2013年7月29日月曜日

事件は裏側、背景にも焦点をあてるべきでないか

 山口県の放火、殺害事件の被疑者が逮捕された。事件の背景をテレビワイド番組が追っかけているが、よくある「本人の特異性」が強調されたもので、気になっていた。犯罪を容認することができないことは当たり前のことでも、こういった事件が起こるたびに「おとなしそうだった」「やりそうもない」とか実は事件を起こしそう性格も持っていた」など、判で押したような内容になるので、目を凝らして番組を眺めることが癖になっている。

 この山口の事件も、限界集落になじめない付き合いで、だんだん追いつめられていった風のことだった。日を追って取材が深まると、本人が部落に溶け込もうとした努力もしていたことが解かってくる。部落をよい方向へということでも努力はしていたとのことだ。そういう意味ではいくらか掘り下げていったものだろうとは思う。

 気になったのは、自分の仕事を早い時期に止めて、親の元に戻って両親の面倒をみていたことだ。二人とも亡くなっているが、その介護も相当なものだったのではないか。身近な介護の実態をみるにつけ、なまじな負担でないことだと想像される。介護は家族がするというのが、今の政治の基本だから打つ手がみつからないときには、自分でやるしかない。殺人をやるまでに、気持ちが昂進していく前に、なんらかのことができなかったのか。

昨日、たまたま「憲法9条の会」で活躍された加藤周一氏のNHKビデオ録画を見た。200812月に亡くなっているが、亡くなる六か月前に「秋葉原通り魔殺人事件」が起きた。この事件を称して加藤氏は「下に澱んだものが暴発」「絶望的暴発」とコメントしていた。自分が明日は職が無くなってしまうかもしれない不安、ロッカーの荷物が勝手に整理されて、職場から放り出される恐怖は、非正規雇用という不安定な雇用から生み出されていることだ。5年たって非正規雇用者は38%を超える。

 暴力や殺人などの犯罪は後を絶たないが、やってはいけないこととして罰するということだけでは、無くなる方向は見えない。社会が作り出している雇用制度、人権、社会保障、医療、介護制度など、仕掛けそのものの改善、改良がないと事件を減らしていくことにならないと、いつも思う。