2021年4月21日水曜日

デジタル社会は、これからどんなことになるのか

 岩手山焼走り溶岩流展望台で撮った宮沢賢治詩碑。スマホで撮影して後日文字変換してみた。写真(画像)から文字変換できるスマホの機能は、つい最近まで使いもしなったし、第一そんな機能をつかうことなど考えもしなかった。それがいとも容易になっている。情報を利用することはいまや簡単だ。Lineのように「駄々洩れ」状況にあることもずさん極まりないが、情報のやり取りで利益を生む社会に変容してきたから必然のこととはいえる。

 スマホ機能でのニュースやSNSの投稿は、文字としてコピペが簡単にできるし、スマホに現れるすべては、画面としてコピーができる(パソコンのディスクトップ表示画面も同様)。これを使って第三者に送ることができる。それだけではなく、音声から文字入力ができるという便利さは雲の上の話かと思うほど。

 これまでは頭脳にあることがらを、文字として手で書きだすという作業(アナログというか)を何世紀もやってきた。慎重に言葉を整理して、残すべきことや記録に心血を注いできた。そのエネルギーが、なにかいとも簡単に文字として展開できることになった。それはそれで、利便性を強調できる部分はあるだろう。でも、伝えるべきことを伝えられるのは、「書けること」ができてのことではないかという気はする。便利さにかまけて頭脳を働かせないようになっては、残せるものの軽薄さが否定できない気がすると自戒。(撮った写真から返還したものは、誤字もあり修正をした。文字変換にはこの作業を避けられない。)

 


喪神のしろいかがみが

薬師火口のいただきにかかり

日かげになった火山礫堆の中腹から

畏べくかなしむべく碎塊溶岩の黒

わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎると

なにかあかるい曠原風の情調を

ばらばらにするやうなひどいけしきが

展かれるとはおもってゐた

けれどもここはくうきま深い淵になってゐて

ごく強力な鬼神たちの棲みかだ

一ぴきの鳥さえもみえない

わたくしがあぶなくその一一の岩塊をふみ

すこしの小高いところにのぼり

さらにつくづくとその焼石のひろがりをみわたせば

雪を越えてきたつめたい風はみねか吹き 

雲はあらはれてつぎからつぎと消え 

いちいちの火山塊の黒い影

貞享四年のちひさな噴火から 

およそ二百三十五年のあいだ

空気のなかの酸素やや炭酸瓦斯

これら清冽な試薬によって 

どれくらゐの風化が行はれ 

どんな植物が生えたかを

見ようとして私の来たのに對し 

それは恐ろしい二種の苔で答えた

その白っぽい厚いすぎごけの

表面がかかさに乾いてゐるので

わたくしはまた麵麭ともかんがへ 

ちやうどひるの食事をもたないとこから

ひじやうな饗應ともんかずるのだが 

(なぜならたべものといふものは

それをみてよろこぶもので

それ からあとはたべるのものだから

ここらでそんなかんがへは

あんまり僭越かもしれない

とにかく私は荷物をおろし

灰色の苔に靴やからだを埋め

一つの赤い苹果をたべる

うるうるしながら苹果に噛みつけば

雪を越えてきたつめたい風はみねかから吹き

野はらの白樺の葉は紅や金やせはしくゆすれ

北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる

(あれがぼくのしやつだ

青いリンネルの農民シャツだ)