2014年1月1日水曜日

めでたさも ちうくらいなり おらが春

 正月のめでたさとはいったいどういうものかと、これまでの生活体験から思う。「おめでとう」と言うからおめでたいのだろうとしか言いようもない。だいたい去年だっていいことなど、探しても難しいくらいありはしないから、感情ではおめでとうというワードは、率直なところ口からに出しづらい。ずっと若いころ、「めでたさも中くらい」をもじって、「めでたさも中より下の…」と言って遊んでみた。当時はよく新聞、テレビの世論調査で、あなたの生活はどのくらいですかという問いの答えに「中くらい」という回答が一番多くて、ばかばかしいと思っていた。中くらいとは上手い言葉なのだ。
 
 じっとしていても回って気はしないアベノミクスの経済効果は、「貧困層」には及んでこない。消費税の増、保険料の増、年金減額を被る人は自分も含めて随分といることだろう。貧困層と言わないでなんと言うか。株価の上昇で幾分かの実入りがある人たちもいるだろうから、景気回復の「実感」も全くないとは言えない。が、身の回りには家族も含めそんな環境にあるものはまずいない。

~めでたさもちうくらいなりおらが春
小林一茶がどういう意味でこの句を詠んだのだろうか、句のことは全く知らないから、いやに川柳風だなと思っていた。少し調べてみたら、この句には前段の文章があり、それを読み解くことでわかるのだという説明があった。

原文
昔たんごの國普甲寺といふ所に、深く淨土を願ふ上人ありけり。としの始は世間祝ひ事してざゞめけば、我もせん迚、大卅日の夜、ひとりつかふ小法師に手紙したゝめ渡して、翌の曉にしか%\せよと、きといひをしへて、本堂へとまりにやりぬ。小法師は元日の旦、いまだ隅々は小闇きに、初鳥の聲とおなじくがばと起て、教へのごとく表門を丁々と敲けば、内よりいづこよりと問ふ時、西方彌陀佛より年始の使僧に候と答ふるよりはやく、上人裸足にておどり出て、門の扉を左右へさつと開て、小法師を上坐に稱して、きのふの手紙をとりて、うや/\しくいたゞきて讀でいはく、其世界は衆苦充滿に候間はやく吾國に來たるべし、聖衆出むかひしてまち入候とよみ終りて、おゝ/\と泣れけるとかや。此上人みづから工み拵へたる悲しみに、みづからなげきつゝ、初春の淨衣を絞りて、したゝる泪を見て祝ふとは、物に狂ふさまながら、俗人に對して無情を演るを禮とすると聞からに、佛門においては、いはひの骨張なるべけれ。それとはいさゝか替りて、おのれらは俗塵に埋れて世渡る境界ながら、鶴龜にたぐへての祝盡しも、厄拂ひの口上めきてそら%\しく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家は、くづ屋のあるべきやうに、門松立てず、煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける

現代語の訳文では~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 昔、丹後の国の普甲寺という所に、深く極楽往生を願う上人がいた。年の初めは世間が祝い事をあれこれするので、自分もやろうと思って、大みそかの夜、一人使っている小法師に、手紙を書きしたためて渡し、「明日の明け方にこれこれしなさい」としっかり言い教えて、本堂へ泊まりにやった。
 小法師は元日の朝、まだ薄暗い時分に一番鶏の声と同時にガバッと起きて、教えられたとおりに、表門をドンドンドンドンと叩くと、
中から「どちら様ですかな」と聞く時に、「西方浄土の弥陀仏からの、年始の使いの僧でございます」と答え終わりもしないうちに、上人は裸足のまま勢いよく出て、門を左右にさっと開けて、小法師を上座に招いて座らせると、昨日渡しておいた手紙を受け取ってうやうやしく頭上に掲げて拝し、読んで言うことには、「そなたのいる世界は多くの苦しみに満ちておりますので、はやく我が極楽浄土に来なさい。二十五菩薩が出迎えて待っております」と読み終っておいおいと泣かれたとか。
 この上人は自ら作り上げた悲しみに自ら嘆きつつ、初春の僧衣を濡らし、その滴る涙を見て祝うとは狂気じみた様子ではありながら、俗世の人に対して、世の無常を講じることを役割とすると聞くので、仏門の世界では、このようなことが祝いの最上級なのだろう。それとはすこし変わって、おら達は俗塵に埋もれて世を生きていく境遇に身を置きながら、鶴や亀になぞらえての祝い尽くしも、乞食の口上めいてうさん臭く思うから、空っ風が吹けば飛ぶようなあばら屋は、あばら屋にふさわしいように、門松は立てず、煤も払わず、どうにかこうにか、今年の正月も阿弥陀任せに迎えたわい。
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仏門に生きる上人でさえ、年の初めは「世の無常を講じる役割で、最上級のこと」だろう。それとは違った俗塵に生きていくものは、「祝い」のための特別なことをすることはなく、阿弥陀任せで迎えたいという一茶の思いというものらしい。「目出度いのかどうかあいまいな自分の正月」とか「『ちう位』を信州方言「ちゅっくれえ=いい加減」と取る説」という解釈もあるそう。正確な解釈は学者の任せるとして、「乞食の口上めいて胡散臭く」あたりは、面倒がってやらないのでなく確信的にやらないと言っているようでもある。

ともあれ、「ちうくらい」の意味が、「あいまい」でも「いい加減」でも、祝う気分でないことは違いない。生活実感から読み込んだものだから、共感を感じるのだろうか。

元旦の今日、このブログの投稿数が1000回になった。全くの偶然だからクジにあたったようだ。これだけはめでたいと、自分で祝いを言っておくことにした。