2014年10月29日水曜日

天気がいいとどこへでも出かけたくなる

 秋晴れの天気になると、なにかウキウキとして外に出たい気になる。家にいたまま近視眼的に煩わしいことばかりしていると、気持ちがだんだん落ち込んでくる。折角の時期なのに家にこもっているのではもったいないが、遠くに出かけてというわけにもいかない。よって買い物とウォーキング「がてら」というストーリーを描く。ウォーキングでは何回も同じところを歩いているのだから、楽しみと緊張感はとうに薄れてはいるが、他人の家の木や花を覗いて歩くことでも季節感を感じ取ることができる。写真を撮るという動機が効用になって、いまなら紅葉を見つけて歩くのがいいころだ。紅葉の狙いはもちろん公園だ。公園でなら草木が秋模様を演出してくれる。











2014年10月26日日曜日

お天気屋でないけど、秋だから。

 子供のころは、運動会の日の雨はうれしかった。走るのがうまくなかったから、スタートから遅れたりして、ビリから何番という結果に終わっていた。ずっと時がたった近年では、子供たちを連れたドライブ旅行はだいたいは晴れた。天候が良い安定した時に行くということが多かったせいもあるだろう。土砂降りで苦労したという記憶はない。

 「人生卒業期」にはちょっと様相が変わってきた。雨に降られることが多くなった感じがする。人生雨あり晴れありだからかどうかわからないが、雨模様の天気も「身のうち」みたいにお付き合いをすることになっている。カメラを持っているときは、雨模様の写真を撮るようにする。写真は銀塩写真のころは暗いところを写すのは大変なことだったが、デジタルカメラになってからは少々の明かりでも撮れるようなった。それに、水にも強いカメラもでてきている。撮影領域が広がったのは利点となっていく。「こんなところなら撮っていないだろうな」とは撮影するときの動機づけのひとつだ。

 つりも天候には関わり合いが大きい。雨だったら風が強かったらと、その時に応じたワザが発揮される。増水した川から魚が消え去ることはないのだから、悪条件化の釣りも恐れない。技量が工夫されているのは、釣りの領域を広げる。そこまでの技量は身に着けていなのが残念だが、渓流であれば雨の降りようによっては、魚たちの絶好の捕食時間となる。明らかに魚の反応が違う。

 そんなことを思うと、「お出かけは晴れるべきとき」から一歩脱して多少の天候の変異に許容範囲が広くなる。

 19号台風の直撃の日にあたった紅葉狩りは、予報を見ながら決行だった。浄土平のハイキングはできなかったが、台風一過の朝は、吹き返しの風が、重い空気を運んでいた。ホテルの窓から気楽にとった写真は、晴れてきたときにあたった。帰りのパーキングエリアで紅葉を探して間に合わせた秋だった。












2014年10月24日金曜日

本当は重い政治が軽くなる

 消費税増税、特定機密の関連法、原発再稼働など日常生活に重い政治課題が山積しているのに、団扇や政治資金の使い込み、委員会での馴れ合い運営、果てはSMショーへの出費まで、なんと「下世話」な問題が次々とでてくる。まったくあきれ果てたことだ。
 団扇問題は、国会の場でとてもわかりやすく追及されたから、スポーツ新聞む含めて乗りやすい報道になった。「国会の場で政策問題でやらず」にそういうことで取り上げるのはという批判も当然でてきた。当たっていると思ったが、国会のシリアスな場面で、テレビのワイドショウのネタに大うけするような内容で、その意味では政治が身近になっていい。出てくる「不幸」は回りまわって有権者であるものの責任にも当てはまるから、外野席から見ている政治ということでは、いつまでたっても変わらない。国会審議は政策上の熱い論戦は違いがあってのことで、たとえば増税の問題でも同様の結論をもっているなら、張り合うことのならないから、トーンは下がるし枝葉のはじきあいで終わってしまう。とすれば、やっぱりワイドショウ向けの話になってしまうのか。

