「毛唐」という言葉を面白がっていた時代があった。侮蔑的な言葉として戦争遂行の折に使われたのだったが、蔑視的な言葉として一般には使用されていないのだろう。というより、アメリカの従者としての実態が不要にしてしまったという流れなのか。この言葉がなんの疑問もなく頭の隅に置かれていた。なぜ英語を教育されなければならないのかも、常にずっと疑問に思っていた。今なら愚かな疑問と言われそうだが、横文字の文化と違うものが沢山あるのだから、その違いも壊していくものだとしていたことが、記憶に置かれていたのだろうか。敵性用語だとして排除まがいの扱いをしていたのだから、少なからず頭の隅には敵を作り出す訓練が生き残っているのかもしれない。
戦後はもう、まったく戦前とは違った文化や政治がされて、邪険な扱いを受けているものの、平和憲法が維持されている。邪魔なものとして、敵性用語だったものが今はスピードラーニングで聴いていれば覚えるというまでの「親密度」だ。しかしこのかい離も、「侵略戦争は誤りでしたごめんなさい」という国内に向けての明快な反省があれば、過去に犠牲になった様々なことの切り替えに合理性が出てくることになるはず。歴史は造るものでないとしても、過去と未来の結節点で今を考えるとしたら、教訓を引き出しておくのが通常の手法だ。