2022年11月4日金曜日

屋台という「平和産業」が継がれる

 初日の夕刻に仕事から戻った友人と会い、挨拶もつかの間飲み屋に向勝って歩き始めた。刺身が美味かろうと期待して、それなりのつまみにしながら、スカイプでは味わえない交流をした。何を話したのかちっとも覚えてはいないが、そのあと二次会はラーメンを食べようと「屋台」を案内してもらった。公園の敷地に上下水道と電気が利用できる施設がある屋台として観光地になっているところらしい。屋台の存続をかけた歴史があるとあとからわかった。

呉の屋台の歴史

1886年(明治19年)に第二海軍区軍港に指定、1889年(明治22年)の呉鎮守府の開庁、本格的な海軍基地の建設が進められ工廠や海軍関連施設が次々に建設。全国各地から人々が集まり市街化が進み、1902年(明治35年)10月1日に市制を施行という背景のなか1924年(大正13年)には「うどん屋台」が26軒存在していた。そもそもの始まりは大正時代頃で、軍事態勢の時代に生まれた歴史という面を持っているわけだ。

~道路交通法改正により規制がかかり1966年(昭和41年)に屋台組合、呉警察署、呉市の3者協議により、市内の屋台を蔵本通り歩道に集約し、それ以外の地域での屋台営業は認めないということになった。1983年(昭和58年)には「都市景観モデル事業」の指定を受け、立ち退きの危機となったが、屋台組合や市民から屋台を存続させてほしいとの要望を受け、1986年(昭和61年)に市の負担で屋台のためのインフラ整備をおこなったそう。当初の20軒は2000年には8軒となり観光客、市内の企業関係者、関係団体から屋台の衰退を惜しみ、再生を求める声が。呉市は「蔵本通り屋台活性化懇談会」を設置しました。2002年(平成14年)に懇談会の検討結果を受け、警察は道路使用許可は新規に出さないが、屋台営業が継続しやすいように、既存の営業場所を道路交通法の規制対象外とするため屋台設置場所を道路区域から除外しました。さらに、呉市は新たな屋台営業者を公募すること、既存営業者については配偶者又は子の承継を認めることという方針を打ち出した~。

「地方の古き良き屋台」呉氏屋台の歴史と現在

 屋台といえば、めったなことでおめにかかれることはなくて、「都市化」とともにほとんど消去されてしまったように思う。これが市民の声で上下水度と電気が使用できるという場所(場所と言っても歩道上)を確保して継がれるとは、なんともうれしいこと。「軍国の香り」のなかに「平和産業」が生きづいているのだと思えるのもうれしい。