 しかし、新閣僚の資質を調べる場合とそうでない場合が政権によって違うとの、コメンテーターの話には驚いた。驚いたよりはそうなのかという変な納得をした。資質の問題より、50人以上もいる「閣僚資格者」の扱いのほうが忙しいということなのだろう。この体質はいまに始まったことではない。これまで何回も繰り返していることなのだから本来なら、マスコミもせめて「いい加減にしろ」というトーンで扱ってもらいたいと思う。新閣僚がでてきたら、その活動や資質について調べて、問題がないのかどうかを発表したらいい。皮肉に言えば、問題を起こしてくれたほうが、ネタとして描きやすいということかもしれない。その場合だけマスコミに貢献しているとも言える。

 小渕氏の発言で「政治家として一から出直す」という言葉があった。出直すのは自由だが、今は圧倒的に強い地盤をもって、悠々と議員になれるという立場だから、就職先として議員をやるという選択が有力なのだろうが、現行法制化で違法に立ち入ったという認識もさることながら、問題の全容解明ととるべき責任をさておいて、出直すとかいう決意を言う時ではないだろう。この類の人たちは「みそぎ」で再生可能な立ち合場にある。非正規従業者が突然首を切られるという身分などは到底考えられないだろう。会社都合というだけでいいのだから、そこから新たに職場を求めるの大変さとは比較できないほどの相違がある。
 

 小選挙区制が生み出す結果とみることもできる。制度が定着をして、優位な一人の選択に集中することになっていく。政策の選択が一本化に向かって、それしか自分の票が生かされなくなるから、無言の圧力となる。しかも投票する結果のむなしさで投票行動が少なくなっていく。こうなれば、立候補者の資質や行動に問題があっても、そこは問題として浮上しないし問われない。投票による民意がかき消される一方で、彼の再生産の道はできあがっているという図式だ。だから、きれいに一度引っ込むという筋書きが描かれるのだろう。ひところ「秘書が…秘書が…」という責任逃れのセンテンスがはやり言葉のように使われた。「全く私が知らないことで…びっくりした」などというのも同じこと、責任はやった人にあると言わんばかりの無責任さは感じる。そのことをもって責任と罪が軽くなるわけではない。「政治家」ですから。





2014年10月19日日曜日

自然の脅威は生き物の存在にかかわる

 渓流釣りが9月末でほぼ禁漁になる。魚の再生に配慮してのことだから、人間のかかわりあい方として、守らければならないことだ。Bさんはちゃんと9月末に村上の方へ釣りに行ったらしい。5尾のイワナを釣ってきて今年の釣り納めにしたとか。渓流好きの人の締めくくりができることは、出かけることがままならないものにとっては、うらやましい限りだ。
 
 渓流魚に限らずだが、釣れる数は年を追うごとに少なくなってきている。釣人が多くて、釣ってしまうために魚がいなくなるということがよく言われるが、それだけではない。イワナやマメを釣ろうと思うと関東周辺ではまず釣果を上げることは望めない。宮城県や新潟県まで行かないと釣れないというのが実感だ。最近はマメにいくことが無くなったから、確かさは欠けるが少し昔の記憶でもおおむね変わらない傾向だろう。体験では専用道(高速道路)の延長が、釣果に影響していると感じている。釣り場へ短時間で到着できることで、「場荒れ」が起きているということは現実にあるだろう。

 漁協が増殖事業として放流する魚を釣るというやりかたが、当たり前のようになってきたのは、漁業を営む人ばかりの責任ではない。ここまで川を痛めてきた国のあり方のほうがずっと重い責任を持っている。何より大きいには川の流れの改変だ。言葉でいうと優しいが、川の生成の歴史からみたら破壊というほうがふさわしいかもしれない。いわば積極的に破壊行為に及んでいるわけで、川底を掘り崩して砂利を採ってしまうということが、高度経済成長期から進められた。あとは野となれ山となれと言う言葉がピッタリはまる。ダムの建設も相当な打撃になっている。流れが寸断されたり、川底の石がなくなってしまうことで、魚が再生できる環境と生態系をどれだけ奪ってしまったことか。そのうえ最近気になっているのが、どこの川も流量が減って見えることだ。あちこちで見える川の水量はとっても貧相な状況が目立つ。針葉樹林による原因はよく言われるが、温暖化による植物への影響や田圃の減少などがあるのだろうか。雨が降っても、山も含む陸地が水を保全しておく条件が減っているのだろう。

