程度の悪い商品が紹介されていることが多い。何回も見ていると大方は餌に食いつく魚のような気分にさせられる。

消費を促すと言えば聞こえがいいけど、ひっかけるような手法は釣りだけでいい。出てきた広告が「イヤ」であれば、×印からやめさせることはできる。しかし興味がないなら別の広告を入れるというわけだ。こちらは「物忘れ症」に取りつかれているから、忘れていた必要品を思い出させてくれる効果がなくはないが、余計なお世話だと思うほうが多い。必要ならNETでいくらでも検索できる。

迷惑メールもだんだん手が込んで、うっかり内容にアクセスしてしまいそうなこともある。このところ携帯への迷惑電話もくる。番号通知をして正義面をして電話にださせようとする。固定電話は我が家ではついに、「録音する」とコメントをだして直接の応答はしないことにした。電話は相手の番号を記憶するか、電話帳に登録してそれ以外は出ないようにする手しかない。

ソーシャルメディアでは「ファクト」(事実、真実)でない情報が世の中で大手をふるっている。嘘や悪意を先行させれば、正義も何もあったものではない。アメリカの政治も危なっかしいなと思うが他人ごとではない。兵庫県知事の選挙、都知事選の結果は、NETの力が影響をしているのだろうし。民主主義が危ない。そうすると、厭世的になって放り出すというわけにはいかないのかなと思う。でも、物事こなすのに面倒くさいことになっている年寄に、どれだけのことができるのかを思う自分がいる。




2025年1月13日月曜日

志あれば、いくらかの力がでるかな

断捨離を心掛けつつも、なかなかできないものだ。できないのも年のせいにして、働きの鈍い頭と手足を動かして、「抵抗」を試みる。そんなこと考えずに気合を入れてという気持ちの切り替えも、なにか少しずつできなくなってきた。いままでやってきたことを、さっとちょん切ってしまうことも、いいのかなあと別の声も聞こえる。いい加減にしろと折り合いをつけることなく、「めんどくさい」とさようならをする手もあるんじゃないかと思うこのごろ。認知症の気は感じても手足は動くし、食欲もあるからその限りではまだ健常者には違いない。

今月は合唱団の「65周年記念の演奏会」を控えて、練習も大詰めになってきた。「自習」をしなけりゃ間に合わないから、気にだけはしているけどほかにやることもあるし、子供のころの「勉強前の鉛筆削り」みたいにぐずぐずとしている。今はスマホのレコードアプリで音声記録ができて、スイッチさえ入れれば聞くことができる。これが、いつでもできるとなるとまたサボリの虫が動くし、困ったことだ。

でも、練習しているときは、難しいとか理解できないと感じて、ともかく楽しくなかった。それが、練習を重ねて慣れてくると、歌う曲の良さを感じるようになり「楽しさ」がでてきた。合唱がぴたりとはまると、曲と歌詞のすばらしく心地よさが広がる。かつては、この楽しさや心地よさがよく感じられたものだったが、今はここまで来てやっとその境地にはいることができた。じつはもうだめなのかとあきらめかけていた。暗譜が要求されるので頑張ってみるが、やっぱり危ない感があって難しい。



2025年1月10日金曜日

「年賀状じまい」は誰のせい?

日本郵便によると、発行枚数のピークが2004年用の445000万枚だったのに対し、今年は107000万枚。元日の配達数は2022年が103000万通だったが3年で半数以下となった。同社広報部の担当者は「SNSやメールでのやりとりが主になっている。特に今年ははがきの値上げが大きかった」。昨年10月の郵便料金値上げで年賀はがきが63円から85円になった影響を挙げた上で「年始のあいさつを送り合う文化を残していくためにも対応が必要だ」と危機感を口にする。(東京新聞1月7日)

そりゃそうでしょう。「明治20年(1873年)前後には、年賀状を出すことが年始の恒例行事」となったとのことで、それから150年もお付き合いしてきたものだから、正月文化のひとつとして生活に溶け込んできていた。しかし、「年始のあいさつを送りあう文化を残していくために…」といわれても、35%もの値上げをしておいてそんなセリフはない。それこそ民営化などしなければ、これほどのことはなかったのではないか。

