2014年4月16日水曜日

殺人はダメが、当たり前になるべき

 「マスコミはあなた方のレベルに合わせて"商品"を並べているだけに過ぎない。報道倫理もへったくれもないマスコミが変わらねばならないのは当然だが、日々考えて考えて少しずつ変わって行かねばならないのは、私もあなた方も同様なのである。」
 こう言われると辛いものがある。マスコミの報道にのってああかこうかと、御託を並べるのだから、生臭く社会の一線にでているものは大変なのだろう。自分なりの筆をもっても、社の命運か売り上げがかかるとされれば、曲がっていくことになる。それを理解したとしても、たとえばいつまでたっても立証できない「パソコン遠隔操作事件」だとか、48年も死刑囚だった袴田さんだとかという事件を「そういうこともあるでしょ」という結論にしておけない。マスコミの責任大というべきでないのだろうか。

 2008年に起きた秋葉原通り魔事件の犯人の弟さんが自死した。「自分は犯人の弟で、加害者の家族は幸せになっちゃいけない」「死ぬ理由に勝る生きる理由がない」と生前話していたという。結婚相手がいたが、相手の親に強行に反対されたという。母親は事件後に離婚した。犯人の家族の人権はないのかという疑問が湧く。

 例えば、震災が起きて飲むもの食べものがなくて、生きるか死ぬかになったとき、コンビニを襲わないだろうか。あってはならないことに違いないが、許されるべきということではなくて、自分が追い詰められていったとき、身を守る手段を抑えられるのだろうかと率直に思う。近くに身内や友人がいれば止められるかもしれないが、たった一人だったらどうだろう。

 人には身を守るために発動するDNAを持っているのではないかと思う。祖先は血を流すことを当たり前にやっていたのだし、それは食を手に入れるために動物や植物である生きものをずっと「殺して」いた。人に対しては殺して何かを手に入れるという手段をまだ使用している。「紛争形態」は殺しありということになっている。


 殺人を起こさないようにするには、そこに至る負の条件をのぞかれなくてはならないだろう。明日の職場がない、食べるものがないという恐怖は、非正規雇用者が持たされる恐怖でないのか。比較的性従業員が当たり前だった時代に生きてきたものとしては、そう思う。こんなことが蔓延していることに、気が付かずに当たり前のこととして温存されることは、おなじ事件をまた増殖することになるのではないか。

秋葉原通り魔事件・加藤被告の実弟が自殺...公開リンチが止まらない!