 東京でもつりの会、グループや漁協で、ヤマメの発眼卵の埋設放流を秋川水系と奥多摩水系に実施している。自然保護活動として貴重な活動になっている。東京でやっているのだからなおさらのことだ。
 この4月に東京労釣連がヤマメの卵を沢の流れに埋めて、放流した際に使った籠の回収作業をした。2月の大雪でどこの沢でも放流籠の回収をするのが大変だった。落石よる林道の通行止めがあり、沢には倒木の流れ込みが随所にあって、渓流が荒れ果てていることが報告された。雪渓が残っている状態では、籠の回収ができないところもあった。したがって埋めたカゴから出られずに、籠の中で死んでしまった卵や、孵っても籠からでられなかった稚魚もあった。この数は多分これまでには聞いたことがないものだった。


 台風や集中豪雨による被害が際立って多くなってきているが、当然ながら自然界そのものへの影響も大きい。つりの会も高齢化で、足元もやや怪しくなってきているが、「自然保護」への努力が大波にのみこまれてしまうような有様だ。地球温暖化の影響も「作り上げた」なの環境だから、環境NGOだけでない見識と取り組みが求められているに違いないが、日本のかじ取り連中は一顧だにしないという態度だ。





2014年10月14日火曜日

魚が再生できない現状が肯定されてはいけない

 小国川漁協が、最上小国川穴あきダム建設を協定で容認した。漁協は漁業権水域を一部放棄し、補償は求めない。魚類生息環境の保全は放流による水産資源の維持と増大などとした。年度内に建設に向けて動き出すが、そもそも一時止まっていたものが、動き出すとはきわめて裏のある政治の動きなのだ。日本のダム建設が「再始動」している状況は、有権者側から見てまったくふざけたもので、「日本の政行政の継続」という「理念、論拠」も放り出している証拠だ。あとはどうなろうと将来に責任もたぬということ。無駄な公共事業の再開によって、見直しの反省もどこへやら本当の自然がまた一歩遠ざかる。

 環境の悪化によって、再生が不可能になった自然魚の漁獲をあきらめを得ず、放流稚魚や卵で代わりを賄おうということが、川でも海でもやっている「資源管理」だ。日本は海に囲まれて、山脈が多く川も豊富にあるから自然の環境が豊かだった。今はそれも話題にはならないほどの環境になってしまった。毒のないトラフグの養殖に成功しているというが、喜ぶべきこととしておくには、なにかおさまらない。
 
 アユの稚魚は、流れ込みとみると川を遡ることを試みる。三浦半島から流れ込む、小さな川でもそれを見ることができる。佐渡ヶ島でももんの小さな川に、どう見ても飛び越えられそうのない落ち込みに稚魚が泳ぎ寄っているのを見たことがある。日本中の川のほとんどが、人口の構築物によって、アユによらず海から遡上することを生態とした、サケ系の魚は上流への遡上ができなくなっている。

 最上小国川にある小学校では、川に生息している生き物の調査をしている。身近にいる生き物とかかわることは大事な教育だと思う。生き物に対する配慮、共生などを学ぶべきだ。人がすべての生き物との関わり合いと食に依存している環境が、破壊されていいのかと、問われれなくてはならない。それははっきりしているが、その自然環境が少なくなること、破壊されることへの批判の声はまだまだ小さい。生態系への思いやりはいま最も大きなことだ。動植物の生息に対する人の配慮が体系的に確立されるべきだ。生態系への乱暴な干渉は、人の活動に降りかかってくるに違いない。人ばかりが埒外で生き物の頂点にいるがごときの振る舞いが通るはずがない。

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 協定は県と漁協、最上、舟形両町の4者で結んだ。「県は流水型(穴あき)ダムを建設する」「小国川漁協、最上町、舟形町はダム建設を容認する」とそれぞれの立場を明記。内水面漁業振興に関しては、放流による水産資源の維持と増大、魚類生息環境の保全などを図る―とした。生息環境の維持・向上のための清流未来振興機構も設置する。期間は10年間。
 覚書は県と漁協が交わした。ダム建設に伴い、漁業権が及ぶ水域が減少することに対する漁業補償を漁協が県に要求しないことを確認。漁協は県から依頼された場合は漁場環境に対する調査や監視を誠実に受諾し、県は穴あきダムの穴詰まり対策や濁水対策に努めることなどを盛り込んだ。
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2014年10月12日日曜日

