2015年6月3日水曜日

ガラパゴスの悲哀

ガラパゴス化とは日本が生み出した言葉。「ガラケー」という言葉で、旧時代の携帯電話を指して、スマホに変わらない時代遅れのといった意味に使われると思うのは年寄りゆえのヒガミかな。商業的な方面からの発想が生み出したこの言葉、最初の印象は「あなた遅れているよ」とのイメージだった。

ガラパゴスは「発達した」都市部から、遅れているとの意味にも取れるが、「他の島との接触がなく隔離された状態であっため、独自の進化を遂げた動植物が多く存在することで有名」だと説明されている。かえっていまどき自然実にあふれた独立独歩の自立したところだから、ガラパゴスと馬鹿にされようなんだろうと、まにあっているのだからその幸せは悪くないんじゃないかと言いたいところだ。

だいたいスマホときたら、電車の中はもちろん歩きながら、果ては自転車に乗ってまで使っているのだから、それだけでなんたるものかと、反感ばかりが先にたつ。よって、スマホなんか使うほどでないと決めてかかったのは当たり前。ガラ系電話使用の頻度はさておくとして、電話以外にはメールの使用がほどほどにある。電話で生の声で交わすのも信頼関係の醸造にもなるが、メールの使用は言葉の交換に加えてのバリエーションとして使えるものだ。電話とメールあれば間に合う生活をずっとしてきたし、実際それで用は足りていた。だからガラパゴスと言われようと、買うものかと決めていた。

 ところがだ。Facebookの交流サイトでパソコンを使って交流をしていると、どうもスマホからの投稿が多いようだとわかってきた。それはそうで、道を歩きながらであっても、朝の散歩のときや庭の手入れ、料理の途中であっても「それっ」と投稿できるという文化(だろう)は、その投稿によって反応が返ってくるということであれば、そのやりとりによる充足感が手に入る。多分それは、つぎつぎと切迫した時間から解放されるための手段とも見えるし、情報の高速な伝達手段でもあるようだ。と書けば、なに隠そうスマホ派に加わったことを曝露したことになった。