2021年4月28日水曜日

通院がてらの気分直しにスマホ撮影

  3回目の緊急事態宣言。いまやなにをどうするのか、ゴチャゴチャなコロナ対応で、信頼のおけない政治が泥沼めいてきた。オリンピックだけは金科玉条に取り組むつもりの様子。無理に運ぼうとするから、相当な軋みが出てきている気がする。やけに強い日差しを感じながら医者へ行くと、貼り紙があり「75歳以上のワクチン接種予約を510日から受け付ける」と書いてあった。電話でいいかと看護師さんに聞くと、「医院に来て受付で」と教えてくれた。この間コールセンターに電話かけまくって「後で」と言われたことを話すと、慌てなくても大丈夫とニコニコしていた。

 こちとらは気が短いから、さっさとやってしまいたいと思ったものだったが、釈迦の手のひらではないが踊っているみたいなことになった。ワクチンがどれだけいつまでに日本に輸入されるのか、はっきりしなくて、接種を始めたことばかりを強調しているのは「やってる感」だけのことで妙なものだ。それに躍らせされる方はたまったものではない。

 朝令暮改の情報に加えて、ワクチンの安全性を「打つメリットの方が大きいから」などとコメンテーターが言っているのも、説明になっていないし安全と言っているわけでもない。海外の副反応の様子はニュースになるが、国もマスコミも国内の状況をちゃんと把握して、伝えられているのか、まったく心もとないことだ。

 日本の感染は少なく抑えているから大丈夫とだと、ワクチン購入に出遅れたことだけで、国のかじ取りは失格ではないかと思う。国内のワクチン研究に対してちゃんと財政的な援助をして、「万一」に備えるべきが政府の役割だろう。金にならなければ動かない「経済」の野放しが、今の状況を生んだのだろう。テレビを見ながらの腹立ちを、外に出て空気を吸えば少しは気分が晴れる。はや、初夏の趣もでてきたみたいな。





2021年4月24日土曜日

自然あってこその人間模様

 サクラは春先に華やかに皆を引き付けて楽しませてくれる。これから先の気持ちの良い時期の先頭集団だから、写真を撮ろうと思うとサクラぬきには物事が進まない。万人に愛される騒ぎが収まると、いろいろな木や草の新芽が顔を出す。

 この時期の樹々は、青空に薄い緑の小さな葉を噴出して、柔らかそうな呼吸を始める。眺めていると、これからさきの旺盛な繁茂の時期まで想像させて、活気を分けてもらい、ウキウキと元気が出てくるようだ。こんなときに山に入っていって、うまい空気を吸ったらさぞかしいいだろうと思う。いつもなら。今は「人流まかりならぬ」話になるのかな?

 でも、思うにコロナの感染が広がってきても、ペットの犬は「しっかりと」散歩に連れて行ってもらって、電信柱で片足をあげる、(はしたない?)しぐさをさせてもらえる。それなのに人間様の場合は移動してはまかりならぬと、為政者に脅かされるのはいささか不公平だ。自然の中に入ればおにぎりがおいしい。フィトンチッドをあびて、生理的要求に刺激が与えられる。家に閉じこもっていたら病気になってしまう。







2021年4月21日水曜日

デジタル社会は、これからどんなことになるのか

 岩手山焼走り溶岩流展望台で撮った宮沢賢治詩碑。スマホで撮影して後日文字変換してみた。写真(画像)から文字変換できるスマホの機能は、つい最近まで使いもしなったし、第一そんな機能をつかうことなど考えもしなかった。それがいとも容易になっている。情報を利用することはいまや簡単だ。Lineのように「駄々洩れ」状況にあることもずさん極まりないが、情報のやり取りで利益を生む社会に変容してきたから必然のこととはいえる。

 スマホ機能でのニュースやSNSの投稿は、文字としてコピペが簡単にできるし、スマホに現れるすべては、画面としてコピーができる(パソコンのディスクトップ表示画面も同様)。これを使って第三者に送ることができる。それだけではなく、音声から文字入力ができるという便利さは雲の上の話かと思うほど。

 これまでは頭脳にあることがらを、文字として手で書きだすという作業(アナログというか)を何世紀もやってきた。慎重に言葉を整理して、残すべきことや記録に心血を注いできた。そのエネルギーが、なにかいとも簡単に文字として展開できることになった。それはそれで、利便性を強調できる部分はあるだろう。でも、伝えるべきことを伝えられるのは、「書けること」ができてのことではないかという気はする。便利さにかまけて頭脳を働かせないようになっては、残せるものの軽薄さが否定できない気がすると自戒。(撮った写真から返還したものは、誤字もあり修正をした。文字変換にはこの作業を避けられない。)

 