社長は郵政、総務官僚出身

千田 哲也(せんだ てつや)は、日本の実業家であり、かつ、郵政総務官僚。株式会社かんぽ生命保険代表執行役社長を経て、20236月から日本郵便株式会社代表取締役社長兼執行役員社長

赤字でもなんでもない郵政省を解体して民間事業体に変えてしまい、官僚が天下っている組織だから、庶民の痛みなどは考慮の対象はなっていないのだ。まさに日本文化の破壊ではないかな。交流サイトでの挨拶に変えられることほど軽いことでないし、こうして無理やり変更をさせることで、日本の文化がなくなっていくのは、時代の変遷と片付けていのだろうか。










2025年1月7日火曜日

宿のお湯がぬるくって

 冬の温泉はとりわけ魅力があって楽しみにしている。宿について温泉につかってから、夕食前に飲むアルコール類がパターンになっている。最近は缶酎ハイが多いが、乾きものを少しつまみながら、旅一番の至福の時を過ごす。その分、宴会時のアルコールが抑えられる。部屋に持って入った荷物を定位置において、すぐに温泉に入った。ところが湯の温度がいやに低い。かなりじっくり入ったのに、温まらない。女性陣が貸し切り風呂にいったら、やっぱり同じようだったらしい。ああ、これじゃ楽しみが半減だなとみんながっかりした。

 風呂はシャワーのお湯がぬるいと話を聞いて、洗うのは部屋の風呂でということだった。部屋の風呂は最近新しく作った風で、檜風呂(一人用)になっている。仕方なく部屋の風呂で温まることにした。夕食を終えてからも翌朝も温泉には入る気にもならなかった。そのうえ朝は雪がちらついて、温泉が余計に恋しい。

 冗談で話した日替わり温泉にいくアイディアがまとまって、車で出かけることにした。それでも宿のタオルは隠してフロントを抜け出した。少し遠かった温泉は、先頭に近い感じだったが、料金410円とうれしい値段だった。ついでにいつものパターンの道の駅さがしでスマホ検索。行ってみるが正月休みで営業していない。ねばって探して安曇野の「風穴の里」にようやくたどり着き、昼食のソバにありついた。

 宿へ戻って何の気なしに温泉にいってみると、なんと昨日より暖かくなっている。41度ちょっとくらいはあっただろう。日帰り温泉代410円を宿に出してもらおうかの冗談は立ち消えになった。




2025年1月3日金曜日

2日から奇跡の9連休に参戦

 我が家のメンバーがそろうのは2日。温泉があれば食事はなんでもいい派と温泉と食事を両方満足したい派が一堂に会して、美ヶ原温泉に出陣。出陣とは穏やかな言葉でないが、参戦よりもいいか?しかし今年はなんとかして戦争に歯止めと思い願う。このままいけばの先は考えたくもない。安全保障で軍備と軍事の拡大といっても、社会方負担増や値上げにさいなまれる日常生活の「安全保障」はどうしてくれるのか。経済成長があってとの幻想は、もう消費期限はとうにすぎてる。せっかくの与野党逆転。びしっとした政府追及に腰を入れてもらいたい。この正月も平和であってこそのこと。






2025年1月1日水曜日

2025年さんにご挨拶「ことしもお手柔らかに」

新しい年の良さは何かといえば、刺激的なところがいいのだと思う。新たな気分で、あれこれやると意気込むような「歳」ではない。できうれば、なるべく安穏で気楽に、のんべんだらりと暮らすのを夢にしたい。とは思えど旧年にはパソコンの不具合にあって、三日くらい復旧作業に取り込まれた。大晦日になんとか目鼻がついたので、〈BSテレ東〉で年越しカウントダウンコンサートを楽しむことができた。アイーダ凱旋行進曲の演奏が終わったその瞬間に2025年の幕開け、カウントダウンの仕掛けお見事でした。

