2013年1月9日水曜日

無為に過ごすものが見透かされる


 写真は穏やかだったり、美しいものだったりするものが、世上は受ける。穏やかな海に月が…というと打ってつけの写真風情が頭に浮かぶ。これが、荒々しい波頭を捉えるものでも絵になる。でもここに感動を写りこませるとなると、風光明媚や綺麗さだけでは薄いのではないかと不遜ながら思う。というよりその美的な感動を表現するほどの腕前でないという方が正確かもしれない。

 何枚も撮っていればなかには「数撃ちゃあたる」場合もある。今はデジタルカメラなので、数撃つ場合が利点には違いないが、チャンスをものにするものが偶然だけでは、良い写真を撮るためには足りない。感動とは何か、見せるためにあるのか、皆が感動できるものはどんなところなのか、どうしたら感動を見つけられるのか。…悶々として繰り返す。

 いや自分が感動するかどうかが、一番大きなポイントなのだろうと、うっすら思い始めた。しかしだからと言って、簡単に撮れるようになったわけではない。第一、物事に感動するためには、受け止められる五感が研ぎすまされていなくてはならないから。研ぎ澄ますためには人が感動したにちがいない写真を見ることも、欠かせないことになる。

 この写真はFacebookに投稿されたもの。見ていると目を背けたくなるようなもの。しかし、この写真が福島の猫となると、福島の現状を体現する猫ということになる。日本人なら、決して砂漠で迷ったネコとはみないだろう。口先だけの「同情」や、「よりそい」を見透かされる思いもする。