2021年6月29日火曜日

同等ではなくても、被ることに希望や安心は見えない

 アスリートの気持ちを第一に考慮するとは、今はさすがに言わなくなった。安心安全の五輪をどうやるかがテーマなんだと、五輪開催をどうしてもと異様にしがみつくことばかりが先行する。ここまでくる横暴さを論じても、足しにもならないが、モリカケ問題を筆頭に、引く継ぐ政権の「行動」からは十分に想像できるし、童話を見ているようにわかりやすい。

 アスリートの「みんなに喜ばれる状況で」という正論も、五輪の後のコロナ禍の様子を想像するにつけ、不穏な心持ちでの参加を迫られて「心技一体」が傷を負うことになる。なければないで、スポーツ番組に飛びつくことはない指向だから、そういわれればスポーツからは距離があるのかと顧みて思う。

 でも見るだけにしても素晴らしいアスリートの技は見たいと思う。たったその程度の付き合いだけど、アスリートたちの力が全面的に発揮される状態に欠けているときはどんなものなのだろうか。いるべき競技の相手参加者が欠け、感染検査を毎日求められ、行動制限を掛けられる。選手参加者の交流やいくばくかの「楽しみ」もあったものではない。

 この年の今回に向けて努力を重ねた練習が無になるのは確かだが、そうであればそれに代わるものを「どうしたらやれるか」という組み立てをする方向にいった方がいい。それが同等に代わるものではないだろう。でも、活かすという方向を目指すことはできる。アスリートには程遠い、圧倒的な見物のみの立場でも、このコロナ禍でどんな被害(「制限」や「犠牲」)を払わざるを得なくなっているかは言うに及ばない。