めでためでたの若松様よ


この民謡は、もとになっているのが「伊勢音頭」なのなそうで、江戸時代に何回もあった伊勢参りブームによって全国に広がったらしい。「伊勢音頭」は「荷物にならない伊勢土産」ともいわれているのは、うなずけること。能登では、「『七尾まだら』の歌詞はね、『めでためでたの若松様よ、枝も 栄える葉も茂る」たったこれだけの歌詞なんですよ。まだら始めてから終わるまで
410秒の間に手拍子77回 叩く。』」と紹介されている。ものに歴史ありというか、全く知らずに、故郷山形の民謡だと思い込んでいた。恥ずかしながら、新年に開眼!めでたい。

「目出度目出度の 若松様よ 枝も栄えて 葉も茂る」

2024年12月31日火曜日

災い転じて福となす?でいくか

 パソコンを初めて触ったのは20年も前になる。仕事の道具で使うのでないから、誰にせかされるわけでもなく、好きな時に好きなだけやることで、ほぼ遊び道具として動かしてきた。日記と買い物レシート書き写し、新聞の切り抜きスキャンが日常の仕事となり、ブログ書きが2011年から始まった。写真を扱うことになってパソコン使用の領域が広がった。撮影した写真を取り込んで現像、プリントをこなすようになって、パソコンも酷使され続けている。

 ホームページ作成を曲りなりに教えてもらい、その更新も加わってきたら、忙しくなってきた。指図を自分でやってきたのだから、文句は言えないし、なにより⋯自分のノウミソに刺激をさせるのも主要な目的なのだから、健康のためが大義になってきた(と思いたい)。

 そうとは言え続けることを日常の課題として、ここまでやってきたものが、ここまできたのはいいとしても、動きの鈍くなったノウミソには酷なことになっているのかも。パソコンの不具合は、助けを写真ゼミの先生にお願いして、解決の方法を援助してもらった。そこから解決の糸口を教えてもらって、どうなるかと気にしながらやってみた。判断できないところがいくつも出てはきたけど、試行錯誤をしつつだいたい解決方向が見えてきた。

 20年もいじっていながら、いまだにわからないことがたくさんあって、よくよく「深くて面倒」な道具なんだと今更ながら思う。それは専門家が束になって開発にかかっているのだから、あたりまえではあるけど。スマホも同様だけど、どんどん仕様がかわっていくから、そこに合わせて使っていくのは、簡単とは言えない。若者のとりつき方がぜんぜん違って苦にしていないように見えて、「年寄」には少々扱いにくさがあることも確か。我がノウミソの動きからして同じようにはできない。

 2024年がどんな年だったかは、日記と首っ引きで見ないと思い出さないから、もうテレビを見ながらつまらないことは振り返らずに、「福よ来い」としようか。

写真は池に沈んだ落ち葉 頭のなかもこんなかな


 

2024年12月29日日曜日

暮れを忙しくするのは誰だ

 なぜかざわざわしてくる暮れの時節。働いている人方は年末の稼働時間が少なくて、契約の完成日に遅れないようにとか、年内決済へむけた支払いのためなどに駆け回っているかも?支払い「困難案件」も、ものみな値上げのなかで、どれだけになるものだろう。

 江戸時代の大家の家賃取り立てには、店子が手段を駆使してしのぎ大晦日を迎える。除夜の鐘が鳴ってからは「とりあえずの保留」になって、新年を迎えれば松の内は安穏に過ごせるという(落語の話)。我が人生のつまらない経験をひきあいにすると、債権回収は、三が日明けなら(油断しているから)「押さえられる」という事例があった。権力機関にあるものがあらゆる「合法的」な手法を使って「債務回収」を実行することはまったく常識のようなことになっている。

 その常識の発信先は、働く場の有り様に起因しているものだ。ブラスかマイナスか、効率的なのかどうか、成績になるのかならないのか、事業のために、そんなモノサシが当てられて、背中を押される。その結果は想像するまでもなく、強いものが立場の弱いものをたたく図式が成り立つ。たたかれるほうに原因があるとした浅薄な結論では、今の世の中不幸の連鎖しかない。「しばらく許されよ」の場面は成り立ちにくい。

 けれども、そんなスキマのない社会は、いい世の中といえないだろう。逃げ道のない蟻地獄になっているのではないか。新しい年をむかえていくらかでも希望が持てる未来があるとすれば、「助ける政治」であることは疑いのないことだ。来年こそ日常生活の「安全保障」をしっかりお願いしたいもの。

