2020年6月4日木曜日

ウィルスとの闘いよりは共存になるのか

 大都会に人影が少なくなる光景は、寂しいというよりもさっぱりとしてよう映る。年末年始以外はほとんど感じたことはない。このさっぱり感を良いことと言い切るわけにはいかないが、道路や繁華街や駅周辺は、言わばヨーロッパ風のゆったとした時間の流れが支配しているように見える。食事でも買い物でも生活にかかわる必需品を手に入れる活動、サービスを提供する側もされる側も、自粛期間中はほぼ「固着」している。いま使える金を持っていたしても、人同士が近づいてはならぬと自粛させる側が叫ぶし、感染はお前さんたちの責任にかかっているのだよと、言葉を重ねられるので、「自粛」行動の規範に沿わざるを得ない。

 家族や親せきや仲間であれば、励ましあうところなのに「自粛警察」まで誕生して、監視行動をするようになる。人間社会のなんなのだろうこれは。この瞬間、田舎暮らしであれば、畑に行けば少しくらいの野菜が獲れ、密にもそれほど気をつかわずに生活が成り立つこともあるだろう。

 感染者が目立つのは、目下検査の数は問題があるけれども、都市部に集中している。生きていくため、食べるための稼ぎ場所と、細かな分業でささえあっているから、躓くとすぐに影響をうけるのは都市部だ。新型コロナは人間社会が作り上げた弱点をついて「繁栄、拡張」を狙っているわけだ。敵との闘いというセリフもでているが、「経済重視」の名をかりて活動再開に踏み込んでも、だれもが考えるように次の感染者増の山がくることは間違いないだろう。それが何回かあるとすれば、闘って撲滅ということにはならず、実態としての共存ということになっていくのだろう。ほかのウィルスと同じ様に。

 だいたい、閉じこもっていたウィルスをかき回して引っ張り出したのは、われわれの社会の方だ。ウィルス以外の生物にも、どれだけの傍若無人な毒矢を放ってきたことか、今になって「持続可能な」などという言葉も、ほとんど虚しく響いて聞こえる。