明治時代に軍事態勢を築きあげるために、呉に海軍工廠が作られた。
呉軍港空襲
1945年6月22日9時、B-29・290機が飛来。海軍工廠関係の死者は約1900名。
1945年10月15日呉海軍工廠廃止。
1945年 株式会社播磨造船所が呉海軍工廠跡に呉船渠開設。
以降、曲折を経て石川島播磨重工業株式会社設立。呉工場での自衛艦艇の建造は無いが、修理はしている。「造船船渠(大和の建造用ドック)」は1993年に埋め立てられ、跡地は工場として再利用。大和の修理を行った「船渠(ドック)」は現存。自衛艦や米軍艦船などが現在も使用中とのこと。隣接する港には艦船、潜水艦が停泊して、見学をさせている。海軍工廠があったことで働き手が増えたものの、明治時代から湾岸は軍事用の施設が優先されて、戦後も「占拠」しているので、住宅地は山際の狭い傾斜地に追いやられているのが写真を通して分かる。呉市街には潜水艦の内部を見学できる施設が「観光場所」として案内されている。