喪神のしろいかがみが

薬師火口のいただきにかかり

日かげになった火山礫堆の中腹から

畏べくかなしむべく碎塊溶岩の黒

わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎると

なにかあかるい曠原風の情調を

ばらばらにするやうなひどいけしきが

展かれるとはおもってゐた

けれどもここはくうきま深い淵になってゐて

ごく強力な鬼神たちの棲みかだ

一ぴきの鳥さえもみえない

わたくしがあぶなくその一一の岩塊をふみ

すこしの小高いところにのぼり

さらにつくづくとその焼石のひろがりをみわたせば

雪を越えてきたつめたい風はみねか吹き 

雲はあらはれてつぎからつぎと消え 

いちいちの火山塊の黒い影

貞享四年のちひさな噴火から 

およそ二百三十五年のあいだ

空気のなかの酸素やや炭酸瓦斯

これら清冽な試薬によって 

どれくらゐの風化が行はれ 

どんな植物が生えたかを

見ようとして私の来たのに對し 

それは恐ろしい二種の苔で答えた

その白っぽい厚いすぎごけの

表面がかかさに乾いてゐるので

わたくしはまた麵麭ともかんがへ 

ちやうどひるの食事をもたないとこから

ひじやうな饗應ともんかずるのだが 

(なぜならたべものといふものは

それをみてよろこぶもので

それ からあとはたべるのものだから

ここらでそんなかんがへは

あんまり僭越かもしれない

とにかく私は荷物をおろし

灰色の苔に靴やからだを埋め

一つの赤い苹果をたべる

うるうるしながら苹果に噛みつけば

雪を越えてきたつめたい風はみねかから吹き

野はらの白樺の葉は紅や金やせはしくゆすれ

北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる

(あれがぼくのしやつだ

青いリンネルの農民シャツだ)


2021年4月14日水曜日

桜の時期が過ぎていくと変わって緑色の春の息吹が広がってきた

 桜はほとんどの人を引き付ける魅力がある。ついつい足の痛みを「乗り越えて」近所の名所に見参する。一刻の謳歌を過ぎて、またその有様が思いを増幅する。散ればこそ…などとめでたさを詠う業平の短歌は、「ウキヨになにか久かるべき」とした下の句の「ウキヨ」の部分を、NET情報では「うきよ、浮き世、憂き世」と表示されている。いわれを知らない勝手な解釈だけど「憂き世」がいいのだろうと思う。歴史上で「憂き世」を解析する文化はずっとあったと思うから。写真の2枚は「ウコン桜」で、学校の敷地内に植えられている。「子供たちの憂き世」を慮ったということはないだろうけど。(35人学級早くやって!) 

 ところでこのウコンザクラは「右近桜、鬱金桜」などと表されている。中にはウコンザクラを「栄養ドリンクなどで名前が知られているウコン。この根っこの色が黄色いのに似ていることからから鬱金桜〈ウコンザクラ〉と呼ばれています。花言葉は〈優れた美人〉。鬱金桜の別名が〈美人桜〉なので、別名がそのまま花言葉になっていますが、贈り物にぴったりな桜」などと商品化に貢献させられている気の毒な身の上。

 「鬱鬱」は広辞苑では「①心がふさいで楽しくないさま。気分の晴れ晴れしないさま。②草木の繁っているさま。③気分の盛んにのぼるさま。」と多様な意味合いで、使い方自由かな?ならば、「鬱金桜」命名の由来を勝手に創作してみたい。コロナ禍での今どきの鬱に重なっているようであり、かつ新学年、新採さんの4月初めのストレス時期にもあたりそう。桜が華やかに通り過ぎる後の寂しい時期を「鬱」に例えたというのはどうだろうか。







2021年4月9日金曜日

サクラの時期が過ぎていった住処界隈

 住処からおよそ500メートル程度の範囲で、桜見物を楽しめるところがいくつかある。遠出を避けざるを得なかったことで、ごく近所の桜を見て回っていたら結構あることに気が付いた。もっと足が延ばせば神田川沿いには、また素敵な桜並木におめにかかれるのだけれども、今回はかなわぬことだった。それでもこの時期のにぎやかさを幾分か味わえたのは良かった。それも河津桜から始まって、ソメイヨシノ、八重桜、ウコン桜と順にみて歩けることができるので、捨てたものでない。もう今頃はこの間訪れた温泉あたりが賑やかになっていることだろう。











 

2021年4月7日水曜日

あくまでも療養のための温泉

 足を引きずるという感覚が身について、これから先はお付き合いをするのかされるのか判然としないけれども、長い付き合いになるのかもしれない。と思いつつ温めるという「療法」を求めて温泉巡りに行ってきた。行ってきたという主体ではなくて、連れて行ってもらったという方が正解。

 ちょびっとだけ運転の補助はしたが、ペダルを踏む姿勢で一定時間足先以外動かさないものだから、降りた時には足が突っ張るようで、痛みが出ないようにそろっと地上に足をつける。血の巡りが悪いのか少し動かして準備してから歩きだすことになる。

 旅館について直ぐに風呂へ行き、のんびり風呂に使って温まる。旅館の方の配慮もあるようだが、ほかの宿泊者が少なくて、どこでも温泉は空いている。でも同じ旅館で入るのはせいぜい3回。宿泊旅館を移動するときに途中で「日帰り温泉」を探して入る。これも温泉旅行の定番。ただこの折は日帰り温泉の客は少し多い。こんなことで都合123回は温泉で温まった。でも残念ながら、顕著な改善というわけにはいかなかないようだ
った。

 3泊目は昨年9月にとまったところで、部屋も同じ場所だった。今回は天気が良くて、浅間山が見事だった。(一番上の写真が昨年9月)