2012年10月9日火曜日

釣りは「道楽」の域にとどまらない


 釣りの会の会員さんと近所で一杯飲んだ。つりを話題の酒はいい。釣りがたのしものだという実感が深まる。つりの楽しさ、良さはやったものでないとわからない。というと、自己陶酔の範疇に終わってしまうので、まったく釣りをやったことのない人にとってもたやすくできるし、どんなに楽しく遊べるものなのかというあたりのことをもっとわかってもらえれば、会員が増えるのではないかという話になっていく。

 魚を取って食するのは、現代の食生活の根幹をなすものだから、口に入ってくれればとりあえずは問題はない。が、今はその職の発生源は、生活とはほとんど分離されている。魚だってスーパーで買い求めれば食べるに困らない。ここからは自然は見えないし、当然自然の恵みも見えにくい。

 釣りをすると、そこいらあたりが少し見えてくる。釣りは、たぶん漁業というか狩猟というか、魚を手に入れて売って生活することからの昇華のようなものだろうと思う。今食えるか食えないかという食に直接は影響しない嗜好のようなもの。つまり言うところの「道楽」だが、子供たちが嬉々としてハゼを釣っている姿は道楽という言葉は今は合わない。また「…つり大会」となるとスポーツ的色彩が強くなる。

 釣りの愛好となると、どれだけ釣るか、大きい魚を釣ったかということに焦点がかかっていく。しかしそれはさておくとして、釣れば釣れほどもっとたくさん釣るには、という気が昂進するのが、通常の釣り人の気持ちだ。これもDNAのなせる業かもしれない。どうしたらもっと釣れるかの技術を追求するうちに、自然環境の影響が大きな影響を与えていることに気が付いていく。

 魚の気持ちに近づかないとダメなのだ。魚の生息するに必要な環境がないと、魚は繁殖できないということが当然ながら気づくようになる。温暖化、海や河川のゴミ、水質汚染、埋立と干潟減少、ダム、森の減少、温暖化。さまざまな要因が覆っていると理解するにいきつく。しかしだから、道楽の域を超えて、自然界が蘇生していくことを真剣に考えていかなくてはならない立場にもある。それなりに「格調」ももった趣味だと、「自分では」思う。