2016年12月18日日曜日

義母、身罷る

 14日に義母が身罷った。医師の宣告から一週間の後だった。義父が亡くなってから六か月、89歳の往生だった。片肺のハンディを持ちながら、昭和38年に新潟から東京にでてきて、50年余の時間を、働きかつ家族との時間を過ごした。

 やはり義父に旅立たれたのが大きな気落ちになったのだろうか。弱音を吐くことが増えていたことが印象に残る。病院でもう眠るばかりの顔を見ながら、命が無くなるという重みを家族とかみしめた。落ち着いてくるにつれ、家のなかの一角がスポンと抜け落ちたような寂寥感が湧いてくる。

 直接のきっかけは肺炎だったが、傷んでいたところはそればかりではなかった。病院通いをしながらも、自覚して足を引きずりながらの散歩にでかけ、「途中休んでね」とよく話していた。寄ってくる病魔との闘いという、深刻さを感じさせない様子だったが、本音は出さぬようにしていたのかもしれない。

 一緒に過ごしてきた時間を今になって思い返しても、至らなかった後悔の上塗りになるばかりだ。孫の運転するレンタカーで温泉に行くのが楽しみだった。温泉につかり、土産屋に必ず寄って土産を買い込むのが一番の楽しみだった。風呂は大好きで、家の風呂にも長時間入っていた。あまり長いと心配だからと、最近はそれも好事魔多しとなった。

 もっている体力にもかかわらず、長命に至ったのは義父の努力が大きかった。「爺ちゃんの料理うまいね」という言葉も、義父が寝たきりになった10年近く前から途絶えてしまった。寂しさはそのころから募っていたのだろう。耳が遠くなって会話が交わしにくくなってからは、日常生活からの疎外感を味わっていたのではないかと想像する。

 しかし頑張ってきたと、それは間違いなく言える。わが身の齢と活力からして、そこまでの域にまで到達するものかと思う。戦後の困難な時期を超えてきた力が、基本にあるのかとそんな気もする。合掌。