健康でいるのは大変

 血圧の薬が切れたので、いつもの診療所へ行って一応診察を受けて、またいつもの薬を一か月分もらった。今年の健康診断では、尿酸値と肝臓の指数などが昨年よりはよくなっているから、健康体から少しだけ外れているだけだったことに満足していた。さしたる目に見えた努力などはしていないわけだから、どうしてよくなったのか要因は分かからない。飲酒を発泡酒に変えたから?などと思っていたら、飲んでる「氷結レモン」もご飯一杯に近いほどのカロリーがあるのだとか。痛風で10年間にこれまで数回は典型的な炎症がおきた。が、連続しているわけでなくて忘れたころにやってくる。このところはご無沙汰していて、その気もないのがおかしく思えるほどで、そのうえに、健診結果の尿酸値が心配には及ばないとい数値なら、まあいいかとアルコールも控えずに口に入れることになる。

 健康になるために必死になるというほどの執念はそう湧かないし、人生が長くなるほど楽しいことが広がっている日常というわけでもない。むろん自分だけではないことだろうけど。趣味の世界ももう入魂するまでのゆとりはもう少ない。そんなことだから、医者とは「変わったことはありませんか?」「はい同じ状況です」との一発会話でずっと続いている。言われるところの健康を保つにも自分と戦わなくてはならないだろうに、病気になってしまう危険もあっても、そこまで突き詰めていくことがなにか面倒な気もする。概ね健康の領域にいるのだからまあいいかと、毎日にストレスがかからないように突き詰めない。

 だいたいメタボの基準だって、どんなものだろうか。人によっては「骨太」だってあるだろうし、生まれた瞬間からメタボ気味のこどももいる。背丈の差は当然あるし体重にしてしかり。太目であってもと細めの体であっても、生きている間にそれでも健康状態にいるというのはあるだろう。全く同じという基準でごうりてきなのだろうか。いっしょくたにして、総平均でだすというのは乱暴すぎないか。統計的に説明できるならば聞いてみたい。


 ただ、総じてカロリー摂取過ぎの食だから、カロリー摂取が多い生活になっていることには違いない。食べることアルコールを摂取することは、やっぱり楽しみの中心にあるから、長くかつうまく付き合わなくてはいけない。さすがに今はやらないが、「大食い競争」なるもので、食を遊びに仕立てた文化の貧困も、食を大切にしているとは思えない。さまざまな番組に入ってくる食は、おいしいものを先に立ててやりまくる。「ふだんよっぽどまずいものを食べている視聴者にサービスしている」つもりだろうか。「美味しいものが食べたいね」ということも、世の中に起きているストレスが、輪をかけていることもあるだろう。いまは粗食を進めるときだ。「粗食をおいしくつくるには」だったら、うけるのではないか。

2014年10月10日金曜日

風速25メートル以上なら休めのススメ

 台風に限らず、最近の天候の荒れ方はすさまじい。このとき家にいることができない働き手は、仕事先に向かって危険なとに出会わないようにとの気持ででかける。テレビ報道で見る、特に若者のスタイルはビニール傘にいつもと変わらぬ服装で歩いている。報道がことさらそいう場面を取り上げるというのもあるだろう。

 子供のころは、長靴はいてカッパをかぶって傘を深く持ってさすのだよと教えられて、一生懸命学校に行った。懐古趣味といえばそうなるが、少なくてももうちょっと雨風の対策もあるだろうにと報道を見ながら思う。

 しかし、危険を承知でいくのは自分の意志というより、勤務先の「命令・要求」による。遊びに行くという意図もないことはない。大概は仕事先に向かう人が多い。会社なり店なり事業を営んでいれば、そこを働き場にしているしている人がいなければなりたたない。台風がが来るからと言って、先だって休業にすることは少ないのは考えられることだ。大企業はなおさら、社員の確保が要求される。余分な従業者を雇うという状況はまずない。非正規事業者であれば、なおさら「休暇で休む」ことさえかなわぬことだ。