 長浜公園(熱海の先)でみつけた桜(2024.12.18)










2024年12月27日金曜日

パソコンの中のお掃除失敗

 暮れにきて整理するつもりが、散らかしてしまった。パソコンになかのドライブ(引き出し)にしまってあった場所が、かなり多くてあふれそうなので他の「引き出し」に移そうとした。方法がわからず少し迷ったけど、例によってNET検索を使って調べた結果、移動そのものはうまくいった。ところがそのあとに付随することで、余計なことをしてしまい、二重にファイルを保存するハメになった。
 
 ディスクトップ(パソコンの初期画面)にすべてのファイルが表示されてしまい、それを削除するとファイルがなくなってしまうという厄介なことになった。これは自力ではできなそう。とりあえずの作業はできるので、支障はないがなんでも知ったかぶりをしてやってはいけないなと反省。
 
 写真は、先日伊豆にいった時のもの。何回も伊豆に行っているのに修善寺の「寺」を訪れたのは初めてだった。お寺の写真をとるときにはいつもお賽銭をあげるのだけど、ここにきての不幸は金額が足りなかったせいかな? 







2024年12月25日水曜日

理不尽さには「削除」の力がいる

 物事がうまくゆかなくて、最初に戻ってということがよくある。日々の人生でも元に戻したいことはしょっちゅうある。近頃パソコンやスマホを使っていて、アプリの使用でどうするのか分からなくて迷うときには、試行錯誤の末最後には削除とかアンインストールだとか、初期化とかで修正する。経験や慣れにもよるのだろうけど、「間違ったらどうしたらいいのか」をわかりやすくしてもらうことが大事だと思う。人間生活の常識で判断できないことがしょっちゅうある。デジタルの構成だから仕方がないとしても、人間の道具にして使えないというのが壁として大きい顔をされては困る。

 やみくもな方法で試してはうまくいかないと、スマホをたたいてみたりする。気の短に気付くことはあっても、「削除」でこの世から抹殺する怖さをその時は感じない。もう少し前の時代であれば、間違っても修正することに、もうちょっと鷹揚に扱うことができたし、周りも直すことに寛容さがあった気がする。

 デジタル社会に無理やり付き合わされた挙句、マイナカードを使えと「ポイント」という名の金でつられて、健康保険証まで無くされるという理不尽さは、なんとも許しがたい。こんなとき「削除」の言葉が欲しくなる。民主主義の世の中では国会で修正するしかないから、選挙結果は重大だけど韓国民の「合法的平和的な意見表明」のように、理不尽さを削除する方法で、圧倒的な世論をつくることが日本でもいるよなと思う。どれだけの理不尽さがあるのか、ひどい日本だなと思う。その「筋」にはやりたい放題じゃないか。💢








2024年12月23日月曜日

大掃除しなくちゃ、でもいい加減に

 大掃除という一大行事も結構な仕事に感じるようになって、手抜き気味のやり方になっていく。集中してやるという気が薄れてしまって、困ったことになってきた。なにせゴミのもとになるものには年中取り囲まれている。新聞の切り抜きあり、月刊雑誌あり、その他生活にかかる購入物ありと狭い部屋が余計に狭まっている。気合を入れて「捨てる」こと抜きには整理ができないと思ってはいるものの、これが難しくて進まない。たまにやっても毎日やるというわけにもいかない。

 それに加えてパソコンとスマホのファイルがゴミの予備軍として増え続く。気軽に保存できるのが、なにか整理がついたように勘違いしてしまう。記念写真と同様に、あとから見返すことは多くはなく、後に「廃棄」の作業を待つ運命が」待っているだけになる。作り上げたホームページが10本以上あり、撮った写真の数は7万を超えている。場合によっては、パソコンは電源を切ってしまえば、他人に使われることはまずないし、相続などにかかわる財産はないから大筋心配なさそう。しかし本来ホームページのように「宙づり」になっているものは、中に他人と具体的につがなっている場合があるので、なるべく先に整理をしたいと思うところ。年末のせっかくの機会なので、さぼる気持ちに鞭打って、「掃除」をするように頑張らなくては。