2015年6月24日水曜日

釣り人が慮るべきこと

人間が他の生物の命をとって、生きていくためのエネルギーに変えるという行為はどんな哲学を描くのが正しいのだろうか。それも自然の摂理の一部と冷ややかに言うことはできるが、自然や動植物が生きているテリトリーへのストレスや容赦ない捕獲(漁)で、このままでいいのかと思いやる人が増えているのではないか。自然の生成やあるべき姿にこれまでそう気にも留めないでいたことも、それに関わってのニュースが増え、気がかりになることが多くなってくる。

先日の釣りの会の会議のとき、外来魚つり会で大量に釣った外来魚の「弔いの気持ち」を表するべきという意見が出された。釣りの会では、釣った魚については、フナを除き(フナは放流する)、食用にして食べるということを基本にしている。当たり前のことなのだが、多くを釣ることを競う場合は釣れた魚(特にヤマベ)を捨ててしまうということが起こりうる。その行動が釣り愛好者としてどうなのかということだ。釣って食するという日本の釣り文化からしても、食するということが釣る行為と一体であることが、風土といっていいのだろう。

外来魚つり会では、釣った外来魚を掘った穴に埋めて廃棄したのだが、確かになんの感慨ももたずに埋めていた。外来魚として法律で駆除対象としているし、釣って食するという範疇=商業ベースに乗らないのだから、そんなことが無意識に出てしまったのかもしれない。

一昨年前に、外来魚を釣って駆除している映像をYoutubeにアップしたものが、この映像へのアクセス(再生回数)が17000回を超えている。この映像には、外来魚駆除について賛否両方から書き込みが寄せられている。当然ながら、外来魚の釣りの対象が減ってしまうことへの怒りがあるのだが、「釣ったら食べろ」というのもある。外来魚釣りをする場合は、釣った魚は「移動させてはいけない」ことになっている。全国各地に放流して繁殖させてしまった「歴史」は蜜放流として表現されているが、よって今は釣った外来魚の「移動」が禁止されている。ただそれにしても、外来魚を大量に釣って積み上げられているのを見ると、生き物を無為に殺生しているとの見方は印象として残る。

生きものであるが故の、人としての対処、応対のあり方を考える必要があるのだろう。