 昔は、といっても昭和の450年代に、台風がきて危険な状況が想定されるときには、職場の組合の要求で「婦人は早く帰る」という措置をとっていた。婦人の後はより遠い通勤の人だった。安全への配慮として機能していたと思うが、これが「当たり前」とうマイナスをもったこともあるにはあった。このころは、春闘のストライキもまがりなりにあって、「労働者」としての処遇の改善がいくばくかあったときだった。

 国際競争力だのグローバル化だか何だか知らないが、働く人たちの自己努力が啓発されて、美徳として通用させてきたことも、し烈な「競争原理」のもとでなおさら強調される。こんなことがいつまで続くことなのだろうか。それでいて、ろくに賃金をはじめとした処遇が向上することはない。
 悪天候の状況に抗して働くのは、仕事評価の側面があるうちはなかなか難しい。「特別警報」は、大島の土砂災害以降は警報が早めに出されることになっているようだ。実体的には疑問もあるが、都心部で働く場合でも即応した警戒態勢が取られてもいいのではないかと思う。

 「25メートル以上の強風」の場合は危険が伴うとされているから、こういう状況下では事業者には「休む」というなんらかの協力を行政が呼びかけるということはどうなのだろう。そういう危ないときにはみんなで「休業」という風潮をつくりあげれば…。なにせ居住地区には「避難勧告、避難指示」があるのだから。

 ところで釣りの会が、天候によってつり大会を中止すことがある。当然危険を斟酌してのことだが、ちょっとくらいの雨風では中止することはない。つり行動に傾注すればそれは当然のこととも思える。そういったときにする釣りは技量をあげて、その後の釣りにも良い影響がある。体験でもそのことはわかるが、「危険が及ぶ場合」を判断することは容易でない。中止にしてもコロリと予報が違ってしまうこともある。「遊び」であっても身に危険が及ぶ場合は避けるのは当然のことだ。


 判断の過程で、現地の漁業者の話が伝わった。こういう天候では漁はしないよというものだった。漁を営む人たちのギリギリの判断も、つり志向者の活動には大事な参考になることだ。大昔の命がけの漁を模した釣り活動だというと大げさかもしれないが。




2014年10月5日日曜日

危険なところに行くとき

 御嶽山の捜索活動に、総理大臣の声ガカリで自衛隊が派遣された。御嶽山の噴火活動と降雨によって、活動がたびたび中断された。マスコミの報道は、自衛隊の活動ぶりを露出度をあげて流していた。自衛隊だけでなく、警察も消防も地元の自治体もことに対応していたのに、自衛隊だけがやっているかのようにさえ見えた場面もあった。
 
 注目の自衛隊員が、足元を滑らせながら心肺停止者を運ぶ姿を映像で何回も見ながら、その苦労は感じ取れた。しかしその捜索救助活動は自衛隊だけでない。そういう報道で、警察、消防で同様の仕事を担った人たちは、一言あったのではなかったろうか。

 地下鉄サリン事件のときは、消防隊が防毒ガスマスクをつけて救助活動をしていたのを記憶しているが、御嶽山でもその「防毒マスク使用」である程度の活動をできるのではないだろかと思っていた。硫化水素ガスに対応したマスク(簡易なもの?)をつけているのは見えた。そんなものでは効果が薄いだろうと見た目でもそう思えた。有効な防毒マスクをつけた大仰なスタイルで、山腹を歩き回るのはできないことなのかもしれないが、そもそも安全な装備があるのかどうか。テレビで見た画像と新聞からは読み取れなかった。
 
 危険であってもやれというのは、乱暴すぎるだろうが、そのあたりの判断をしていることとは思うものの、どうなのだろうか。報道が一面的だと想像たくましくする以外ない。軍隊なのだから、どんな所へも「戦闘」であるなら行くのが当たり前で、そうでなければ成り立たないという解釈も成り立つ。その論が現れた。もちろん一般的な常識からそう論じていいと思うわけではない。


