2014年3月24日月曜日

差別が温存される社会では

 浦和レッズの無観客試合で、「独特の雰囲気だった。正直もうやりたくない。」と選手が語った。スポーツの世界で、相手を貶めることを、容認していたのは残念なことだった。今回明快にその反省の上に立ったのは、気持ちの良いことだった。「差別」は社会の全般にあってはならないことであるのに、日頃それには程遠い扱いで醸造されていることが影響している。相手と、あるいは他と違うという意味での「差別化」という言葉は最近よく使われるが、商品価値のうちの理解であれば問題ないのかもしれない。

 それだけの「差別」にはとどまっていないものを歴史は抱えてきた。差別は支配者層の統治手段として19世紀にはイデオロギーとして使われた。人種差別・民族差別も意図的な利用をしてきたことが、いまでも「有効」に存在している。

 雇用や処遇の上でも堂々と生きている。フリーター、ニート、路上生活者という言葉は、社会からなくしていくべきことであるのに、それをあたかも積極的に選択したかのようなネーミングにした。社会的な差別を覆い隠すことにされた。勝ち組・負け組という言葉も軽いノリで使って、本当の深刻さをあいまいにする仕様だ。

 子供の教育が選別優先されることによって、差別が当然視・顕在化されてしまうという面がある。日常茶飯事のように起こる大方の事件は、差別問題とのかかわりを抜きには考えられない。シカトが自死にまで及んでいくことは深刻だ。日常の言葉として子供の世界に流通するのは、「差別」が根底にあるからと言えないか。

 大阪市長選挙で橋本氏が当選した。当選するのは当たりまえでも、投票率が最低で絶対得票率が、17.85%ということで、政治的打撃が相当大きいものだった。主要な政党関係からは立候補しなかったのだから、政治的な「シカト」によるものだ。ここは差別というよりも、選挙を認めないという政治的な対応ということか。

 各種選挙では、有権者に対する得票率を絶対得票率としてカウントするが、マスコミ発表したのを、これまであまり見たことはなかった。今回の発表で、これを取り上げたのは「差別」にあたる。そうでないというなら、国政選挙における自民党の絶対得票率を明示して、圧倒的多数の民意での議席でないことを迫ってもらいたいものだ。
 「一人がいじめられると皆でたたく」というのはマスメディアの常とう手段でもある。6億円と言われる無駄な選挙費用を使わせるところまできたのは、マスメディアがこぞっての持ち上げ(逆差別)できたせいだ。