2014年4月11日金曜日

季節がなくなっていく

 蜂が部屋に飛び込んできて、足をこすっている。なんで今頃いるのだろうか。急に暑くなってきたから、普通の自然界にいるものならまだ出てくることはないだろうに、ここ2.3日の気温上昇で活性化したとなると、建物のどこかにくっついているのだろうか。建物は陽射しが強くなって来れば、すぐに温まるだろうから、もう夏がくると出てきたものか。

 トマトの栽培をしている番組を見たら、ハウスの中で土は使わずに「栄養剤」を水に溶かして、水筒に流すという栽培を紹介していいた。陽射しを調節して、トマトの皮を柔らかくするという。苗木に必要な二酸化炭素まで注入するという。甘いトマトは食べやすいから、野菜としてはよい食べ物だが、今はどこで買っても同じ色恰好をしている。トマトの香りは少なくて、とはいってもそれが好みとされているのだろう。

 もう数十年も前になるが、畑で採れたてのトマトを食べたときの感激をときどき思い出す。トマトの出来はもちろん大小さまざま、少し青味の残ったトマトはカリカリとした食感と、甘さと青臭さがが混じったものだった。夕立後の雨粒がくっついて、新鮮さを感じながらその旨さに驚いた。それ以来、東京のトマトのまずさに、本物でないというレッテルを貼った。

 トマトは偏食気味の年寄りの少ない好みなので、始終買い込んでいるがスーパーでもデパートでも同じようで、味も差はない。ほかの野菜類も同様の生産スタイルに変わっていくようだが、果物も同様に季節感は生活感覚からどんどん遠ざかってきた。生産性や収益、量産を心配するとこういうことになってくるわけだが、とりわけ都市部に集まる人間の食を賄うためには必要なこととされる。和食が文化遺産というが、日常の食はそこには結びつかない皮相な文化しか感じない。季節感がない食生活は日本の食文化の崩壊でもある。自然の体系からずれていってしまうことに無批判でいいのだろうか。