 命に係わることなので…ということが合理的に説明されるなら、それを踏み越えてやるべきことではない。しかし自衛隊の場合、かつてのイラク戦争のとき 
「派遣される自衛隊員に対して、任務中に死亡した場合、国は弔慰金の最高額をこれまでより3000万円増やして9000万円支払うことを決めている。さらに首相から払われる褒賞金の最高1000万円を合わせると1億円となる。さらに、多くの人が加入している防衛庁職員団体生命保険や国家公務員災害法のもとづく報奨金をあわせれば、さらに数千万円上乗せされる。そのうえ、サマワの自衛隊基地の外での警備員などに特別手当が一日2万4千円が支給される。」という命がけへの扱いが処遇された。


 この憲法に反した「軍事行動」参加による場合と、他の場合とは違うとされたし、自衛隊派遣の命の代償とは違うことはわからないわけでもない。しかし命の重さは変わるわけではない。今回の際の扱いはどうなのだろうか。一定配慮が当然あってしかるべきと考えられる。隊員の命の安全は否定されるべきでない。ただ、だから安全のために「消極的な捜索活動」になってしまったら…。警察や消防も含めてその処遇はきちんとされるべきだし、そのことも心肺停止者に一刻も早く近づける条件を整えるひとつにはなったのではないか。


 書いているうちに、命との引き換えに金が用意されていれば「やれ、行け」みたいなことになっていることに気付いた。本当に硫化水素と爆発、土石流の危険を考慮したということで、捜索活動を保留したことが実態的に運んだのかどうかの夢想にさいなまれてのこと。ことを外しているかもしれないが。




2014年10月4日土曜日

御嶽山、お寒い観測体制

 御嶽山の観測体制は傾斜計が1と地震計が4つあるが、いくつかは正常に機能していなかったという報道があった。地震予知そのものは難しいとは専門家の話だ。しかし、だからしょうがないということに置かれていてはいけないのは当然だし、災害全般に対して万全の備えをしておくべきことだ。日本列島に110ある火山のうち、頻繁に噴火活動を繰り返したり、火山活動の高まりが見られたりする47火山は、気象庁が大学や自治体などと連携し、常時監視体制を敷いているということだ。地震予知連絡会は何らかの火山活動の変化があるときに動くので、その兆候を把握する観測体制がしっかりと整っていることが必要不可欠なことだ。

 御嶽山の観測体制について地震予知連絡会の藤井会長は、記者会見で--御嶽山の観測体制の増強は必要か?と問われて、「それは当然。御嶽山の観測体制は必ずしも十分だとは思えない。例えば傾斜計を設置しているところは1点しかないとか、地震計も必ずしも適切な位置に設置されているとは限らない。もっと観測体制を充実させる余地はあると思う。今後のことを考えれば当然、観測体制の充実は図られるべきだと思う」と応えた。

 昨今の災害は、温暖化が影響しているとみられる異常な気象で、大規模なものになっている。万一への備えがなくては枕を高くして寝られない。災害に起因する自然の活動を止めるわけにはいかないが、起きた時のために備えることは大切なこと。人の病気ではないが、事前の備えがあってこその被災圧縮ができるので、その投資は、被災(額)より少なくて済むはず。

 ところで、「自民党は、御嶽山の噴火が予知できなかったことを踏まえて、活動を休止していた同党の火山議員連盟を再開させることを決めた。火山の監視強化策などを検討し、政府に対策を要望する。議連は2008年に発足したが、大敗した09年衆院選で議連幹部らが落選したことなどから休眠状態となっていた。」との報道があった。 

火山議員連盟、自民が再開へ…幹部ら落選で休止


 地震も多いが、火山活動も始終おきているから、その対応は他国には比較できないほどの対策が必要なはずだ。落選のために…が理由になどならない。全くお寒い政治だ。
 また、御嶽山の観測体制を巡って、片山さつき議員が「民主党の仕分け」のよって、予算が切られたのだというウソまで使うとは、政治家としてなんたることだろうと思う。ここまでくればもう政治家としての資質の問題だ。

 観測体制の強化が急がれるが、27日の御嶽山爆発の数日前から、その兆候が見える。兆校が事前に分かるのに、充分知らされないとはどういうことなのだろうか。(シロウトだからいえることかもしれないが)



上記から抽出