2016年6月14日火曜日

義父の一生が閉じられた

 義父が身罷った。9年に及ぶ不自由な生活から、今は解放されて、自由になったことだろう。一生をどんな姿で過ごしたのかを、周りの人間が思い返す機会なのだと、葬式を過ごしながら思った。なにかに執心し、行動規範をみつけ、悩み苦しみ、人としての有様を追求してきた。そういう一生を批判できるわけはない。毎日のように起こる見苦しい現世の汚れに染まることなく、過ごしてきたのだからそれも簡単なことではない。
 
 生地から東京に出、幸いにも中途公務員として採用されて、経済的にもなんとか生活できる環境に入ることができた。昭和の暗い時代を抜けてきた体験が、悲惨な時代がまたあってはならないことと、飲みながらよく話していた。それも遠い昔のことだったことを今思い返す。

 十二指腸を壊してからはピッタリとアルコールを断った。それから東京と近郊の寺社を歩き回って、「信心」の気持ちを満たしていたようだった。家の食事の世話から生活周りの細々とした雑事もこなし、植木にも身をいれて実によく働いていた。脊椎狭窄症で手術をしてからは、不自由な生活を強いられることになった。寝たきり生活になって、不自由な身を嘆くことがなかったわけではないが、周りに辛さを大声で当たるということはなかった。

 介護の職員からも、他の例を引き合いにして好意的に思われていた。しんどさは当然あったろうに。それは見事な態度というべきで、自分だったらそれができるだろうかと思うことだった。しかし、それは本音に触れていなかったからかもしれない。きっと葛藤があったことには違いない。今になって触れることはできないが、聞いていればよかったこととも、言い切れないかもしれない。良し悪しはともかく、本音を語っても時間がたつと変化するということだってある。

 「傍目」ではわかりきらないが、ともかく40年以上付き合った日常の生活では、裏表はまったくない人だった。その生き方は立派なものだった。病後長い時間だったが、日に日に弱っていく姿に人の終末へのステップの有り様を教えてもらった。

 11回目の緊急入院で、これまで何回かあった危険状態とまた違った状態を感じ、身近な人が集まって見守り言葉を交わした。血圧が回復して小康状態になったことで、いったん家に帰ったが、夜半に再度連絡があって病院に駆け付けた。それが最期の瞬間だった。