2019年5月26日日曜日

二つ目の写真展終えての収穫


 親父が逝ってしまってからちょうど一周年になる。「一周忌」と称する習わしがあるけれども、生前の本人の意向を想いながら時間がたった。自分が死んだらどうしろという言葉を聞くことはなかったし、身近な者は兄弟のみであったがすべて鬼籍に入っている。唯一の身内が風習からは少々外れた散骨の方法をとったのはこんな事情もあった。

 親父が自分の命が終了した後の処し方を決めると言うことも、大正生まれの人間には考えていなかったのかもしれない。もっとも、親父とのこの手の会話がごく少なかったことはある。しかし写真を撮ってくれと言いだしたときもあったわけだから、そのときに話せばよかったと思う。でも終活の「エンディングノート」ってのもあると話しても、面倒だったのかやっぱりそんなこと考えたくなかったのか、その先には話が進まなかった。

 まあそんなものなのかもしれないと、流されるままになってしまった。結果として独断的にやる以外はなかった。この度の写真展で、一周忌的な区切りをしようと思い立った。写真展になじまないのかもと、頭の片隅で心配しつつ、それでも区切りとして実行することにした。

 キャプションに説明不足があって、意図が明確に伝わらないという感想をいただいた。一方伝わってきたよとの感想もあった。写真の前で説明して理解してもらうのでは不備があると自戒。写真自体には受け止めは様々だった。写真の「腕」はこの先も試され続けることになる。もう少し先がありそうだし、「恐れず憂えず」でやっていきものと思う。