2019年3月22日金曜日

西新宿「成子坂下」の開発、江戸時代と今

 近くにいながら、「成子」のいわれを知らないままできた。今になって気になってきて、NETをあたってみた。神田川に向けて下っていったあたりだろうか、江戸の西端にあって旅人を相手にした半農半商の家がたくさんあったらしい。「鳴子」を使って音で人を寄せるようにしていた。「鳴子」はもともと農家が鳥を追い払うのに使っていたものだが、商家がどんどん増えていったため使われなくなり、地名も「鳴子」から「成子」へと変わってしまったとか。

 「この地域には名物として明治期まで鳴子ウリなるものがあった。 マクワウリという小さいウリで、原産地は美濃の国の真桑村(大垣市の北にある本巣市の中心地)。 徳川幕府は美濃の国真桑村から農民を呼び寄せ、府中の是政とここ鳴子に住まわせて瓜の栽培をさせた。 この瓜は根が浅く、土の乾燥に弱いので、神田川の流域で土地の湿り気の多いここは適地だった。 徳川幕府の土木工事は凄いものだが、農業に対する見地も大したものがある。」

=とは「ぼのぼのぶろぐ」から引用させていただいたが、江戸時代の開発は庶民の生活環境改善への配慮が、よく取り組まれていたと言える。現在の大規模開発で得られるものとは何だろうか。庶民の目から見えるものが思いつかない。いくつもの商店が消えている。それだけは確かだ。

鳴子
 よさこい踊りで使っているのも鳴子だが、よさこい踊りは、戦後阿波踊りに対抗する形で始まったとのことで、使ったいきさつはわからない。